038 白いねじと月下の棚
月が高く、雪明かりで前庭まで白んだ夜だった。
公開記録室の見回りを終えたエリシアは、玄関脇でふと立ち止まった。
棚の匂いが違う。
紙と糊と乾いた木の匂いに混じって、削れた金属の冷たい匂いがしたのだ。
二階の公開閲覧室へ上がる。
夜更けの室内は静かで、窓からの月光が長い棚の影を床に落としていた。
帳簿棚は壁に固定してある。転倒防止のため、冬前に白塗りの大ねじで留め直したばかりだった。
そのうち一つが、床に転がっていた。
白いねじ。
先端に新しい木屑。
外れたのではない。外されたのだ。
「サイラス」
低く呼ぶと、階下に詰めていた副官が駆け上がってくる。
彼もねじを見て、すぐ顔を変えた。
「まさか……」
エリシアは棚の列を見渡した。
一本だけではない。月光の筋を追うように視線を滑らせると、奥の三棚で固定具が緩められている。
どれも返金記録と旧救済事業簿のある区画だ。
もし明朝の閲覧時間に人が寄りかかれば、連鎖して倒れる。
紙は潰れ、棚は壊れ、最悪なら怪我人も出る。
そして犯人はきっと言うだろう。
公開などするから危ないのだ、と。
「出入口は?」
「施錠済みです。裏口の鍵も異常なし」
「合鍵を持つ者を全員起こしてください。あと、今夜の見回り表を」
指示を飛ばしながら、エリシアは膝をついた。
ねじ穴の縁に触れる。
書記魔法は紙ばかり相手にするものではない。記録は、残す意志のあるものに宿る。
指先に意識を沈めると、かすかな残響が返ってきた。
焦り。汗。荒い息。
そして、妙に短い左足の歩幅。
「片足を引きずる癖がある」
「分かるんですか」
「全部ではありません。でも、急いでいた。高いところが苦手。棚の上段に手を伸ばすたび、息が乱れている」
サイラスが眉を寄せる。
「そんな者……」
そこまで言って、二人同時に思い当たった。
旧倉庫番補佐のデルフ。
横領摘発の際、崩れた棚の下敷きになりかけて左足を痛めた男だ。
その後、賠償のため木工所へ回されたが、公開返金表が出るたび酒場で悪態をついていると聞いていた。
「木工所」
エリシアは立ち上がる。
「ねじを外す道具も、棚の癖も知っている」
ルシアンが来たのは、その直後だった。
報を受けて外套のまま現れた彼は、床のねじを見るなり事情を理解したらしい。
「囮を置こう」
「囮?」
「直したように見せて、戻ってきたところを押さえる」
採用された。
緩められた棚は応急で補強しつつ、見た目だけ元通りに整える。
閲覧室の灯りは消し、外からは異変が分からないようにした。
エリシア、ルシアン、サイラス、そして夜番の兵二名が影に潜む。
雪明かりの深夜。
やがて裏手の小窓に、かすかな擦れる音がした。
小柄な影が一つ、身を滑り込ませる。
手には短い工具袋。
歩き方はやはり、左がわずかに短い。
男は奥の棚へ向かい、息を殺して手を伸ばした。
その瞬間、ルシアンが影から出る。
「続きは朝にしろ」
男が悲鳴を呑んで振り向いた。
デルフだった。
逃げようとしたが、兵に回り込まれてすぐ膝をつく。
工具袋が落ち、中から白塗りの替えねじが転がった。
偽装用だったのだろう。
「どうしてです」
エリシアが問うと、デルフは顔を歪めた。
「どうしてだと? お前らが余計なことをするからだ!」
吐き捨てるような声が、静かな室内に響く。
「昔はなあ、誰がどれだけ持っていくかなんて、みんな黙ってた! 少し流して、少し見逃して、その代わり急場で融通もきいたんだ! だが今は何もかも表に出す! 返せ、書け、残せ! 息苦しくてたまらねえ!」
「息苦しいのは」
エリシアは一歩近づいた。
「あなたに取られた毛布が届かず、冬を震えた人たちです」
デルフが言葉を失う。
エリシアは続けた。
「公開記録は、人を締めつけるためのものではありません。誰かが“忘れたことにする”ための余地を減らすためにあります。あなたが壊したがっているのは棚ではなく、その余地でしょう」
しばらくの沈黙のあと、デルフは力なく項垂れた。
翌朝。
事件は隠されなかった。
公開記録室の前に掲示が出る。
“昨夜、閲覧室棚固定具への破壊工作あり。犯人拘束。資料無事。午後より閲覧再開。対策として固定具点検表を追加公開する”
住民たちは騒いだが、逃げ場のない透明な報せは、噂が勝手に育つ前に空気を鎮めた。
さらに木工所の職人たちが名乗り出て、午後には新しい補強板と固定具が運び込まれる。
子どもまで見物に来て、サイラスに「今度の棚はもっと倒れないやつ?」と聞いた。
「前よりずっとな」
そう答えるサイラスの声は、少し誇らしげだった。
夜。
修理の終わった閲覧室で、エリシアは新しい点検表に署名した。
その横に、ルシアンが自分の名も記す。
「これでまた余白が減りましたね」
「減っていい余白だ」
月光はもう棚を脅かしてはいない。
白いねじは今度こそ確かに噛み合い、記録の重みを壁へ預けていた。




