第10話 最初の選択
――一つ、決めてみますわ。
その言葉の余韻が、まだ空間に残っていた。
何もないはずの場所。
けれど、確かに“何か”が揺れている。
「……何を、決めるつもりですか」
声は、先ほどと同じ。
だが、わずかに緊張が混じっている。
当然だろう。
ここは“決まる前”の場所。
そして今、わたくしは“決めようとしている”。
――許されていない行為を。
「簡単なことですわ」
わたくしは、空白の帳簿をもう一度開いた。
そこにあるのは、わたくしの名前。
そして。
何もない余白。
「まずは、小さく」
指先を、ゆっくりと紙の上に置く。
触れた瞬間。
感覚が変わる。
冷たい紙の感触ではない。
――流れ。
なにかが、動いている。
「……やはり」
目を細める。
これは、書くものではない。
選ぶものだ。
「あなたは、理解している」
声が、わずかに低くなる。
「ここは、“記録する場所”ではない」
「ええ」
頷く。
「“決める前の可能性”がある場所」
ならば。
「わたくしがすることは、一つ」
迷いはない。
考えも、もう終わっている。
選択するだけ。
「……やめなさい」
声が、初めて強くなる。
制止。
命令ではない。
――恐れ。
わたくしは、ほんの少しだけ笑った。
「なぜ?」
「変わるからです」
「ええ、知っています」
「その変化は、制御できない」
「それも、承知しています」
だからこそ。
「やる価値がある」
静かに言い切る。
沈黙。
止める言葉は、もう来ない。
来られない。
ここは、許可の外側。
そして、わたくしもまた――外側。
「では」
息を整える。
指先に、意識を集中する。
流れを読む。
揺れを掴む。
そして。
「――選びます」
その瞬間。
何かが、確定した。
音はない。
光もない。
だが。
確かに、“決まった”。
帳簿を見る。
そこにあったのは。
変化。
ほんの、わずかな。
だが、明確な。
「……あら」
小さく、息を漏らす。
書かれている。
ほんの一行だけ。
評価。
それは、数値でもなければ、称号でもない。
ただの一文。
『未確定:観察対象』
「……なるほど」
わたくしは、ゆっくりと頷く。
これが。
“最初の選択”。
「あなたは……」
声が震えている。
「自分の評価を、変えたのですか」
「いいえ」
首を横に振る。
「“確定させなかった”だけです」
それが正しい。
ここで完全に決めてしまえば、意味がない。
重要なのは。
――揺らすこと。
「……理解できない」
正直な言葉だった。
わたくしは少しだけ笑う。
「でしょうね」
だが。
理解する必要はない。
「これは、始まりですもの」
帳簿を閉じる。
その瞬間。
空間が、わずかに歪む。
今までとは違う。
明確な変化。
「……来ます」
声が、低くなる。
「何が?」
「修正が」
わたくしは目を細める。
修正。
つまり。
――戻そうとする力。
「面白い」
思わず、そう呟く。
それは、予想していた。
評価は、固定されようとする。
だからこそ。
「どこまで耐えられるのか、見てみましょう」
その言葉の直後。
空気が、裂けた。
見えない圧力。
押し戻そうとする力。
帳簿が、わずかに震える。
「……なるほど」
足を踏ん張る。
だが、身体ではない。
意識。
選択を、保つ。
「消えなさい」
声が、響く。
今までのものとは違う。
強い。
明確な意志。
わたくしは、微動だにしない。
「なぜ?」
問い返す。
「不安定だからです」
「では、安定とは何かしら」
圧力が強くなる。
だが。
まだ、耐えられる。
「決まっている状態です」
「それが正しいと?」
「そう定義されています」
「誰に?」
その瞬間。
圧力が、わずかに揺れる。
――隙。
わたくしは、そこを逃さない。
「答えられないのね」
静かに言う。
その一言で。
流れが変わる。
押し戻す力が、弱まる。
「……不完全だわ」
確信する。
この世界は。
完全ではない。
だから。
壊せる。
「いいでしょう」
息を吐く。
そして。
最後に、もう一度。
選択する。
「維持します」
その瞬間。
圧力が、消えた。
完全に。
静寂が戻る。
帳簿を見る。
そこには、まだ残っている。
『未確定:観察対象』
わたくしは、ゆっくりと笑った。
「成功、かしら」
その時。
背後で、扉が開く音がした。
振り返る。
そこに立っていたのは。
管理者。
そして。
もう一人。
見知らぬ人物。
黒ではない。
白い制服。
整いすぎた姿。
そして。
こちらを見下ろす、冷たい視線。
「……確認しました」
その人物が、口を開く。
「例外の発生を」
空気が、凍る。
わたくしは、静かにその視線を受け止める。
「ルナ・ローゼ」
名前を呼ばれる。
今までとは違う。
評価する側の声。
「あなたは、処理対象です」
その一言で。
状況が、変わる。
完全に。
不可逆に。
わたくしは、ほんの少しだけ笑った。
「――やっと、始まりましたわね」
ここでついに「最初の選択」が行われました。
評価は変えられる。
そして、それに対して“世界側”が反応する。
物語はここから一段階、ギアが上がります。
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次話では、“処理対象”となったルナがどう動くのかを描きます。




