第1話 その評価は、誰が決めたのですか?
スカッとと頭脳戦、両方やります。
最初はテンプレですが、途中から一気に崩れます。
婚約破棄を告げられた瞬間、わたくしが最初に考えたのは、悲しみでも怒りでもなかった。
ああ、ようやく外れるのね。
――何が、とは、まだ誰にも言わないけれど。
王立アストレア学園の大広間は、今夜に限ってよく響いた。
楽団は演奏を止め、貴族の子女たちは扇を閉じ、壁際の使用人たちまで息を潜めている。つい先ほどまで華やかな卒業記念舞踏会だった場所は、わたくし一人を裁く法廷に変わっていた。
中央に立つのは、わたくしの婚約者――第一王子アルヴェルト殿下。
その隣には、春の日差しを形にしたような令嬢、エリシア・ヴァレンティア。
そして少し離れた位置に、まるでお芝居の続きを待つ観客のような顔をした同級生たち。
見事なくらい、配置がよろしい。
断罪劇というものは、舞台が整ってこそ映えるのだろう。
「ルナ・ローゼ侯爵令嬢」
殿下は、よく通る声でわたくしの名を呼んだ。
正確には、名ではなく家名のほうを強く。
「貴様はこれまで幾度となく、エリシア嬢に対する嫌がらせを繰り返した。加えて、成績評価の改竄を示唆する不正な働きかけ、学院内での推薦権の乱用、さらには彼女の名誉を傷つける虚偽の風説の流布。もはや見過ごすことはできん」
まるで練習してきた台詞のようだった。
実際、練習してきたのだろう。王族は人前で噛まない。
けれど、少し順番が悪い。
推薦権の乱用を先に持ってくるべきだった。成績評価の件を先に置くと、聞く者は「侯爵家ならありえる」と思ってしまう。ありえそうなものから始めると、あとに続く罪まで真実らしく見えてしまうのだ。
そういう意味では、殿下は優秀だった。
「何か申し開きはあるか」
周囲の視線が一斉に刺さる。
好奇心、軽蔑、安堵、愉悦。人の目というものは、驚くほど饒舌だ。
その中で、エリシア嬢だけが痛ましげに眉を寄せていた。
彼女は本当に、わたくしを気の毒だと思っているのかもしれない。
だから厄介なのだ。善意ほど、制度と相性のいい暴力はない。
「……申し開き、ですか」
わたくしが口を開いた途端、大広間の空気が少しだけ浮き立った。
泣き崩れるか、怒鳴るか、あるいは殿下にすがるとでも思っていたのだろう。
残念ながら、そのどれも趣味ではない。
「先に確認してもよろしいでしょうか」
「確認だと?」
「はい。殿下が今お並べになった罪状は、すべて“わたくしに相応しい”と判断されたもの、という理解で?」
場が静まった。
どうやら、予想していた返答ではなかったらしい。
殿下は眉をひそめる。
「何が言いたい」
「その評価の根拠を、お聞きしたいのです」
ひそひそと、さざ波のようにざわめきが広がった。
ああ、よかった。少なくとも言葉の意味は伝わったらしい。
エリシア嬢が一歩、前に出る。
「ルナ様、もうおやめください。これ以上ご自分を苦しめる必要はありません」
優しい。
優しすぎて、胸やけがしそうだった。
「苦しめる、ですか」
「……ええ。わたくしは、あなたを責めたいわけでは」
「では、どうしたいのですか?」
彼女が言葉に詰まる。
その一瞬で、何人かが息を呑んだ。
そう。そこなのだ。
責めたいわけではない。憎んでいるわけでもない。けれど、裁きは行われる。
学院の評価記録、社交界の名声、婚約の価値、家の信用。そうしたものを傷つけるだけの“正しさ”が、ここにはある。
「証拠は揃っている」
口を挟んだのは、アルヴェルト殿下だった。
その声は少しだけ硬い。
「これ以上の問答は不要だ。提出された証言、記録、筆跡鑑定、すべて確認済みである」
「そうですか」
筆跡鑑定まで。
思ったより丁寧だった。
わたくしは視線を横へ流す。
壁際に控えている学院書記官が、抱えた書類の角をぎゅっと押さえた。ずいぶんと緊張している。自分の仕事が王子の断罪に使われるなど、今夜だけで寿命が縮んだことだろう。
記録。
証言。
鑑定。
どれも人が決める。
それでも、ここにいるほとんどの者にとって、それは“客観”と呼ばれるのだ。
「否定はしないのだな」
殿下のその問いに、周囲がまたざわめいた。
ええ、そこは驚くところだろう。
「少なくとも、そう記録されるでしょうね」
「ルナ!」
珍しく、殿下の声が感情に揺れた。
わたくしは小さく瞬く。
今ので叱責されるとは思わなかった。事実しか言っていないのだけれど。
「違いますか?」
問い返すと、彼は一瞬だけ黙った。
その沈黙を、見逃さなかった者は少ないだろう。けれど、確かにあった。
ああ。
少しだけ、迷っておられるのね。
だったらなおさら、あなたはここでわたくしを切る。
王子とはそういう生き物だ。迷いながら、最善らしい選択をする。そして選んだあとで、それを正しかったことにする。
わたくしは、その性質をよく知っている。
「ルナ・ローゼ侯爵令嬢」
今度は、学院長が口を開いた。
痩せた老人は、困り果てたように髭を撫でる。
「君のこれまでの振る舞いが、周囲に誤解を招いてきたことは事実だ。今ここで態度を改めれば、処分の内容にも考慮の余地が――」
「まあ」
わたくしは思わず笑ってしまった。
本当に、思わずだった。
学院長がびくりと肩を揺らす。
悪いことをした。
「失礼いたしました。でも、今のお言葉は少々おかしくて」
「……おかしい、とは」
「誤解を招いたから罰せられるのではなく、罰せられるに値すると判断されたから罰せられるのでしょう? 順序を入れ替えてはいけませんわ」
また静まり返る。
空気が、少しずつ冷えていくのがわかった。
殿下の隣で、エリシア嬢が顔を青くする。
彼女はきっと、ここまで刺々しい場にしたくなかったのだ。誰かを救うつもりで、誰かの居場所を奪うことに慣れていない顔をしている。
羨ましいことだ。
「ルナ様……どうして、そんな言い方を」
「では、どんな言い方ならよろしかったのです?」
「それは……」
彼女は答えられない。
答えられないのに、正しい側に立ててしまう。
それもまた、才能だ。
わたくしは大広間を見回した。
見知った顔ばかりだ。これまで同じ教室で学び、同じ舞踏会で踊り、同じ評価表の数字に一喜一憂してきた人々。
みんな、どこかで安心している。
断罪されるのが自分ではないことに。
評価から落とされるのが、自分ではないことに。
わたくしはそれを責めない。
人は誰しも、自分の足元が崩れないことを祈って生きている。
ただ、少しだけ滑稽だと思うだけだ。
「処分を申し渡す」
殿下の声が、今度こそまっすぐに響いた。
「ルナ・ローゼ侯爵令嬢との婚約は、ここに破棄する。あわせて、学院における一切の推薦資格を剥奪。卒業後に予定されていた中央監査局への進路も白紙とし、当面の社交活動を禁ずる。侯爵家には正式に通達する」
十分だった。
十分すぎるほど。
中央監査局。そこに入れば、貴族の評価記録に触れられる。
たとえ末端であっても、“決める側”の書類に近づけた。
けれど、それはもう失われた。
いえ、正確には――今のわたくしには、届かない場所になった。
少しだけ、惜しい。
本当に少しだけ。
「……以上だ。何かあるか」
最後の問いだった。
情けか、形式かは知らない。
わたくしはドレスの裾を持ち、淑女の礼を取った。
ざわめきが広がる。泣き叫ぶでもなく、取り乱すでもなく、礼。
ええ、わたくしだって、自分でも少し嫌味だと思う。
「承知いたしました」
「ルナ様!」
エリシア嬢が思わず声を上げる。
近づこうとした彼女を、殿下が制した。反射的な動きだった。守るように見えるそれは、ずいぶん板についている。
お似合いですこと。
わたくしは顔を上げた。
視線が絡む。
アルヴェルト殿下は、ほんのわずかに目を細めた。その表情を、わたくしは知っている。納得していない時の顔だ。
それでも口にはしない。
だから王子でいられる。
「最後に一つだけ」
誰も止めなかった。
止める余裕がなかったのかもしれない。
「その評価は、誰が決めたのですか?」
答えは返ってこない。
当然だ。今ここで答えられる者などいない。
けれど、何人かは確かに顔をこわばらせた。
学院長。
書記官。
それから、壁際でつまらなそうにグラスを傾けていた見知らぬ青年が、そこで初めて面白そうに目を細めた。
誰だったかしら。
見覚えのない顔だった。
まあ、今はどうでもいい。
わたくしは踵を返す。
背中に無数の視線が突き刺さる。哀れみも、侮蔑も、興奮も、今夜の彼らにはよく似合っていた。
大広間の扉に手をかけたとき、後ろから殿下の低い声が追ってきた。
「……ルナ」
呼び止めるくらいなら、最初から断罪などしなければよろしいのに。
そう思ったけれど、口にはしなかった。
わたくしは振り返らずに答える。
「ご安心ください、殿下。わたくしはもう、困らせませんわ」
扉を押し開く。
夜気が頬を撫でた。春先の風はまだ冷たい。
広間の喧騒が背後で閉ざされる。
静かだ。
あまりにも静かで、耳の奥が痛むほどだった。
階段を一段降りたところで、わたくしはようやく息を吐く。
悲しいわけではない。
悔しいわけでもない。
ただ少し――空っぽだった。
欲しかったものに、手が届かなかった。
欲しくないふりをしてきたものほど、失った時の形がはっきり見える。
それは困ったことに、わたくしにもあるらしい。
「中央監査局……」
口の中で呟いて、自分で少し驚く。
未練があるように聞こえたから。
まったく。
往生際が悪い。
けれど、それでも。
それでも、だ。
わたくしは大広間の扉を振り返った。
あの中には、まだ“決める側”がいる。
わたくしはそこから外された。きれいに、丁寧に、二度と戻れないように。
――本当に?
ふと、口元が緩む。
「……ああ、そう」
そういうこと。
断罪は終わった。
婚約も終わった。
評価も、社交も、進路も、きれいに切り落とされた。
けれど。
だからこそ、ようやく外れたのだ。
評価される側、という檻から。
誰かに値踏みされ、数字と記録で並べられ、相応しいかどうかを決められる場所から。
わたくしはそっと目を閉じる。
胸の奥で、冷えた何かが静かにほどけていく。
「さて」
涙は出なかった。
代わりに、ほんの少しだけ笑えた。
「ここから、どう壊しましょうか」
夜の回廊に、わたくしの声だけが落ちる。
誰も聞いていないはずだった。
「それはぜひ、私も知りたいですね」
知らない男の声が、すぐ後ろからした。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
断罪は終わりましたが、ルナにとってはここが始まりです。
失ったように見えて、彼女は何を「外れた」と思ったのか。
次話で、その違和感が少しだけ輪郭を持ちはじめます。
夜の回廊で声をかけてきた人物が、彼女にとって敵か味方か。
たぶん、そのどちらでもありません。




