絶望
5/30まで、平日(土日祝は休み)に投稿していきます。
◇
「くそっ!」
ブラッツ監査官は、肩で荒い息をつきながら悪態をついた。背後から迫る土埃と鬨の声。一度は振り切ったはずだった。だが、オーク指揮官率いる亜獣の集団――ざっと見て二百はいるだろうか――は執拗に追いすがってくる。単なる烏合の衆であれば、この丘陵の地形を利用して撒くこともできただろう。だが、奴らの動きはあまりにも統率が取れすぎていた。まるで熟練の将に率いられているかのように。
(よもや、ここまで追い詰められるとはな)
無精ひげの目立つ端正な顔は、泥と汗に汚れ、疲労の色にまみれていた。四十路を迎えたばかりの壮年――ブラッツは、腰に佩いた長剣の柄を強く握りしめた。
「いいか、貴様ら! 避難民を優先して逃がせ! ドルフ村はもう目と鼻の先だ、決して諦めるな。我らが時間を稼ぐ!」
振り返り、必死に逃げる非戦闘民たちに檄を飛ばす。布を被っただけの者、わずかな荷物を背負う者、幼子を抱く母親。彼らの目に浮かぶ恐怖の色に、ブラッツは己の不甲斐なさを噛みしめる。
「護衛兵は俺に続け! あの醜悪なオークどもに、帝国の意地と聖霊の鉄槌を見せてくれるわ! 聖霊と女神の慈悲があらんことをっ」
鬨の声を上げ、ブラッツは自らを奮い立たせながら駆け出した。付き従うのは、歴戦の護衛兵とはいえ僅か十余名。空いた片手で、ブラッツは自らの胸に下げたペンダント――鳥の二対の羽が合掌する形の、古びた銀細工――に触れる。聖霊信仰の証。息を吸い込み両目をかっと見開いて、迫りくる亜獣の群れに向かって大きく咆哮した。
「うおおおおっ!」
壮絶な、そして絶望的な撤退戦が始まった。
国境都市マジルを発ってから八日。オークどもの襲撃の混乱に乗じて都市を脱出できたのは、幸運であり、そしておそらくは聖霊の導きだったのだろう。ブラッツがこの時期に、しかも抜き打ちで辺境の国境都市マジルを訪れていたのは、帝国中枢――アームシュバルツ公爵がドワーフ王国と結託し、何か不穏な動きをしているという情報を掴んだからだ。その証拠を掴むため、所属する聖霊教会聖地派の幹部にだけ話を通し、表向きの視察理由を用意してもらって乗り込んだのだ。
(まったく、タイミング良く襲撃が起こるものだ、なあ?)
迫るゴブリンの蛮刀を弾き返し、逆袈裟に斬り捨てる。鮮血が舞った。何体目だろうか。ドルフ村を目指しているのは、胸のペンダントが囁き続けているからだ。そのペンダントは微かに熱を持って断片的なイメージ――祠、刀、そして両目に不思議な模様を浮かべた少女――をブラッツに伝え続けている。国境都市に着いてから始まったこの予兆。すなわち聖霊の導きにほかならない。本来の目的(公爵の陰謀調査)からは外れるが、聖霊に仕える者としては、この囁きを無視することはできなかった。
ドルフ村に関する資料は、マジルの地下大書庫の隅にゴミのように打ち捨てられていた。アームシュバルツの支配下では、聖霊信仰、特に聖地派は冷遇されている。だが、幸運にもその資料と、偶然出会ったドルフ村周辺を縄張りとする商人親子と出会うことが出来た。その親子の話と資料を照合して、彼の地が特別な「聖霊の地」であることを突き止めるに至ったのだ。それからは、いてもたってもいられずドルフ村への出立準備を進めていた矢先にオークの襲撃が始まった。準備をしていたからこそ迅速に脱出できた。もちろん多くの避難民と共にだ。これもまた、聖霊の導きに違いない。
「ぐっ!?」
「監査官様!」
「新手かっ!? くそっ、オーク指揮官だけじゃなく、存在強度3のコボルドまでいるとはな」
護衛兵の一人が、曲刀を振るう大柄なコボルドに斬り伏せられる。敵の中核はオークの指揮官一体だけではなかった。同格の実力を持つコボルドがもう一体。これは完全な誤算だった。国境都市から逃げる道すがら、他の襲撃された村の生存者を救助し、合流してきた。その結果、避難民の数は膨れ上がり、足手まといとなって機動力が著しく低下していた。そこを、この統率された亜獣の精鋭部隊に捕捉されてしまったのだ。
「監査官としての調査任務は慣れていたが・・・これほどの大集団を率いての撤退戦は、完全に素人だったということか!」
自嘲の笑みが漏れた。だが、すぐに表情を引き締め、剣を握り直す。後悔している暇はない。ブラッツは無意識に胸のペンダントを掴んでいた。絶体絶命。このままでは全滅してしまう。守りながら戦うということが、これほどまでに困難だとは! それでも、見捨てるわけにはいかない。この者たちを、聖霊の地に導かねばならない。我々護衛隊がここで敵を押しとどめ、あわよくば指揮官を討つ。それが唯一の活路だった。ここで失敗すれば、戦火はドルフ村にも及ぶ!
(もはや、我が身命に代えてもっ!)
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