帝国に巣くう蠢動
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柔らかな陽光が差し込む瀟洒なティーハウス。磨き上げられた窓ガラスの向こうには、丹精込めて手入れされた広大な庭園が広がっていた。古今東西から集められた花々が咲き誇り、計算され尽くした配置はその彩りを楽しませる。財の限りを尽くした、まさに贅を極めた空間が広がっていた。だが、この庭園の主にとっては日常の風景でしかなく、これらの華やかさも些事に過ぎなかった。
ここはフェルニ帝国の政治を実質的に掌握すると言われる五領会議の、その筆頭アームシュバルツ公爵の私的な別邸である。
透き通るような白磁のカップに注がれた、琥珀色の紅茶。その芳醇な香りをゆっくりと味わうように、公爵が一口含む。まるでその行為を賛美するように、庭園から小鳥たちの澄んださえずりが聞こえた。優雅さを極めた物腰、洗練された美貌――世間からはそう称賛される男。しかし、その磨かれた外面の奥に隠された本質を知る者は少ない。
「アームシュバルツ様。例の件に関する報告が届いております」
音もなく背後に控えていた執事が、恭しく一礼し、小さな羊皮紙の封書を銀盆に乗せて差し出した。その所作には一分の隙もない。
「ふむ」
公爵は庭園から視線を移さぬまま、軽く顎を引く。執事は心得たように封を切り、中の報告書を取り出して公爵に手渡した。公爵はそれに素早く目を通すと、短く鼻を鳴らした。そして、報告書を持つその手に淡い光が集まり――次の瞬間、紙片は音もなく灰すら残さずに火の粉となって消え失せる。聖霊魔法による証拠隠滅。その一連の動きすら、磨き抜かれた芸術のように美麗だった。
「技術を手に入れるには、通商条約などというものは回りくどい。古臭いとは思わないか?」
公爵は、執事の存在を意に介さぬように、再び庭園に目を向けながら独り言のように呟いた。
「はっ。仰る通りと存じます。しかしながら、ドワッフ王国との通商条約締結は、先々代のアームシュバルツ公爵閣下が多大なご尽力の末に勝ち取られた成果。これにより、表向きは友好的な通商関係を維持しつつも、実質的にはかの国の生命線たる鉱物資源の採掘権を独占し、さらには帝国からの専門官を受け入れさせるという義務を課しております。現状でも、我がアームシュバルツ家、ひいては帝国の国益に大きく貢献しておりますが・・・」
執事は主人の真意を探るように、慎重に言葉を選ぶ。
「ふん。資源も技術も、欲しければ力で奪い、丸ごと手に入れれば済む話だ」
公爵は冷ややかに言い放つ。その言葉に反論する者は、この場にはいない。執事もまた、主人の意向に対する見解を求められているわけではないことを理解していた。ただ、主人の次の言葉を待つのみである。主従の間には、長年培われた阿吽の呼吸、あるいは絶対的な力関係に基づく「予定調和」が存在していた。
公爵は、執事が静かに差し出したポットから、再び紅茶がカップに注がれるのを待った。そして、カップを半分ほど口にしたところで、ふと興味深げに目を細めた。
「・・・やはり、かの地でも『天幻』が起きたようだな。まったく、古代遺物とやらの再現は、どうやら『神』がお許しにならないらしい」
「っ! だ、旦那様! その御言葉は・・・」
執事の声が、わずかに震えた。聖霊教会がその名を口にすることすら固く禁じている存在――「神」。その名を、主人はあまりにも容易く口にした。背筋に冷たい汗が流れるのを感じながら、執事は必死に平静を装う。
「何を慌てている。ここには私とお前しかいない。忌まわしい聖霊教会の詮索好きな耳も、な」
公爵は執事の動揺を面白がるかのように、くつりと喉を鳴らした。
「ですが、あまりにも・・・」
「使えるものは使う。それが何者であろうと、だ。利を得るためには当然のことだろう? 違うか?」
その言葉には、有無を言わせぬ圧があった。
「いささか、強すぎる毒かと・・・愚考いたします」
執事は、最大限の敬意と、そして自身の保身も含めた上で、かろうじてそう答えるのが精一杯だった。
「くくく。毒は強いほど効くものだ。大いに結構ではないか」
公爵は心底楽しそうに笑い、空になったカップを執事に差し出した。執事が再び恭しく紅茶を注ぐのを満足げに見やりながら、アームシュバルツは庭園の最も美しい一輪に視線を定めた。
「国境都市は壊滅したそうだな。ふむ、まあ良い。安いものだ。ドワーフどもが愚かにも『天幻』を呼び起こしてくれたおかげで、計画が早まった。この混乱に乗じて、かの矮躯どもの王国とその魔動器技術を、根こそぎ手に入れるとしよう」
その言葉は、国境都市で生活する十万の民の命を「安いもの」と言い切る。冷徹さが優雅なティーカップから顔を覗かせていた。
計画は既に動き出している。
国境都市の警備を手薄にさせたのは、この私だ。ドワッフ王国との国境砦も、都市守備隊も、その主力を『演習』の名目で遠隔地へ移動させてある。全てはこの時のため。オークとやらの出現は想定外だったが、むしろ好都合。奴らが都市を蹂躙し尽くした後で、温存しておいた我が兵力を投入し、『解放者』として都市を回復する。そして、そのまま襲撃の原因たるドワッフ王国に侵入する。『ドワーフ王国保護』を名目に国境を越えればいい。ありきたりだが、単純ゆえに効果のある策だ。兵士たちも、奪われた同胞の地を取り戻すという大義名分があれば、士気も上がるだろう。不測の要素はない。
「恐れながら、アームシュバルツ様」
執事が、わずかに躊躇いがちに口を開いた。
「国境都市には現在、聖地派の監査官が視察のため滞在しておりますが、助けますか?」
「監査官だと? ・・・ああ、あのブラッツか」
公爵の端正な眉が僅かに動いた。
「いや、好都合だ。放置しろ。あれは何かと五月蠅い。目の前から消えてくれるなら、せいせいする」
公爵は紅茶を一口含み、冷たい笑みを浮かべた。(ブラッツ監査官。聖霊教会の中でも特に厄介な、聖地派の犬か。これまで幾度となく私の邪魔をしてくれた。謀殺を試みるも、ことごとく鼠のように逃げおおせてきたが)
「そうか、奴がまだ都市にいるのか。どうやら聖霊の加護も潰えたとみえる。実に幸先がよい」
公爵は呟いた。
「ならば、国境都市の『解放』はもう少し待つとしよう。オークどもに、もう少しだけ、彼の地を蹂躙させておくべきだな。監査官殿には存分に地獄を味わっていただこうではないか。・・・それこそオークの餌にでもなれば僥倖というものだ」
執事は主人の冷酷な判断に、内心の動揺を悟られぬよう、ただ無言で控える。
「それで、皇帝陛下へは、どのようにお伝えいたしましょうか?」
しばしの沈黙の後、執事が感情を押し殺した声で尋ねた。
「ふむ。陛下には、私が直接説明に伺おう。あの老人もドワーフの技術には目がなさそうだからな。上手く言いくるめられるだろう。・・・私が不在の間、これ以後は全て計画通りに遂行しろ。抜かるな」
「御意」
執事は深く頭を垂れた。その脳裏には、主人の異名が浮かんでいた。――血染めのアームシュバルツ公爵。齢二十半ばにして、謀略と力でアームシュバルツ家の当主の座を掴み取り、邪魔者は実の兄であろうと容赦なく排除した男。帝国の主戦派を束ね、常に力による覇道を突き進む。今回の国境都市の悲劇すらも、彼の壮大な野望――ドワッフ王国併合、そしてその先にある南海の制覇、さらには目の上の瘤である聖霊教会の支配――のための、計算された布石の一つに過ぎない。帝国の権勢は、今やこの男の手の内にあると言っても過言ではない。彼の「我が世の春」は、まだ始まったばかりなのだ。
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