第5話
「……で、xとyがここで交わった場合……」
一時限目はクラス担任でもある柴田綾子担当の数学だった。彼女は黒板へ向かい、数式を書き込んでいる。
「なぁ、どうしたらいいと思う?」
「何がだよ」
悠太は綾子が背を向けた隙をついて、前席の大輔の背中を突っついた。
大輔はといえば、教科書やノートを机の上に並べ立てて真面目に授業を聞いているのかと思いきや、隠し持っていた雑誌を夢中になって読み耽っている。
「さやかに勝つにはどうしたらいいと思う?」
「……やっぱりお前、何も考えないであんな約束をしたんだな」
「俺、このままだと勝てそうにないんだけど」
悠太は机の上に突っ伏した。大輔はそんな彼を一瞥する。
「別に負けてもいいんじゃないか」
「やだよ。そんなことになったら俺、超カッコ悪りぃ」
放課後に悠太とさやかは格闘勝負をすることになった。
彼はクラス全員が注目する中で宣言してしまったのだ。負けたらさやかの言うことを何でも聞くと。
逆にさやかも自分が負けたら、悠太の命令を聞くと言ってきた。
続けて調子に乗った悠太は「一日中扱き使ってやる!」と吼えたのだが、さやかのほうは涼しい顔で
「じゃあ、あんたには一日中、女装で過ごしてもらおうかしら」
と返してきたのである。
これに歓声を上げたのは、クラスの女子たちだった。どうやら彼女たちは以前から悠太に目を付けていたらしく、女物の服を着せたくてウズウズしていたらしい。
男子は男子で面白がって、どちらが勝つか賭けようという話までしていたのだが、全員がさやかに入れたために賭が成立せず、取り止めになるという事態になっていた。
皆、さやかが勝つと思っているのだ。
「ま、諦めるんだな。俺はお前の女装姿をまた見られるのが、スゲー楽しみなんだぜ」
大輔は肩越しからそんなことを言ってきた。元から垂れている目尻を更に下げ、口元にはいつもの笑みを浮かべている。
「くっそー、他人事だと思って!」
悠太は恨みがましい視線を投げつけたのだが当の大輔は意に介す様子もなく、机の中から再び雑誌を引っ張り出して読み始めた。今度は先程まで読んでいた写真集ではなく、漫画雑誌のようだった。
悠太が負けた時には、クラス女子全員の餌食にされるのは間違いなかった。彼女たちの様子を見れば安易に想像がつく。悠太にとってそれは、屈辱以外の何物でもない。
「なぁなぁそれより、この3人の中では誰が一番可愛いと思う?」
「はぁ!? 何だよ、人が真剣に悩んでいるってのに…」
文句を言いつつも、こちらへ見せるように広げられたグラビアを覗き込んだ。
場所は海岸であろうか。砂浜で色とりどりのビキニを着た十~二十歳代くらいの若い女性3人が手を繋ぎ、はしゃぐように立っていた。
彼女たちは水面を蹴っているのか、足元から真正面へ向けて水飛沫が放たれている。どうやらその瞬間を捕えた写真のようだった。
「やっぱりこの中だとみずっきぃが、ダントツで可愛いよな。胸だって一番大きいしさ。それにこの腰の括れ具合とか、ボディラインのエロさには誰も敵わないぜ」
何処かのエロオヤジみたいなことを言いながら、大輔は恍惚とした表情でグラビアに見入っている。
改めて女性たちをよく見てみれば、確かにセンターには七宮みずきの顔があった。だが悠太は名前を言われるまで、彼女がそこにいたことに全く気付いていなかった。
先程のセクシーな表情とは打って変わって、二十歳という等身大のあどけなさの残る笑顔である。彼にはそれが別人のようにも見えたので、一目見ただけでは顔の判別ができなかったのだ。
結局お前の基準は身体だけかよ、と思う悠太だったのだが。
「そぉかぁ? 俺は右のほうが可愛いと思うけどな。でも確かに胸は七宮みずきのが、一番デカいけどさ」
くびを捻りながら覗き込んだ。
「ほぉ? お前、胸のデカい女が好きなのか」
「まぁ、大きすぎるのはあんまり好みじゃないけど、ナイよりはあったほうがいいに決まって……」
刹那、悠太は凍り付いた。その声が頭上から聞こえてきたことに気付いたからだ。
血の気の引いた顔を、恐る恐る上へ向けてみる。
そこには予想通り、柴田綾子が鬼のような形相で見下ろしていた。
「ゲッ、シバセン…」
呟いた途端、二人の頭が同時に叩かれる。筒状に丸められた教科書で叩かれたので、実に軽快な音がした。
「あたしの授業中にそんなものを見ているなんて、いい度胸してるじゃないか」
仁王像のように佇む綾子の全身からは、悠太でも感じ取れるほどの迸るような殺気が放たれていた。
「これは没収な」
言うが早いか、大輔の元から雑誌を取り上げる。反論する間さえ与えられなかった。
綾子はそのまま2冊を見せびらかすように頭上へ掲げると、クラス中に響き渡るような声で言った。
「お前らもいいか!
こんな物を学校に持ってきたら、即没収だからな!!」
クラス中が一斉にどよめいた。
「坂井君て、みずっきぃが好きだったの?」
「女の子みたいな顔をしていても、やっぱり男だったのね」
「なんかショック~」
女子たちの間からは、こんな声も聞こえてくる。
彼女たちから向けられる氷のような視線を感じ取った悠太は、自分の中で今まで築き上げてきた何かが、ガラガラと音を立てて崩れていくような感覚がしていた。
「それと坂井、湯原。昼休みに進路指導室へ来い。授業中にエロ本読んでた罰として、みっちりと指導してやるからな」
綾子がきつい口調で更に続けて言うと、大輔が反論した。
「先生、それエロ本じゃないよ。昨日発売されたばかりの七宮みずきファースト写真集『limited』だ!」
どうやら彼は『エロ本』という言葉に反応したようである。しかも何故か胸を張るように自信に満ち溢れ、堂々とした顔付きをしているようにも見えた。
だが口答えしたその頭は当然の如く、再び殴られる運命ではあったのだが。