第28話 そのダンスは、混乱があふれ出ていました (後編)
二組の踊りは、まさに対照的で有ながら、どちらも素晴らしく洗煉されていた。
第二王子とマリエンヌの、まるでお手本のような素晴らしいダンス。そこには、楽しさが溢れていた。
第一王子とエレノアの……まるで演武のような華麗なダンス。そこには、緊張感が溢れていた。
◆ Eleanor side
レオン殿下の手は、腹立たしいほど正確だった。
触れすぎない。
離れすぎない。
王宮の灯りの下で、もっとも“正しい距離”を、何でもないことのように保ってくる。
(……本当に、こういうところだけは)
私は心の中で毒づきながら、彼の導きに合わせて一歩目を踏み出した。
滑る。沈む。返す。
床を蹴るというより、床に置いた重心を次の拍へ渡していく感覚。
隣のジュリアン殿下とマリエンヌの組は、教本の挿絵のように整っていた。
姿勢、距離、速度、視線。
初々しさはあっても、そこにあるのは“正しさ”だ。
この場で求められる模範として、ひどく美しい。
一方で、私とレオン殿下の間に流れるものは、そういう種類の美しさではなかった。
緊張。
牽制。
読み合い。
先に半歩出るか、あえて遅らせるか。
目を合わせるか、合わせないか。
まるで踊りながら、互いの手札を探っている。
なのに、崩れない。
踏み込みは鋭いのに乱暴ではなく、返しは速いのに軽くない。
すれ違う刃のような迫力がありながら、形として見えるのは、あくまで華麗な社交の曲線だ。
(……演武みたい)
そんな感想が浮かんだ瞬間、自分で少しだけ可笑しくなる。
可笑しいのに、まったく笑えない。
この人と踊ると、少しでも気を抜けば、本当に斬られそうな気がするからだ。
「表情が硬い」
低く、微かに、レオン殿下が言った。
口元は笑っている。
外から見れば、優雅に何か囁いているだけだ。
「殿下のせいですわ」
私は即座に返す。
返しながら、ターンへ入る。
その瞬間、裾の重みがわずかに遅れた。
ほんの少し。
本当に、ほんの少しだけ。
けれど、その“ほんの少し”で、次の軸が狂いかける。
(……っ)
立て直す前に、レオン殿下の手がごく自然に支えを変えた。
引くのではなく、こちらの重心が戻る位置へ、自分の動きを半拍だけ合わせてくる。
誰にも分からない。
分かるのは、当事者だけだ。
私は何事もなかったように次の一歩へ移った。
移りながら、胸の奥で小さく舌打ちする。
(拾った)
助けられた、とは言わない。
そんな言い方は癪だ。
ただ、拾われた。
それも、腹立たしいほど綺麗に。
「助かりましたわ、と言っていただいても構わないのだが」
「思い上がりもほどほどになさい」
「手厳しいな」
声は穏やかだ。
だが、互いに一歩も譲っていない。
……そのくせ。
次の拍で、今度はレオン殿下の方がわずかに早かった。
早すぎた、というほどではない。
普通の相手なら問題にならない程度の、ほんのわずかな前のめり。
けれど、この人の動きとしては珍しい。
私の身体が、考えるより先に動いた。
引かれる前に重心を寄せ、彼の速さに合うように軸を調整する。
結果として、動きは乱れず、むしろ勢いのある流れに見えた。
一拍遅れて、私は気づく。
(……今、私)
助けた。
いや、違う。
違わない。
無意識に、彼の動きを拾っていた。
胸の奥が、別の意味でざわついた。
レオン殿下も気づいたらしい。
視線が一瞬だけこちらへ落ちる。
正面からではない。
でも、その一瞬だけで十分だった。
「……借りができたな」
「勘違いしないことですわ。見苦しいのが嫌いなだけです」
「そうか。私はてっきり、息が合ってきたのかと」
私は答えなかった。
答えられるはずがない。
息が合っている。
そんな言葉を、この人の口から、こんな時に聞きたくなかった。
聞いてしまったら、意識してしまうからだ。
今まで無意識にやっていたことを、意識した瞬間に崩れそうになる。
私は視線を少しだけ外し、代わりに隣の組を見た。
ジュリアン殿下とマリエンヌ。
あちらはやはり、きれいだ。
教本通りで、正しくて、少し初々しい。
手本として人に示すなら、あちらの方がずっと良い。
それに比べて、私たちは何だというのだろう。
視線を合わせない。
余計なことを言う。
少しでも隙を見せれば、相手の一言で腹が立つ。
なのに、足はぴたりと合う。
(……最悪)
そう思ったのに、どこかで少しだけ誇らしくもある自分がいて、なおさら腹が立った。
曲が中盤へ入る。
旋律が少しだけ強くなり、歩幅も広がる。
私は呼吸を整え、レオン殿下の手の圧を感じ取る。
次にどちらへ流れるか。
回るか、止めるか。
言葉より先に分かってしまう。
その“分かってしまう”ことが、たまらなく厄介だった。
「……何ですの、その顔は」
「いや。お前は本当に、踊っている時まで容赦がないと思ってな」
「殿下こそ。勝手に割り込んでおいて、よく言えたものですわ」
「勝手ではない。政治的判断だ」
「苦しい言い訳ですこと」
「お前が言うか?」
外から見れば、きっと仲良く囁き合っているように見えるのだろう。
それがいちばん腹立たしい。
だが、その腹立たしささえも、今は曲の中に押し込めるしかない。
一歩、半歩、返し、流す。
私たちは互いに譲らず、互いに拾い合いながら、王宮の中央で踊り続ける。
教本通りの美しい組と、
教本には載せられない種類の美しい組。
今夜、どちらがより人の記憶に残るかと問われれば――
たぶん、後者だ。
それが少しだけ、悔しかった。
◆ Leon side
エレノアと踊るのは、ひどく疲れる。
一歩先を読む。
半歩ずらされる。
拾ったと思えば拾い返される。
牽制しているつもりで、いつの間にかこちらが試されている。
なのに――楽しい。
その事実に気づいた瞬間、私は心の中で顔をしかめた。
(違う)
これは楽しんでいるのではない。
気分が高揚しているだけだ。
祝宴の場で、王宮の中央で、互いに一歩も譲らず踊る。
その“政治的攻防”が、思った以上に身体を熱くしているだけだ。
そうだ。
これは剣を交えているのと同じだ。
緊張感がある。迫力がある。読み合いがある。
その高揚を、私が勝手に“楽しさ”と誤解しかけただけ。
(そういうことだ)
私はそう結論づけ、次の一歩を踏み込んだ。
エレノアもまた、何でもない顔でそれに応じる。
この女は本当に厄介だ。
少しでも隙を見せれば、そこへ針を差し込んでくる。
だが、針を差し込まれた側が、それを嫌がるばかりか、どこか面白がっているようでは話にならない。
「……何ですの、その顔は」
「いや。お前は、本当に容赦がないと思ってな」
「今さら気づいたのですか」
「今さらではない。再確認だ」
「結構」
返事は冷たい。
だが足は乱れない。
むしろ、その冷たさごとこちらの拍に噛み合ってくる。
……やはり、最悪だ。
隣ではジュリアンとマリエンヌが踊っている。
あちらは教本の挿絵のような美しさだ。
正しく、整っていて、誰が見ても“良い組み合わせ”に見える。
それに比べれば、こちらは何だ。
互いに視線もまともに合わせず、口を開けば棘ばかり。
なのに、外から見ればこれもまた“息が合っている”ように映るのだから、腹立たしい。
いや――腹立たしいのは、そう見えることではない。
そう見えるだけの事実があることだ。
曲は終盤へ向かう。
強くなった旋律が、最後の見せ場へこちらを押し上げていく。
エレノアの手の温度が、まだそこにある。
距離は正しい。
触れ方も正しい。
なのに、それが少しも“無機質”ではないのが、また困る。
(……落ち着け)
私は王子だ。
しかも、第一王子だ。
こんなところで、元婚約者と踊った程度で心を乱してどうする。
最後の回転。
足を止める位置も、決めの角度も、ほとんど同時だった。
エレノアが僅かに顎を引き、私も呼吸を合わせる。
まるで最初から、そう決まっていたかのように。
曲が終わる。
四人がそれぞれ、最後の決めの姿勢を取る。
拍手が起こった。
その音を聞いた瞬間、私は妙な空白を覚えた。
(……あ)
終わった。
そう思うと同時に、胸のどこかが“惜しい”と感じている。
惜しい?
何がだ。
ダンスがか。
祝宴の見せ場がか。
政治的に上手く収まった流れがか。
――違う。
その答えが形になる前に、私は反射でエレノアの手を離した。
離しながら、内心で自分に毒づく。
(馬鹿か、私は)
惜しいわけがない。
惜しいなどと思う理由がない。
これはただの一曲だ。
ただの政治だ。
場を整え、弟を立て、王宮に見せるべきものを見せた。
それで十分だろう。
十分であるはずなのに、まだ胸の奥がざわついている。
ざわつくから、私はその場を自分で壊すように、前へ一歩出た。
そして、冗談めかした顔を作る。
「弟のために集まってくれて感謝する」
拍手が少しだけ収まる。
人々の視線が、改めてこちらへ集まる。
助かった。
視線は、人を王子に戻してくれる。
「弟は――私と王位を争うだけの才気を持つ」
ざわめきが走る。
笑いも混じる。
祝宴の場にしては、少しばかり刺激が強い。
だが、それでいい。
今の私は、何か喋っていないとまずかった。
「弟のために、踊ってやってくれ」
軽く言った。
軽く言ったつもりだった。
だが、自分の声の奥に、妙な熱が混じっているのが分かった。
エレノアから離れたばかりの手が、まだ少し熱い。
その熱をごまかすために、私はさらに笑みを深くした。
周囲はそれを、“兄らしい冗談”だと受け取ったらしい。
ある者は笑い、ある者は感心し、ある者はますます兄弟の均衡に色を見た。
……それでいい。
そう誤解されるなら、それでいい。
私は半歩退き、エレノアから距離を取る。
取ったはずなのに、胸の中のざわつきはなかなか静まらなかった。
(政治だ)
私は、最後にもう一度そう言い聞かせる。
(これは、ただの政治的高揚だ)
そうでなければ困る。
困るから、そういうことにしておく。
そして私は、次に誰が踊り始めるのかを見渡すふりをしながら、
ほんのわずかにだけ――
さっきまで隣にいた女の気配が遠のいたことを、惜しんでいる自分を見ないようにした。




