第25話 氷の令嬢は、男爵令嬢の胸の高鳴りを見逃さない
ジュリアン殿下が入場した瞬間、広間の空気が一段、深く沈んだ。
静まり返ったわけではない。
ざわめきは残っている。グラスも鳴るし、笑い声だって消えない。
けれど“無遠慮さ”だけが、すっと引いた。
――悪くない。
私はグラスに指を添えたまま、視線だけで彼を測る。
主役としての歩幅。王と王妃へ向ける礼の角度。
場を支配しすぎず、しかし支配から逃げもしない立ち方。
以前の私なら、こういう場面での彼を「整っている」とだけ評しただろう。
行儀が良く、そつがなく、扱いやすい。
王妃の隣に置くには、可もなく不可もない――その程度に。
だが今は違う。
彼は、必要なものと不要なものを切り分けている。
祝辞を受け取る時の頷き方一つにしてもそうだ。
誰の言葉を深く受け、誰の言葉を儀礼の範囲で流すのか。
その判断が、思ったより速い。
しかも、それを“感じの良さ”で包んで隠している。
実務型。
整える者。
耐える者。
そして、無駄に全部を抱え込まない者。
……なるほど。
少なくとも、ただの“良い子の王子様”ではない。
私は、ほんの少しだけ視線を横へ滑らせた。
隣のマリエンヌが、いつもより呼吸を浅くしている。
肩は上がっていない。
姿勢も崩していない。
けれど、視線の置き方にわずかな熱がある。
(……あら)
浮ついている。
本人は隠しているつもりなのだろうが、隠しきれていない。
ジュリアン殿下の入場に合わせて、胸の内で何かが跳ねたのが、手に取るように分かる。
未熟。
けれど、年相応とも言える。
王宮の祝宴で、同年代の王子が主役として現れれば、少しばかり胸が騒いでも不思議ではない。
不思議ではない、が。
(後で釘を刺しますわ)
私は内心でそう決める。
浮ついたまま公の場に立てば、本人が恥をかくだけでは済まない。
誰かの都合の良い“恋する娘”にされて終わる。
それは駄目だ。
王妃候補は、視線を集めても、視線に酔ってはならない。
手を差し伸べられても、その手の意味を先に量らなければならない。
好意か、打算か、演出か。
少なくとも、その区別もつかないまま頬を染めるようでは話にならない。
……まったく。
私は無意識のうちに、心の中で小さく鼻を鳴らした。
自分なら、そんなことにはならない。
たとえ――そう、たとえあの第一王子が、こちらを見たとしても。
たとえあの人が、あの妙に人を食った笑みで近づいてきたとしても。
私は、こんなふうに簡単に胸を高鳴らせたりしない。
私は、彼を政治の相手として見ている。
好敵手として見ている。
それだけだ。
……それだけのはずだ。
「エレノア様……」
ごく小さな声で、マリエンヌが呼ぶ。
私は視線を正面に固定したまま、返した。
「何ですの」
「いえ、その……」
言葉が揺れる。
視線を落として、上げて、また落とす。
分かりやすい。
この子は本当に、分かりやすい。
私はようやく彼女を見た。
頬の熱を隠そうとしているのに、耳まで少し赤い。
――後で叱る。そう決めた。
「落ち着きなさい」
声はいつも通り、低く、冷たく。
けれどマリエンヌは、それだけで少し呼吸を整えた。
私の声を、叱責ではなく“型”として受け取るようになってきている。
悪くない成長だ。
「……申し訳ありません」
「謝罪は不要です。修正なさい」
言いながらも、私の視線は再びジュリアン殿下へ戻っていた。
さて。
王妃候補の伴侶として見た時、この男はどうか。
悪くはない。
むしろかなり良い。
派手な覇気はないが、王妃が隣に立つことで完成する種類の王だ。
自分一人で舞台を壊すことはない。
だが、隣に立つ者の質によって、統治の完成度が大きく変わる。
そういう意味では、マリエンヌとの相性は悪くないかもしれない。
彼女の真っ直ぐさを、あの男は削らずに使うだろう。
使い方も、きっと乱暴ではない。
――少なくとも、壊しはしない。
そこまで考えたところで、ジュリアン殿下がこちらへ歩いてくるのが見えた。
主役として、自然な動き。
挨拶の流れとしても不自然ではない。
それでも、こちらへ向かう一歩一歩に、周囲の視線が乗る。
マリエンヌの呼吸が、またわずかに乱れた。
(本当に、分かりやすい子)
私は軽く顎を引き、彼女の横顔を見ないまま言う。
「背筋を」
「……はい」
短く答える声が、少しだけ上ずっている。
やはり、後で叱る必要がある。
そう思いながら私は、何の疑いもなく、こう結論づけていた。
ジュリアン殿下は、王妃候補の隣に立つ資質を持っている。
マリエンヌは、その視線に少し浮つきすぎている。
私は、それを正さなければならない。
そして――私は、あの第一王子を見ても、こんなふうに心を乱したりはしない。
そう、本気で思い込んだまま。
私は、近づいてくる第二王子を静かに迎え撃つ準備を整えた。
――その時。
広間の入口側で、空気が裂けた。
音楽が止まったわけではない。
人の声が完全に消えたわけでもない。
それなのに、場の温度だけが一度に変わる。
(……何)
私は反射的にそちらを向いた。
そこにいたのは――レオン殿下。
思考が、一瞬だけ止まる。
来るとは聞いていなかった。
いや、王と王妃だけには話を通している可能性はある。
あの人なら、そのくらいはやる。
けれど少なくとも、私には知らせていない。
(そういうところよ)
胸の内で毒づきながらも、私は視線を逸らせなかった。
王宮の光の中に立つ彼は、驚くほど堂々としている。
……少しだけ、癪に障るほどに。
王が立ち上がり、「……よく参った」と迎える。
父としての顔と、統治者としての顔が、同じ皺に重なっているのが遠目にも分かる。
レオン殿下は、それに応えるように一礼した。
そのまま、まっすぐこちらへ来る。
(……ちょっと待ちなさい)
私の中で、別の意味のざわめきが起こった。
ジュリアン殿下がこちらへ向かってきていた。
そこへレオン殿下が割り込んでくる。
この状況で、あの人が何をするか――
一瞬だけ、まさか、と思う。
(私とジュリアン殿下を踊らせる気?)
胸の奥が、妙にざらついた。
不快感とも違う。
腹立たしいような、落ち着かないような、説明しづらい濁った感情。
そんな采配、政治的には最悪だ。
第二王子の誕生パーティーで、第一王子の元婚約者と第二王子を組ませる?
露骨すぎる。
場を読んでいないにも程がある。
……いや。
レオン殿下がそこまで鈍いとは思えない。
思えないのに、どうしてこんなに落ち着かないのか。
自分で自分に苛立ちかけた、その瞬間。
「せっかくだから、マリエンヌはジュリアンにリードしてもらえば良い」
……は?
私は目を細めた。
隣のマリエンヌが、ぱちぱちと目を瞬く。
ジュリアン殿下も、一拍遅れて驚いた顔をする。
そして私は、ようやく息を吐いた。
……そう来るのね。
マリエンヌをジュリアン殿下へ。
主役と、王妃候補。
誕生パーティーという場で見せる組み合わせとしては、確かに自然だ。
自然で、角が立ちにくく、しかも意味は深い。
少しだけ、悔しい。
だが認めざるを得ない。
レオン殿下は、やはり政治的に正しい形を理解していたのだ。
理解した上で、あの一言を選んだ。
主役を立てる。
王妃候補を示す。
そして、公爵令嬢たる私を“そこに残す”。
つまり――
私とジュリアン殿下を不用意に近づけない。
(本当に、腹立たしいほど理にかなっている)
変な納得が胸の奥へ落ちる。
さっきまでのもやもやが、今度は別の意味でざらつく。
マリエンヌをジュリアン殿下へ回した。
そこまでは分かる。
では、残った私はどうするのか。
答えは、レオン殿下の次の動きで示された。
小さな咳払いを一つ。
私は思わずそちらを見る。
レオン殿下は、ほんの一拍遅れてこちらへ視線を向けた。
「……いたのか」
(いたわよ)
思わずそう返しそうになって、ぎりぎりで飲み込む。
わざとらしい。
本当に気づかなかったわけがない。
この人は、こういう時だけ妙なとぼけ方をする。
「失礼ですわね、殿下。最初からおりますけれど」
冷たく返せば、レオン殿下は口元だけで笑った。
その笑い方が、また少し腹立たしい。
「二人だけ踊らせるのもかわいそうだろう」
……苦しい理屈。
自分で言って、自分で苦しいと思っている顔だ。
それでも引っ込めないあたりが、実にあの人らしい。
そして、手が差し出される。
一瞬だけ、私は動かなかった。
不服だったからではない。
不意を突かれたからだ。
……いや、それだけでもない。
嬉しい、と感じた自分を、すぐには処理できなかった。
(何なの、本当に)
政治的には、筋が通っている。
ジュリアン殿下とマリエンヌを組ませる。
私を余らせない。
第一王子として場に“意味”を持たせたまま、自分も参加する。
完璧ではない。
だが、かなり正しい。
だから私は、不服そうな顔を作る余裕をなんとか取り戻してから、彼の手を取った。
「……仕方ありませんわ」
言葉とは裏腹に、指先が触れた瞬間、胸の奥で小さく何かが跳ねた。
腹立たしい。
嬉しい。
悔しい。
――本当に、面倒な人。
けれど音楽は、待ってはくれない。
楽師たちは次の小節へ移り、場はすでに私たちを“そういう組み合わせ”として受け入れ始めている。
私は背筋を伸ばし、王宮の灯りの下で一歩を踏み出した。
レオン殿下と共に。




