第23話 第二王子は、最初に探した相手を認めたくない
祝宴の広間へ足を踏み入れた瞬間、空気の重さが変わる。
誰もがこちらを見ている。
視線の数に飲まれれば終わりだ。
けれど、飲まれないことを求められて育ってきた。
私は歩幅を崩さない。
急がず、遅れず。
王族の歩き方というのは、結局のところ“迷いを見せないこと”に尽きる。
迷いは臣下に伝染する。
伝染した迷いは、やがて国全体の鈍さになる。
(……落ち着け)
主役だ。
今日だけは、そういう役回りを演じる必要がある。
祝宴の中心に立ち、祝辞を受け、笑い、言葉を返し、誰の杯を重くし、誰の軽口を流し、誰の忠誠を拾い上げるか――全部、選ばなければならない。
“優しい王子”では足りない。
“良い子”ではもっと足りない。
必要なのは、冷たさだ。
必要なものだけを拾い、不要なものを切り落とせる冷静さ。
私は、そういう統治者を目指している。
感情に流される王は、国を壊す。
恋だの情だのに溺れる王など、論外だ。
(私は、そうはならない)
心の中でそう言い聞かせながら、高卓の前で王と王妃へ礼をする。
祝辞は短く。
感謝も短く。
短い方が、余計な本音が混ざらない。
乾杯の声が上がり、広間の緊張が一段ゆるむ。
その緩みを合図に、私は会場全体へと視線を滑らせた。
まず見るべきは重臣たち。
次に、有力貴族の顔ぶれ。
そのあとで、今日の“見どころ”だ。
――ルクレール公爵令嬢。
そう思って視線を向けたはずだった。
なのに。
(……あれ?)
私が最初に見つけたのは、エレノアではなかった。
マリエンヌ・フォン・ハウゼン。
男爵令嬢。
今は、王妃候補。
その姿を見つけた瞬間、胸の奥が妙に軽くなる。
見つけた。
ちゃんと来ている。
崩れていない。
立てている。
(……何だ、今の)
一拍遅れて、自分で自分に狼狽した。
私は、何を確認したかった?
ルクレール公爵令嬢の“仕事の出来”ではなかったのか。
教育の成果。
仕上がり。
そして、それがどこまで“王妃候補”として通用するかを――。
なのに最初に探したのは、マリエンヌだった。
(落ち着け)
自分に言い聞かせる。
別におかしなことではない。
兄上が選び、エレノアが磨いているのだ。
その結果を確認したくなるのは当然だろう。
つまりこれは、政治的な関心だ。
そうだ。
私は“兄上の目利き”と“エレノアの教育”を見ているだけだ。
その中心にいるのがマリエンヌというだけで――
(……さすがは、兄上が見初めただけのことはある)
私は、心の中でそう結論づける。
それが一番、収まりがいい。
余計なものを混ぜずに済む。
だが、視線は正直だった。
彼女の立ち姿を、私はつい細かく追ってしまう。
以前よりも明らかに、所作が整っている。
杯を持つ指先、肩の力の抜き方、視線の置き場所。
身につけた作法を、ただ“真似ている”のではない。
身体の中へ沈めて、自分のものにしかけている。
それでいて、硬すぎない。
無理に貴族らしさを貼りつけていない。
だから、まだ少女らしいあどけなさが残る。
その対比が――危ういほどに目を引いた。
(……だからだ)
私は、さらに理屈を積み上げる。
兄上が惹かれたのも、きっとそこだ。
原石としての価値。
磨けば光る余白。
あどけなさと、折れない芯の同居。
私はそれを“確認”しているだけ。
確認して、納得しているだけだ。
恋愛感情ではない。
そんなものを、私は必要としていない。
王に必要なのは、冷たい判断だ。
伴侶に求めるべきは、情ではなく機能。
政治であり、安定であり、統治に資する資質だ。
――エレノアが、そうであるように。
私は視線を少しずらし、ようやくエレノアを見る。
完璧だ。
やはり完璧だ。
場に飲まれず、場を支配しすぎず、しかし確実に空気の一角を握っている。
あの女は、祝宴の真ん中に立たなくても、そこに“軸”を作れる。
能力で言えば、いまなお抜きん出ている。
王妃としての格、貴族社会への浸透、言葉の切れ味。
あれを政治的に欲するのは、当然だ。
以前の私は、それを“自分の方がふさわしい”という形でしか理解できなかったが――今は違う。
違う、と思いたい。
エレノアは、伴侶というより“統治の要”だ。
そういう意味で価値がある。
それ以上でも以下でもない。
……そう整理しているのに。
視線は、またマリエンヌへ戻っていた。
(……だから、何だというんだ)
私は表情を崩さず、内心でだけ毒づく。
主役として会場を回しながら、気を抜けばあの少女の方を探している自分が、少し腹立たしい。
だが、その腹立たしさすら、きちんと飲み込む。
王は感情を消すのではない。
感情を表に出さないだけだ。
私は、杯を置いた。
そろそろ、次の段階。
誰が誰に近づき、誰が誰を誘うかで、また空気が変わる。
(主役として、場を動かす)
そう決めたはずなのに。
その最初の一歩を、どちらへ向けるかだけが――妙に難しかった。
楽師の音が、少しだけ軽やかさを増した。
祝宴は、次の段階へ移ろうとしている。
談笑の輪が緩み、視線の流れが変わる。
誰が誰に近づくか。
誰が誰を誘うか。
その一歩で、今夜の“空気”はもう一度塗り替えられる。
(迷う必要はない)
私は自分に言い聞かせた。
主役として場を回す。
そのための最初の一手は、もっとも注目を集め、かつ最も自然でなければならない。
そして――兄上に対抗するなら、なおさらだ。
(そうだ。これは、兄上に対抗するためだ)
理由を、心の中で形にする。
理屈は大事だ。理屈があれば、人は自分を誤魔化せる。
兄上が見出し、エレノアが磨いた。
ならば、その“成果”に最初に手を差し伸べるのは、第二王子である私でも不自然ではない。
むしろ、王位を争う立場としては当然の確認だ。
確認。
牽制。
場の主役としての配慮。
――それで十分だ。
私はグラスを侍従へ預け、ゆっくりと二人の方へ歩き出した。
周囲の視線が、さざ波のようについてくる。
王宮の祝宴では、数歩歩くだけで意味が生まれる。
意味が生まれる以上、歩き方にも責任がある。
エレノアは、私が近づく前から気づいていた。
視線を向けないまま、しかし気配だけで距離を測っている。
相変わらず厄介な女だ。
その隣で、マリエンヌは――まだ少しだけ硬い。
だが逃げてはいない。
肩は上がっていないし、呼吸も乱していない。
数日前の礼儀作法室とは違う。
あれだけで、教育の深さが知れる。
(……なるほど)
兄上が見初めたわけだ。
そう思うと同時に、胸の奥が小さく熱を持つ。
私はそれを、無理やり別の言葉で上塗りした。
(兄上が見初めた女性をエスコートする。
それがいちばん自然だ)
そうだ。
自然だ。
エレノアは教育係。
彼女に先に手を差し出せば、意味が濃くなりすぎる。
それは政治になる。
だが、マリエンヌなら違う。
兄上の選択を“主役として確認する”形にもなる。
私は、そこで初めて、マリエンヌへ視線を向けた。
ちょうどその瞬間だった。
広間の入口側で、空気が裂けた。
ざわめきが、一拍遅れて止まる。
楽師の音が揺れ、誰かが息を呑む。
王宮の祝宴において、最も明確な“異物”の入り方――
予定にない者が、予定を上書きする時の沈黙。
(……何だ?)
私は反射的に振り返った。
そこに立っていたのは――
第一王子レオン。
兄上だった。
(な……)
頭の中で何かが白く跳ねる。
今日の出席者の中に、兄上の名はなかったはずだ。
少なくとも、私の耳には入っていない。
王にも、王妃にも、そして広間の貴族たちにも――たぶん、今この場で初めて知らされた顔が並んでいる。
兄上は、いつものように整っていた。
だが、いつもの“だけ”ではない。
場の中心を奪うことを、最初から知っている者の立ち方だ。
ざわめきが広がる。
「なぜここに」
「まさか」
「王はご存じなのか」
そんな声にならない声が、広間の天井近くで絡まり合う。
王が、ゆっくりと高卓から立ち上がった。
その顔は、複雑だった。
父としての驚き。
統治者としての計算。
二つが、同じ皺の上に重なっている。
王妃もまた、扇の陰でわずかに目を見開いている。
――サプライズ。
兄上は、この件を事前に二人へだけ告げたのだろう。
会場全体には伏せたまま。
だからこそ、効果は最大だ。
王は一拍だけ沈黙し、それから言った。
「……よく参った」
短い。
だが、その短さの中に、歓迎も、牽制も、評価も、全部入っている。
“来たこと”を咎めない。
むしろ公の場で迎え入れる。
それは父としての言葉であると同時に、王としての判断でもあった。
兄上は高卓へ向かって一礼する。
完璧な角度。
だが、その礼の奥にある熱を、私は知っている。
(やってくれる……)
胸の奥がざらついた。
悔しさか、焦りか、あるいは別の何かか。
まだ分からない。
ただ一つはっきりしているのは――
私がいま、マリエンヌへ手を差し出そうとしていた、その瞬間を。
兄上は、正確に切り裂いてきたということだった。




