第6話 報いなき選択
子どもたちに手を引かれ、ルシアは森へ向かった。
ロルフは、その背を見送ることになった。
表情を固め、司祭へ向き直う。
それからウェールスを司祭館の裏手へ連れていき、馬繋ぎの小屋に繋ぐ。
手綱を巻き留める指先が、必要以上に丁寧になる。
結び目を一度ほどいて、結び直した。
教会の前へ戻ると、石の冷えが足元からじわりと伝わってきた。
石段の下まで来ても、子どもたちの笑い声はまだ聞こえる。近いのに、どこか遠い。
「立ち話には、少し寒すぎますな。中へどうぞ」
ルシアのことが気がかりではあったが、ロルフは教会の入口に立った。
ひと呼吸おいて、黙礼する。職務の順番を間違えるな、と自分に言い聞かせるように。
教会に入ると、外の匂いがすっと切れた。
湿った土と煙の匂いが薄れ、石と蝋の冷えた匂いが鼻に残る。
足音が高く返る。
空気がわずかに重い。
司祭はルードスクリーンの向こうへ進んだ。
ロルフは会衆席を通り過ぎ、内陣との境——柱の横に立った。
霧が晴れた分だけ、東の大窓から入る光は細い筋になって落ちる。だが温もりはない。
光は冷たいまま、床石をなぞっていた。
仕切りの手前、供物台に花びらが数枚残っていた。
いったん形になったものを、指で崩したような残り方だった。
司祭は祭壇の前ではなく、内陣の端にひっそりと立つ。
わずかに肩が落ちて見えるのは、気のせいではないだろう。
「表向きは平穏な村です」
そこで司祭は、言葉を一度だけ切った。
息を整えるというより、迷いを飲み込む間だった。
「ですが……揺れていないとは言えません。課題は、まだ多く残っています」
ロルフは静かに頷いた。
境界巡察騎士団に身を置き、ロルフは、いくつもの村とその内に潜む諍いを見てきた。
怒鳴り声が飛び交う村。鐘を巡って殴り合う村。昨日までの隣人が“敵”になる村。
この村も、確かに平穏そのものに見える。
だが、そう見える村ほど、何も起きていないとは限らない。
静けさは、時に“抑え込まれた音”でもある。
「祈りの仕方、飾りの扱い、鐘の必要性……。
話し始めれば、きりがありません」
司祭は言葉を切り、息を整えるように唇を結んだ。
その指先が、無意識に袖口を押さえる。
「最近は、子どもへの教え方にも、微妙なズレが生じてきております。
争いにならぬよう、問題を先送りにしてきたことも、少なくありません」
司祭の声は穏やかだ。
だが、穏やかであろうとする意思が、声の底に張りついている。
怒りも疲れも表に出さぬまま、日々をやり過ごしてきた声だ。
「子どもは、つい、正しさを言ってしまうんです。
でも、誰の前で言うべきでないかが分からない」
司祭は一拍置き、言葉を選ぶように続けた。
「ですが——
大きな争いは起きておりません。意見が違う者に、石を投げる者もおりません」
ロルフは、静かに息を吐いた。
この村では、まだ血が流れていない。
だからこそ、司祭を一人で倒れさせるわけにはいかなかった。
血が流れてからでは遅い。火が上がる前に、火種の位置を知る。
それが、自分の役目だと分かっていた。
司祭は次の言葉を探すように、視線がゆっくり供物台へ移る。
「……以前、花の飾り方で意見が割れたことがありました」
花は、きれいに飾るか。あるいは飾らないか。
本来は、そのどちらかでよかった。
今、置かれているのは数枚の花びらだけだ。
どちらの顔も立てたつもりで、どちらの心も置き去りにした形。
「花は飾った方がいい。いや、飾らない方がいい。
どちらも、もっともらしかった」
司祭は供物台から目を離さない。
指先が揃えきれない花びらの縁を追うように宙をさまよう。だが、触れることなく静かに下ろす。
「私は、決めませんでした」
言い切ったところで、司祭は小さく息を吸う。
決めない、という言葉が、祈りより重いものとして喉に残っている。
「今回は見送ろう、と。そう言ったのです」
司祭は一度、喉を鳴らした。
冷えた空気のせいか、言葉が少しだけ引っかかる。
「あの時は、村を守ったつもりでした。
……ですが今は、決めることを避けていただけだったのではと」
司祭は拳を強く握った。
その指先が、わずかに震えているのを、ロルフは見逃さなかった。
祈りの手ではない。堪える手だ。
「ですから、これは命令ではありません。
あなたに何かをしてほしい、と言う資格も、私にはありません」
司祭はそこで、ほんの少し息を置いた。
まるで、自分に言い聞かせるように。
「ただ一つ、聞きたいのです。
あなたなら——」
ロルフは息をひとつ整え、背筋をわずかに伸ばした。
剣に触れないまま、身体のどこかが固くなる。
「この村を、どう守りますか」
花びらは動かない。石の冷えも動かない。
それでも、問いだけが、内陣に静かに落ちた。




