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旅行のはずが異世界に放り込まれたオカン―境界を歩く騎士と、ほどけない問い―  作者: 壮月彩
第1章 光の中の来訪者

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第3話 静かな夜明け

 夜明け前。

 霧に包まれた森の奥、岩壁のえぐれに身を寄せる洞で、ロルフは松葉を敷いた寝床から静かに身を起こした。


 吐いた息が白くほどけ、入口の霧へ吸われていく。

 火は落ちている。赤い熾だけが、黙って残っていた。


 石の匂いに、煙の名残が薄く混じる。


 入口のそばで、ウェールスが外れぬよう短く繋がれている。

 耳は前を向いたまま、落ち着いていた。尻尾は動かない。鼻先だけが、小さく空気を嗅いでいる。


——問題は、おきていない。


 そう判断して、足音を殺して動こうとした、そのとき。


 熾を挟んだ向こうで、ルシアがかすかに身じろぎをした。

 外套の端が擦れ、松葉がさらりと鳴る。


「若い人は朝が早いねぇ」


 白い息を吐きながら、ルシアが言う。

 眠りの底から引き上げられた声ではない。

 いつから起きていたのか、それだけは分からなかった。


「周辺を見回ってくる」


 ロルフは短く告げ、そのまま霧の中へ姿を消した。

 返事を想定していないような、素っ気なさだった。


 ルシアはその背を見送り、吐いた白い息が消えるのを待ってから、ゆっくりと起き上がる。


「……前より、身体が硬くない」


 呟きながら、松葉を厚く敷いた寝床から身を起こす。

 その動きは、思ったよりも軽かった。


 関節が軋まないことが、変な感じだ。


 それなのに、起き上がった拍子に重心が半拍遅れた。

 軽いのに、芯だけが追いつかない。


 ルシアは一度だけ深く息を吸い、身体の位置を確かめる。


 まだ慣れない感覚に戸惑いながら、傍らにいたウェールスへと手を伸ばす。

 首元を撫でると、ウェールスは応えるように頭をすり寄せ、前脚で地面をひとかいた。


 その仕草が、妙に人懐っこい。

 それを見て、ルシアは小さく笑う。


「お腹空いたのかい?

主が戻ってきたら、ご飯もらおう」


 ウェールスの首をひと撫でし、ルシアは焚き火跡へ向かった。


 昨夜の残りのスープに、手で掬った雪を加え、熾火の上でそっと温める。

 火を強めず、じっくりと温まるのを待つ。


「何をしている?」


 ルシアは手を止めずに振り返り、ロルフの顔を一度だけ確かめた。


「スープ温めてんのさ」


 湯気が薄く立ち、霧の中へ混ざって消える。


「ちょうどいい。これを入れる」


 ロルフは葉に包まれた何かを鍋に入れ、蓋をした。

 手際に迷いがない。


 ルシアは鍋を見てから、ロルフを見る。

 何か言いたげなその視線に耐えかねたように、ロルフが口を開いた。


「……うさぎだ。昨日仕掛けた罠に、たまたま引っかかっていた。

それと、名前は知らないが、臭み消しの草だ」


「……うさぎ」


 喉の奥が、きゅっと縮む。

 けれど温い湯気が、その硬さをほどいていく。


 ルシアは一瞬だけ神妙な顔になり、それを飲み込むように頷いた。


「……よし」


 小さく息を吐いて、椅子代わりの岩に腰を下ろす。


 ロルフは巾着から乾いたオーツ麦を取り出し、ウェールスに与えた。

 噛む音が静かに続き、それだけで場が落ち着く。


「今はこれで我慢してくれ。昼頃には村に着く」


 本来なら、昨日のうちに村へ入っている行程だ。

 霧と足場で遅れた。言い訳ではない。ただ事実だ。


 ウェールスは静かに鼻を寄せ、ロルフは何も言わずに首を撫でる。

 撫で方が短い。けれど、ウェールスはそれで足りると知っている。


 その様子を見つめていたルシアは、ふっと息をついた。

 視線が沸騰を待つ鍋から、松葉を敷いた寝床へと流れる。


「寝床、どうやった?」


 ふふん、と鼻を鳴らし、どこか得意げな顔をするルシア。


 ロルフは昨夜のことを思い出していた。

 野営の支度をしていると、ルシアが大量の松葉を抱えて戻ってきたのだ。


「こんなんじゃ足らん。地面が寒くて寝れんが」


 そう言って、必要以上に松葉を敷き詰めていた。

 厚みが出るほど、足元の冷えが変わる。


 理屈は分かる。

 だが量が容赦ない。


「あんなに松葉を敷いて寝る人間は、初めて見た」


 そう言いながらも、ロルフの表情には否定しきれない疲れが残っている。

 夜中、地面の冷えで目が覚めなかったのは事実だった。


 その時、鍋がぐつぐつと音を立て始めた。

 蓋の隙間から湯気が漏れ、草の匂いが混ざって鼻に届く。


 獣臭さが、少しだけ遠のいた。


「頃合いね」


 ルシアは器にスープをよそい、木の杓を鍋に戻す。

 ロルフは厚手の布を左手に巻き、鍋を持ち上げた。


「恵みに感謝する」


 そうひと言呟き、ロルフは鍋を持ち上げたまま、スプーンですくった。

 言葉は短い。だが、口にすることで気持ちを整える類の儀式だと分かる。


 ルシアは器を足の上に乗せた。

 そして、小さく言う。


「いただきます」


 湯気に顔を近づける仕草が、妙に自然だ。


 ロルフは、その仕草を黙って見ている。


「……冬の終わりの兎は痩せている。

旨みはない。味は期待するな」


 それでもルシアは、ためらうことなくスープを口にした。


「……うん、あったかい」


 そう言って、目を細めて微笑む。

 温かさが先にくる。味は後でいい。


 そういう順番だった。


 ロルフは返す言葉を探し損ねて、いったん視線を器の縁へ落とした。

 鼻先に残る湯気が、妙に邪魔をする。


「……変わった優先だな」


 口に出たのは評価じゃなく、確認だった。

 だが声は、思ったより角が立たなかった。


 ルシアの器の底が見える頃、ロルフは立ち上がり、荷に手を伸ばした。

 ルシアも最後の一口を飲み干し、両手を合わせる。


「ごちそうさまでした」


 ロルフは手を止め、ルシアを見る。


「気になっていたが、それは誰に言っている?

祈りの一つか?」


「祈りやない。

命、あるいは作った人と植物に、感謝を伝えてんのよ」


「……悪くない」


 それ以上は言わない。

 肯定に聞こえる言葉ほど、軽々しく増やさない男だった。


「今回は、いつも以上に感謝しとる。

私が来なきゃ、今日ここにはなかった命やから」


 言い終えたあと、ルシアは少しだけ黙る。

 口元にはまだ笑いの形が残っているのに、目の奥だけが静かだった。


 ロルフはそれを追わない。

 追えば、余計な話になるからだ。


 食事の片付けをするルシア。

 出発の準備を続けるロルフ。


 ルシアが周囲を見渡し、念を押すように声を投げる。


「忘れモンない?」


「……あなたはたまに、母親みたいだな」


「そう?」


「幼な子のように扱われている気がする」


「幼な子やったら、トイレした?も聞くがね」


「……この話は終わりにしよう。

次の村までは一刻もあれば着く」


「承知した」


 元気よく返事をするルシアを一瞥し、ロルフは視線を進行方向へ戻す。

 勝手に浮かぶのは、昨日、少女が現れたあの瞬間だ。


 神書の一説がふとよぎった。

 だが、ロルフは首を振った。


 言葉で縛れば、判断が鈍る。

 今はまだ、縛る時ではない。


 息のように短い歌を落としながら歩くルシアへ、再び視線を落とす。


——あなたは本当に、

“そう呼ばれる者”なのか——


 ロルフは無意識に、ウェールスの手綱を握りしめた。

 それに気付いたウェールスが、彼の肩に鼻面を寄せる。

 温い鼻息が外套を押し、固くなりかけた胸の奥が少しだけ緩む。


 彼らは朝日を背に、森へ踏み出した。


 村はまだ、霧の向こうにある。

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