第0話 祝福か、魔か
「——お前が、“そう呼ばれる者”だと申告を受けた」
裁きの部屋の石床に、低い声が落ちる。
反響が、壁を撫でて戻ってきた。
北海沿いの大都市、ノルトハーフェン。大聖堂の奥、章会室。
壁沿いに石の長椅子が続き、中央だけが不自然に空いている。そこは人が立つための場所ではない。立たされるための場所だ。
その縁に、少女がひとり立たされていた。
正面の審問官は白髪混じりの男。
衣は飾らないのに、目だけが重い。
少女を見ているのではない。量るように、測っている。
少女も視線を返す。
けれど拾っているのは権威じゃない。
眉間の深い皺。唇の端の乾き。指先がみぞおちを撫でる癖。
——体調が、悪い。
それでも男は席に縫いつけられたままだ。
逃げ道がないのは、立たされた側だけではない。
そう気づいた瞬間、胸の奥が静かに冷えた。
審問官は間を与えず、言った。
「名を述べよ」
少女は呼吸を整え、まっすぐ答えた。
「ルシアと申します」
声は丁寧だった。
言い訳を挟まない。ここで順番を誤ると、場が荒れると知っている声だ。
審問官が短く頷く。手元の羊皮紙へ指が置かれ、書記の羽根が走る。紙を擦る音が、やけに大きい。
「ルシア。告発がある」
章会室の入口側に押し込まれた民衆が身じろぎし、湿った外套の匂いが厚くなる。煤と汗が混ざった熱気が、冷えた床の上で渦を巻いた。
審問官の脇に、若い男が立っていた。
前に出る位置ではない。だが視界の端に残る。整った衣。若いのに、黙り方が慣れている。
男は文書を開き、必要なところだけを読み上げた。感情を削り、文面だけを残す声。
「告発文。『村々が落ち着きを取り戻していくのが、あまりに出来すぎている。争いが鎮まり、刃が抜かれず、子どもが泣き止む。その静けさが自然ではない。ならば心を操っているのではないか』」
言い終えきる手前で、喉がひとつ引っかかった。
咳払いを小さくして、舌先で唾を押し込む。
視線がほんの短く文面から外れかけ、すぐ戻った。
「『しかも子どもとすぐに打ち解ける。早すぎる。魔に類する物の足跡が、目に見えて減ったとも聞く。……不自然に、すぎる』。以上」
読み上げる羊皮紙を握る指先が、白く締まる。
男の名はコンラート。ノルトハーフェンの有力家に連なる者で、今日は審問官の脇に控えている。
付き添いの顔のまま、目だけが落ち着かない。
男はいったんルシアから焦点を外し、視界の端へ押しやった。
中央の円の縁。被告のすぐ後ろ、少し外れた位置へ。
まだ名の出ていない証人席だ。
そこに誰が立つのかを、彼は最初から知っている顔だった。
審問官は文書を受け取らず、言葉だけを受け取る。
「ルシア」
名を呼ぶ声は、問いの前の釘だった。
「お前は、心を操ったのか」
最初に本人へ問う。否認と肯定、その形だけでも先に置く。
ルシアは返事の前に、ひとつだけ所作を置いた。
袖口を指先で押さえ、布の重さを落ち着かせる。呼吸の置き場を自分で作るみたいに。
「操っておりません」
言葉が短いぶん、否定がはっきりした。
ざわめきが広間を走る。入口側の民衆が身じろぎし、木の扉がわずかに鳴った。
ルシアはその波を追わない。追えば、波に飲まれると分かっている。
背後の熱気を肌で受けたまま、視線だけは審問官に置き続けた。
審問官の指が、またみぞおちのあたりをさする。
痛みを我慢している。誰にも見せないように。
ならば、見なかったふりをしたほうがいい。
ルシアは言葉を選び、生活の言い方に落として言った。
「子どもは、怖かったら泣きます」
少し置く。
「大人は、聞いてもらえないと言葉で斬ろうとします。……それを、そうならないように整えただけです」
広間のざわめきが、困惑の形に変わった。
神学の場で、暮らしの話をする。その正しさが、逆に刺さる。
コンラートの顔が一瞬だけ歪む。
軽蔑ではない。痛みを突かれた顔だ。
審問官は視線を動かさない。
声だけが、被告から外れた。
「……証言を取る」
中央の円に、もうひとつ影が落ちた。
証人席。被告の斜め後ろ。近すぎず、遠すぎない。言葉を逃がせない距離。
立っているのは男だった。大柄で黒髪。外套の下に鎧の重みを隠しきれない。剣に触れなくても、剣を持つ者の気配が残っている。
審問官はそこでようやく、証人へ視線を寄せた。
「証人。名を述べよ」
男は姿勢を崩さず、声だけを整えた。
「ロルフ・フォン・ディールークルム。境界巡察騎士団に所属しております」
称号を盛らない。余計な忠誠も足さない。
必要な形だけを残した自己紹介だった。
コンラートは一度だけ瞬きをした。
その音が聞こえそうなほど、視線が外れない。
昔の名を呼ぶときの顔をしている。
けれど、呼ばない。ここでは、呼べない。
「ディールークルム。……お前は、この女をどう見ている」
コンラートの喉仏が一度、大きく上下する。
声は冷静を装っているのに、そこだけが嘘をつけない。
ロルフは答えを急がなかった。急げば庇いに見える。
「私は、彼女が人の心を操るところを見ておりません」
言葉は固い。固いままだからこそ、嘘が混ざりにくい。
審問官は羊皮紙の端を押さえた。指先に、ほんのわずかな震えが走る。
「子どもが泣き止んだ。刃が抜かれなかった。魔に類する痕跡が減った」
息をひとつ置く。
「それは祝福か。魔か。——お前は、何者だ」
その問いに、ルシアは口を開きかけた。
けれど一度、飲み込む。言葉を選んでいるのではない。ここで一言を誤れば、答えそのものが凶器になると知っていた。
沈黙が落ちる。
その沈黙の中で、審問官の手元から羽根ペンが滑り落ちた。
石床に軽く跳ねる。落ちた音は小さいのに、不思議と広間に通った。
誰も動かない。動けば、順番が崩れる。
だが、ルシアだけが、動いた。
歩幅を乱さずに進み、拾い上げた羽根ペンを机の端へ戻す。
そのまま、懐の端布を一枚、羊皮紙の端へそっと添えた。
汗で指が滑らないように。
痛みで震えたとき、紙を破らないように。
それだけのことなのに、生臭い熱気がほんの少し引く。
人の息が浅いままでも、揃う。
審問官の眉間の皺が、わずかに緩んだ。
誰も言葉にしない。それでも、場の形が一段だけ整った。
そのとき、入口側の扉の隙間から、冷たい海風が細く差し込んだ。湿り気を含んだ風が、外套の裾をかすめていく。
灯りが一度だけ揺れ、影が壁を走った。
揺れた影が、遠い冬の森の光と重なった。
あの朝も、光が先に来た。
そして光のあとに、名もない出会いが残った。




