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旅行のはずが異世界に放り込まれたオカン―境界を歩く騎士と、ほどけないもの―  作者: 壮月彩


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第1話 名も知らぬまま

東の空が白み、雲の輪郭はまだ定まらない。

森の地面には、踏まれもせず残った雪が斑に残っていた。


夜の冷えがまだ土に貼りついている。

息を吐けば白く、吐いた先で粉雪のようにほどけた。


その森で、馬の手綱を取り、出立の支度をする大柄の男がいた。

厚い外套の下でも、肩の張りが隠れない。


軽装ではあるが、立ち方に無駄がない。

周囲を測る視線だけが、先に動く。

外套の隙間から、五つに割れた花弁の紋が一瞬だけ覗き、すぐに布がそれを隠した。


腰には短剣と長剣。

だが剣には触れず、手綱を握ったまま、いつでも抜ける位置に体重を預けている。

その静けさに、場数を踏んだ者の気配があった。


森は静かだった。

静かすぎて、かえって耳が痛い。

小枝の軋み、遠くの鳥の羽音、凍った葉がほどける微かな音。

それらが一つも混ざらない。


夜明けとはそういうものだと分かっていても、薄い膜のような“無音”が気味悪くまとわりつく。


「ウェールス」


男は手綱を軽く引き、馬の名を呼んだ。

栗毛の体が、朝の光をわずかに弾く。


「今日中に村へ入れる。

……そこまで何も起きなければ、だが」


独り言に近い声だった。

それでもウェールスは首をわずかに持ち上げた。

次の瞬間、耳が鋭く立ち、空気を切るように向きを変える。


前方ではない。

風下でもない。

それでも、何かを捉えたような反応だった。


ロルフは手綱を握り直す。

この森で、夜明け前に馬が立ち止まる理由は限られている。


賊なら、音がある。

獣なら、匂いがある。

魔に類するものなら——気配があるはずだった。


だが、どれでもなかった。


不安というより、違和感だった。

剣に手をかけるには弱すぎる。

だが、無視するには、妙に胸に引っかかる。


ロルフは、鞍に足をかけたまま動きを止めた。

外套の裾が、わずかに風を孕む。

指先の感覚が冴えている。寒さのせいだけではない。


夜明けの森が、男の鼓動ひとつ分、音を失った。


背後から、朝の光とは明らかに異なる白が迸る。

刃物のように鋭く、目を焼く明るさだ。


ロルフは反射で身を翻し、腕で目を庇った。

ウェールスが低く鼻を鳴らす。蹄が一度だけ雪を削った。


「……何だ」


光の奥で、輪郭だけが揺れている。

揺れは炎のそれではない。

水面の波でもない。


“そこだけ世界が違う”

そうとしか言いようがなかった。


それが像を結ぶ前に、世界はふっと元の色を取り戻した。

遅れて、音と冷気だけが戻ってくる。


朝日の中、先ほどまで何もなかった場所に、少女が座っていた。

黒髪がやけに長い。

そして服装が、整いすぎていた。

厚手の外套は肩にきちんと掛かり、襟元まで閉じられていた。

縫い目も留め具も、安物の雑さがない。


「ここは…?」


周囲を見渡し、やがて男と目が合う。


「…誰?てかさっむい!」


少女は肩をすくめ、両腕を抱いた。

取り繕う様子もない。怯えもしない。


「…何者だ?」


「あんたこそ何者だい?

人に名を聞く前に、自分から名乗りなさいって言われなかったのかい?」


その口調は、年若い外見にはひどく不釣り合いだった。

言い回しの端に、歳月の癖が混じる。

冗談にしては、目が笑っていない。


男は一拍置き、静かに名乗った。


「失礼した。

騎士のロルフだ」


「騎士…?」


少女は眉をひそめたが、すぐにどうでもよさそうに表情を崩した。

情報を仕分けるみたいに、反応が早い。


「野月千鶴」


「……ノヅキ?」


ロルフもまた、わずかに眉を寄せる。

聞いたことのない響きだった。


土地の名にも、家の名にも当てはまらない。

訛りでもない。

どこにも繋がらない響きだった。


「なんと呼べばいい?」


「好きに呼びな。

返事はするから」


そう言われても、名が頭に残らない。

ロルフはしばらく黙り込んだ。


「……少し、考えさせてくれ」


少女は一瞬、目を瞬かせた。

それから、わずかに口元を緩めた。


「それより、その馬……あんたの?」


視線はすでに、ロルフではなくウェールスへ移っている。

その目は、妙に子どもみたいにきらきらしていた。


ロルフは、少女が突然現れた理由のひとつくらいは聞けるものだと思っていた。

だが、少女の関心はウェールスに吸い寄せられたままだった。


「驚かせるなよ。

俺の馬、ウェールスだ」


「へぇ…」


少女はゆっくりと近づく。

背伸びも、媚びもない。


「よろしくね」


ウェールスは鼻を鳴らし、そっと一歩、前に出た。

それは“逃げない”というより、“迎える”動きだった。


そのウェールスの様子にロルフは驚いた。

以前、行商人には警戒を解かなかったウェールスが、少女には、最初から落ち着いていた。


耳が固くない。尻尾がとろりと左右に流れた。

むしろ、少女の手を待っている。


「……気に入られたな」


「つまり、なでなでしていいってこと?」


「撫でるなら、正面に立て。

まず鼻先で、手の匂いを嗅がせる」


「わかった。

まずは、手の匂いを——」


少女は手を伸ばしかけ、ふと止まった。

視線が、自分の指に落ちる。


爪、皮膚の張り、関節の形——

それらを確かめるように、じっと見つめている。


「……若い」


その声は小さく、ロルフの耳には届かなかった。

だが“沈み”だけが、空気に残った。


「どうした?」


「いや……

なんでもない」


少女は視線を外し、もう一度だけ手を伸ばす。

今度は迷いなく。

ウェールスが鼻先を寄せ、彼女の掌をひと撫でしてから、首を落とす。


「ふふっ、かわいい」


ウェールスは気持ちよさそうに、目を細める。

吐息が白くほどけ、少女の指先がその熱で少しだけ赤みを取り戻す。


ロルフには、少女の思考がまるで読めなかった。


光に包まれて現れたかと思えば、次の瞬間には、初対面のウェールスに興味を示し、ためらいもなくその首元に触れている。


だが、ウェールスは少女を警戒していない。

そしてロルフ自身もまた、彼女から殺意のようなものを感じ取れずにいた。

魔に類するものにある、肌を逆撫でする圧もない。

あるのは、ただの“ズレ”だ。


——まずは観察しよう。

それ以上の判断を下すには、まだ情報が足りなかった。


“偶然にしては、出来すぎている”

その感覚が、離れなかった。


「行く場所がないなら、しばらく俺と行動を共にするという選択もある。どうする」


少女はウェールスを見て、小さく息を吐いた。

その背に触れることもなく、ただ様子を確かめてから、頷く。


——淡い雪の残る森で、二人は同じ方向へ歩き出した。


ただし、その意味は、まだ違っていた。

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