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『黄金のタクトと、不格好なアップリケ』〜レアルの10番、下町でパパになる〜  作者: 筑紫隼人
第4章:世界を獲る

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106/106

第106話 曲がった耳

拓人の指が、内ポケットの中で布に触れた。


取り出した。


手のひらに収まるほどの、小さな黄色いフェルト。


ロッカールームの全員が、それを見た。


ネズミの形をしていた。たぶん、ネズミのつもりだった。


右の耳は、ぴんと立っている。左の耳は、根元から斜めに折れ曲がって、ほとんど顔の横に垂れていた。目の位置は、左右で高さが違う。縫い目は、あちこちで糸がよじれて、玉になっていた。


拓人は、それを、エレーラの目の前に掲げた。


「お前のエゴは、俺が縫ったネズミの耳より曲がってるぞ」


ロッカールームが、凍りついた。


誰も、動かなかった。


エレーラは、目の前の布切れを見ていた。


眉間にしわを寄せて、まるで知らない言葉で話しかけられたような顔をしていた。


「……何だ、それ」


---


最初に吹き出したのは、キーパーだった。


こらえようとして、こらえきれなかった。肩が震えて、それから声が漏れた。


隣のミッドフィルダーが、つられた。


ブラジル人のサイドバックが、ベンチを叩いて笑い出した。


ベッカーまでが、口元を押さえて横を向いていた。


ロッカールームが、笑い声でいっぱいになった。


エレーラだけが、笑わなかった。


拓人も、笑わなかった。


笑い声が少しずつ引いていくのを、黙って待った。


それから、言った。


「四年前、俺が初めて縫ったアップリケだ」


部屋が、また静かになった。


「妻が死んで、すぐの頃だ。娘の体操着袋に、これを縫いつけるはずだった。夜中に、動画を見ながら、三時間かかった」


拓人は、布切れを少しだけ傾けた。曲がった耳が、照明の下でよく見えた。


「出来上がったのが、これだ」


誰も、笑わなかった。


「使えなかった。娘に渡せるものじゃなかった。だから、もう一枚縫った。二枚目も、耳は曲がった。それでも一枚目よりは、まだネズミに見えた。娘は、それを四年間、毎日使ってくれた」


拓人は、布切れを見た。


「でも、これは捨てられなかった。それから四年、ずっとこのポケットに入ってる」


---


拓人は、選手たちの方に向き直った。


「エレーラの言ったことは、たぶん正しい」


何人かが、顔を上げた。


「俺は、一か月でクビになるかもしれない。この部屋には、去年、完璧な監督が二人いた。二人とも、もういない」


ベッカーが、わずかに目を伏せた。


「俺は、完璧じゃない。針の持ち方も知らなかった男だ。だから、お前たちに完璧なことは言わない」


拓人は、一人ずつ顔を見た。


「その代わり、聞く。待つ。見る。この四年で、俺が覚えたのは、それだけだ」


それから、もう一度、エレーラを見た。


エレーラは、まだ布切れを見ていた。


「エレーラ」


茶色の目が、ゆっくりと拓人の顔に移った。


「最初の一枚は、だいたい曲がる」


拓人は、静かに言った。


「お前のエゴも、たぶん、何かを守るために、自分で縫ったものだ。誰にも教わらずに、一人で。だから、曲がってる」


エレーラの顎が、小さく動いた。


何か言い返そうとして、言葉が出てこないようだった。


「曲がってるのは、悪いことじゃない」


拓人は、布切れを内ポケットに戻した。


「ただ、それを一生、一人で抱えてる必要はない」


ロッカールームに、長い沈黙が落ちた。


エレーラは、何も言わなかった。


立ち上がって、ロッカールームを出ていった。


ドアが、乱暴には閉まらなかった。


静かに、閉まった。


誰も、しばらく口を開かなかった。


やがて、キーパーが手を挙げた。


「監督。それ、俺にも縫えますかね。娘が生まれたばかりで」


「動画を、三十回止めれば縫える」


「三十回」


「俺は、五十回止めた」


キーパーが、また少しだけ笑った。今度の笑いは、さっきとは違っていた。


ロッカールームを出ようとしたとき、レオンが拓人の横に来た。


昨日、エレーラに肩をぶつけられた若いミッドフィルダーだった。


「監督」


「ん」


「昨日のこと、俺、まだ怒ってます」


「だろうな」


「でも」


レオンは、ドアの方を見た。エレーラが出ていったドアだった。


「さっき、あいつ、ちょっとだけ、泣きそうな顔してました」


拓人は、何も言わなかった。


レオンも、それ以上は言わずに、ピッチへ出ていった。


---


その日の練習から、拓人は戦術の説明を始めた。


ホワイトボードに、線と丸を描いていく。ボールを持っていない選手が、どこに立つか。誰が、誰のための空間を作るか。


浦和で作り上げた形を、ここの選手に合わせて、少しずつ組み替えていた。


エレーラは、練習に出てきた。


説明の間、腕を組んで、ボードをにらむように見ていた。


ミニゲームで、エレーラは相変わらず一人で仕掛けた。


ただ、一度だけ。


ペナルティエリアの手前で、右サイドのレオンが手を挙げたとき。


エレーラは、シュートを打つ前に、ほんの一瞬だけ、レオンの方を見た。


結局、パスは出さなかった。自分で打って、キーパーに止められた。


でも、見た。


昨日までは、見もしなかった。


拓人は、手帳に一行だけ書いた。


「見た」


クラウスが、それを横からのぞきこんで、首をかしげた。


「何を見たんです」


「あいつが、レオンを」


「それだけですか」


「それだけで、十分だ」


---


その夜、タブロイド紙のウェブ版に、また記事が出た。


ロッカールームの中のことが、もう漏れていた。


見出しは、こうだった。


「新監督、ロッカールームで手芸教室」


記事の下のコメント欄は、笑いと罵倒で埋まっていた。


ただ、その中に、いくつか違う種類のコメントが混じっていた。


「うちの父も、母が死んだ後、初めて弁当を作った。ひどい味だった。でも、今でも覚えてる」


「誰か、この監督を一か月で笑うのはやめろ」


拓人は、しばらくそのコメントを見ていた。


スマートフォンが震えた。日本からのメッセージだった。


光だった。


「監督、ドイツでも同じことやってるんすか。俺のときは、葵ちゃんでしたよね」


続けて、もう一通。


「で、そいつ、パス出しました?」


拓人は、少しだけ笑って返信した。


「まだだ。でも、見た」


すぐに、返事が来た。


「じゃあ、あと少しっすね。俺も、最初は見ただけでした」


---


「パパ、ネズミの耳ってなに」


夕食の席で、葵が言った。


スマートフォンの画面を、拓人の前に突き出している。日本のニュースサイトが、もうタブロイドの記事を訳して載せていた。


「ああ。それは」


「これ、私の袋につけるはずだったやつ?」


葵の声が、少し尖っていた。


拓人は、観念して、ジャケットの内ポケットから布切れを出した。


テーブルの上に置いた。


葵は、しばらくそれを見つめていた。


航太が、横からのぞきこんで、吹き出した。


「ひでえ」


「ひどい」と葵も言った。


それから、布切れを手に取った。


曲がった耳を、指でそっと伸ばそうとした。伸びなかった。


「……私、これ、知らなかった」


「渡せなかったからな」


「ずっと、持ってたの?」


「ずっと」


葵は、布切れを見たまま、黙っていた。


それから、小さな声で言った。


「捨てなかったんだ」


拓人は、何も答えなかった。


葵は、布切れを拓人の手のひらに戻した。


「大事にしてよ。それ、私のなんだから」


結衣が、テーブルの向こうから身を乗り出した。


「ゆいのは?」


「結衣のは、これから縫う」


「まっすぐなの?」


「……努力する」


航太と葵が、同時に笑った。


---


翌朝。六時四十分。


拓人が練習場の駐車場に車を入れると、もう一台、先に停まっている車があった。


黒い、大きな車だった。


エンジンは、止まっていた。


運転席に、男が座っていた。


拓人がクラブハウスに入り、監督室の明かりをつけて、コーヒーを淹れ終わった頃。


ドアが、ノックされた。


二回。少し間を置いて、もう一回。


「開いてる」


ドアが開いた。


エレーラが、立っていた。


サングラスは、かけていなかった。ヘッドフォンも、首にかけていなかった。


エレーラは、ドアの枠に手をかけたまま、しばらく黙っていた。


それから、床を見たまま言った。


「……昨日の、布」


「ああ」


「もう一回、見せろ」


◆次話予告◆


朝の監督室で、二人きり。


曲がった耳の布切れを前に、拓人は初めて、自分の過去を語る。


施設の門。誰も来なかった春の朝。針の持ち方も知らなかった男の話。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。


次話もお付き合いいただければ嬉しいです。

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