第十五話 艶の醜
その夜は、月が満ちていた。
深紅の鎧は、燃えるような瞳は、最上の月へのもてなしか。
率いる兵は全て逃げ去り、ただ一人取り残されているというのに、足取りはあくまで優雅にて。
幾ら想定し、予測し、対策し、覚悟しようが、やはりそれを間近にすると心臓に突き刺さる絶望感が襲いくる。
至美貴、在真シウミ
「ここに足を踏み入れることにどれほど焦れたか。この時が来るまで、どれほど耐えたか。
なあ、守鬼よ」
「――在真よ、山を去れ
……といっても、もう後戻りはできないだろうが」
「戯けたことを。この躰から心臓を取り出して、如何に興奮に鼓動しているか見せてやりたいほどよ。
最高の宝を前にして、帰る者などいない」
狂じみた声も、至美貴の口から出ると、凛とした聖が宿る。
「そこにいるのは、灰狼か。よいぞ。
お主らが反旗を翻した時、実は見直したのだ。ようやく、銀狼の誇りを取り戻したのかと。
惨めに扱って正解であった」
銀狼を嘲笑する言葉に、しかし、剣を抜いて飛び込むことはできない。
すればその瞬間に己が首が飛ぶという確信がある。
伝え聞き、遠目で見て、しかしまだ分かっていなかった。
至美貴、これがこの世の最上の生物。世界の支配者。
全身が震える。本能は敵わぬことを一目みて悟った。
感情は恐怖と畏怖で塗り潰されてゆく。
「さて、やろうぞ。半人半獣の化け物共よ。今宵、初めて朝廷の威光が、この山に注がれるだろう」
在真シウミは剣を抜いた。
それだけの所作に、思わず息を飲み、後ずさりをする。躰も感情も圧倒されている。
だが、私の本質、それは魂ともいうべきで何かは、歓喜に泣くほどであった。まさに命を捨てるのにふさわしい時である。
「ミシュ」
テムは小声で言った。
「今から起こる全てことについて、俺の命令通りに動いてくれるな?」
「当たり前です。私はあなたの剣。あなたの腕が振るう通りに舞ってみましょう」
テムは私の言葉を噛み締めるように一度目を閉じると、口元を歪め、一歩、前に出た。
「在真シウミ」
「おお、なんぞ。灰狼の化者よ。
お前程度の者が我が名を呼ぶなど、普段は許されぬことであるが、此度はよい。
我と直接話すことを許可してやろう」
「それは有難い。
……一つ、言わなければならないことがある――」
テムは剣を上に掲げた。
それはまるでこちらを監視している何かに、合図をするようであった。
「至美貴よ。楽しんでいるところ悪いが、お前の相手は俺たちではない」
その時襲ってきた悪寒は、これまでに経験したありとあらゆる恐怖を合わせて凝縮したものに優るほどの、絶望的なものであった。
上から何かが、場に飛び込んできた。黒い、黒い、ナニカが。
地に着地する音、纏った鎧の跳ねた音は、首を斬る時のそれに似ている。
現れたのは、月に餓える者、ガガツ。美貴を殺して回るという殺人鬼である。
だが、その身より放たれる威圧は、ただの快楽殺人者などという生ぬるいものでものではない。
「いつも思い通りにいくと、世界は己が思いに応えてくれると、そんな甘い考えは自らを滅ぼす」
テムが言った言葉は誰に向けたものか。
黒鎧は現れるや、些かの躊躇いもなく、在真シウミに刃を向けた。
むしろ、圧倒されていたのは、至美貴の方にすら見えた。
「下郎、何者だ」
そのシウミの言葉すら待たずして、重装な黒の鎧は瞬く間に距離を詰め、赤に一閃した。
「――!」
それをただ見るしかない者たち。私と、騎狼隊と、守鬼は、言葉にすらならい。
ガガツの一振りを受けたシウミは、しかしその力に抗し切れず、木々の闇の奥へと吹き飛ばされたのである。
それを追って、ガガツもまた足を止めることなく、闇の中へと消えていった。
「さて」
テムが言った。この場の支配は明らかに、我が主に移っている。
「ミシュよ」
銀狼の長の私を見る、その瞳。
群青の光。湖面に反射した光は、波うち、私の元へやってくる。それは天命。
「在真シウミはあの殺人鬼に任せよ。
お前は殺せ。この山の主を殺せ。俺らの敵は――守鬼だ」
落ちてきた言葉は私の血となり躰を巡る。考えるよりも先に、考える必要すらなく、四肢が動いた。




