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指切り  作者: 直井 倖之進
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第三章 『雄介の死』③

 午後七時四十分。雄介は自宅マンションの駐車場に車を停めた。小百合へのプレゼントとデパートの地下で買ったパスタを持ち、車を降りる。それから、エレベーターに乗って自宅の階まで上がり、鍵を取り出してドアを開けた。

 ……と、ここまでは、彼にとっていつもと変わらない日常だった。

 ところが、玄関を抜けてリビングの明かりを点けたとたん、室内が出勤した時の状態とは明らかに違っていることに気がついた。

 至極簡単な間違い探しをさせられている気分だった。

 答えは、テーブルの上に置かれた日本人形だ。今朝、家を出た時には、このような物はなかったのである。

 「空き巣?」雄介の頭に真っ先に浮かんだ単語はそれだった。

 だが、空き巣ならば室内の物は減っているはずである。逆に増えているのだから、この場合は違うだろう。それに、部屋が荒らされた様子もない。

 荷物をテーブルの上に置くと、雄介は代わりに人形を手に取った。

 七、八歳ぐらいの前髪を揃えた少女の人形。それを見つめながら彼は、「空き巣でないとすれば、小百合が置いて行ったのでは?」と、二つ目の仮説を立てた。

 しかし、この推測は、可能性としてはゼロではないが、果てしなくゼロに近いと言ってもよいものだった。何故なら雄介は、小百合から着物が好きだとは聞いていたが、それを着ている人形までも集めているなどという話は、聞いたことがなかったからである。

 また、雄介が、この日本人形を小百合の物ではないと判断した理由は他にもあった。着物があまりにも汚れていたのだ。古いからと言ってしまえばそれまでだが、赤い布地の艶やかさはまったくなく、黒ずんでいる部分が目立っていた。社長令嬢の生活を知っている彼には、これが小百合の持ち物だと到底思えなかったのである。

「うっ」

  何気なく人形に顔を近づけた雄介は、錆釘のような鼻を突く臭いに思わず声を漏らした。

「何なんだよ! この人形!」

 窓を開け、ベランダから投げ捨てようかとも思ったが、万に一つでも小百合の物だった場合、取り返しがつかなくなってしまう。そこはすんでのところで思い止まり、仕方なく彼は人形をテーブルに戻した。

 とはいえ、腹の虫は治まらない。無意味だと分かりながらも雄介は、人形に向かって悪態をついた。

「……ったく。汚いし、臭いし、最悪だな!」

「エーコ、おふろ、だいすきだもん! きたなくないし、くさくもないよ!」

「ひえっ」

 突然喋りだした人形に、雄介は悲鳴をあげて後退り、尻もちをついた。

 大きな音が室内に響いたが、そんなことお構いなしに人形は、

「ふん、よわむし! べ~だ」

 と、テーブルの上から雄介を見下ろし、あかんべをした。

「こいつ、話せるのか」

 そう呟き、ゆっくりと雄介が起き上がる。随分と横柄な人形だが、真っ赤な舌を出す姿は愛らしくもあり、その仕草を見ているうちに彼は落ち着きを取り戻していた。

 どんな仕組みで動いているのかは分からないが、見れば見るほど本当によくできた人形だ。こんなに珍しい人形ならば、多少汚れが目立っていても小百合の持ち物だと考えて納得がいく。

 「よかった、捨てなくて」雄介は過去の自分に感謝した。

 一方、安堵する彼の心中などそれこそ“どこ吹く風”といった様子で、人形は、小さな手で顔をぱたぱたと扇ぎながら言った。

「ねぇ、よわむしくん。このおへや、あつくない?」

 「こいつ、温度感知機能もついているのか?」空調のリモコンを手に取ると、雄介はスイッチを入れた。

 すると、礼を言うでもなく人形は、次の注文を告げた。

「ねぇ、よわむしくん。エーコ、おなかすいた」

 「付き合ってられるか。僕はこいつの小間使いじゃない」腹が立った雄介は、人形を無視し、上着をかけるためにドア続きの寝室へと移動することにした。


「ねぇ、よわむしく~ん」

 寝室にいる雄介に、リビングから人形の声が届く。

「僕は、弱虫って名前じゃない!」

 煩い人形に苛立ち、雄介は怒鳴ったが、それでも人形は口を閉じなかった。

「だったら、ほんとうのおなまえは、な~に?」

 人形を放置し、彼は上着をハンガーにかけるとブラッシングし始めた。

「ねぇ、ほんとうのおなまえは、な~に?」

 「しつこい」そう思いながら彼はブラシを動かし続けた。

「ほんとうのおなまえ、おしえてよ~」

 業を煮やした雄介は、リビングに向かって叫んだ。

「僕は、朝霧雄介だ!」

「ふ~ん、……そうなの」

 寝室には聞こえないほどの小さな声で、人形はそう呟いた。

 雄介が名を告げると、それっきり人形は静かになった。

 この時、寝室にいる雄介は気づいていなかった。笑いを押し殺した人形が、テーブルの上に置かれたフルーツバスケットから果物ナイフを取り出したこと。そして、それを後ろ手に隠したことにも……。


 ブラシをかけ終えた雄介は、人形相手にむきになっていた自分を恰好悪く思いながら、リビングへと戻った。

 その姿が視界に入ると、人形はにこりと微笑んだ。

「おかえり、ゆうすけ」

 つられて雄介も笑顔になる。こんなことまで返答できる機能がついているとは思わなかったが、彼は一応聞いてみることにした。

「なぁ、お前の持ち主って、小百合なのか?」

「エーコ、おまえじゃないよ。エーコは、エーコだよ」

 「扱いづらい。面倒くさい奴だ」そう心の中で不満を口にしつつ、雄介は言い直した。

「エーコの持ち主って、小百合なのか?」

「さゆりって?」

 人形は首を傾げた。

「何だ。違うのか?」

「うん。エーコの“やといぬしさま”はねぇ……」

 そう言うや否や、人形は雄介に飛びついた。

「うわっ」

 あまりに突然の行動に、雄介は、それを抱き留めるだけで精一杯だった。

 人形の顔と雄介の顔。その距離は、十センチメートルもなかった。

「エーコの“やといぬしさま”は……」

 間近で動く人形の口を、吸い込まれるように雄介は見つめた。

「ま・す・み」

「え?」

 「真澄?」雄介は聞き返すつもりだったが、それを言葉にすることはできなかった。左の首に深く刺さった果物ナイフが、彼の声を奪ったのである。

 切断された頚動脈から血液が、ナイフと首の隙間を抜けてシャワーのように噴き出した。そして、それは、部屋の白い壁に形にならない絵を描いた。力を失った雄介の両腕はだらりと下がり、人形は、首に刺さったナイフを握り締めたまま宙吊りになった。

 人形の重さに促されるように、雄介は前のめりに倒れた。

 初めは激しかった痙攣も少しずつ緩やかになり、やがて二度大きく身体を震わせたのを最後に、彼は動かなくなった。

「“ごごはちじ”。あさぎりゆうすけさん、よていどおり“ごりんじゅう”です」

  雄介の亡骸を見下ろし、人形はそっと手を合わせた。

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