001 囁き
仕事帰り。
俺は通り魔に刺された。
くだらない。
アホらしい。
仕事を終えた俺は、重い体を引きずり家に向かっていた。
いつもと同じ道。
俺の人生と同じ、何の変化もない風景。
何度もため息を吐きながら、あと何回これを繰り返せば解放されるのか、そんなことを考えていた。
人気のない路地裏。くたびれた街灯が中途半端に俺を照らす。
今は何時だ? そう思い時計を見ようとしたが、すぐにやめて小さく笑う。
それ、何の意味があるんだ?
俺にとって必要な時間は、仕事の始業時間だけだ。
流石に社会人として、遅刻する訳にはいかないから。
それだけだ。
それ以外の時間に興味はなかった。
分かったところで俺はただ、毎日同じことを繰り返すだけなのだから。
就職して5年、家族とも疎遠になった。
友人もいない。
たまの休日も、家で惰眠を貪るだけ。
それが俺の日常だった。
今の俺の望み。
それは一日も早く、この悪夢から解放されることだった。
自ら命を絶つことすら否定された俺は、ただただその日を願い、この地獄を生きていた。
そんな日々に疲れ、今日も俺は歩いていた。
何の変化もない毎日。そのはずだった。
しかし今日。今夜。
俺の人生は大きく変わることになった。
目の前に現れた人物が、俺に体当たりしてきた。
何だ? 酔っ払いか?
そんなことを思っていると、下腹部がじわりじわりと熱くなってきた。
「……」
ゆっくりと視線を動かす。
ぶつかってきた人物が手にした何かが、俺の腹に突き刺さっていた。
それが刃物なんだと理解した瞬間、全身に激痛が走った。
「がっ……」
通り魔、なんだろうか。
くたびれた身なりで、金を持ってるように見えない俺相手に、強盗の類が近寄るとは思えない。
恨み?
誰とも絡まない生活を続けて10年、そんな奇特なやつがいるとも思えなかった。
となると、答えはひとつだ。
こいつは最近流行りの、いわゆる「無敵の人」だ。
誰でもいい。人を殺してみたかった。
そんなくだらない理由で俺は今、こいつに刺されたんだ。
そう思うと、頭の中が妙にクリアになってきた。
そして。
笑いがこみ上げてきた。
ははっ、はははっ。
俺にふさわしい最後じゃないか。
この生贄、別に俺である必要はなかった。ただここを歩いていて、たまたま目をつけられただけなんだ。
それだけの理由で俺の生死は今、こいつに委ねられたんだ。
最高じゃないか。
自然と口角が上がり、肩が揺れた。
そして気がつけば、そいつの耳元でこう囁いていた。
「ありがとう……」
「……」
俺の囁きに、通り魔の肩がビクリと揺れた。
そして。
やつは俺から静かに離れた。
手には俺を刺した刃物が握られている。
流行りの映画で、主人公が使っていたものに似ていた。
無言で俺を見つめる。手が震えていた。
そして。
通り魔は大きく息を吐くと、俺に背を向け走っていった。
……なんだ?
俺の反応が気に入らなかったのか?
もっと生に執着し、「助けてください」と懇願した方がよかったのか?
もしそうなら。すまんね。
人選間違えたぞ。
そんなことを思っている内にも、腹から熱い血が流れていった。
足が震え、全身が鉛のように重くなっていく。
そして。やがて。
俺の足は俺を支えることを放棄した。
俺はその場に崩れ、アスファルトを抱きしめた。




