第六章 エピローグ
「こっちは初めて来るなあ」
「カァ?」
コウタが思わず漏らした独り言にカークが反応する。
三本足のカラス、カークはそうだったか?とでも言いたげだ。
コウタとカークは、精霊樹と小さな湖のほとりを離れて見まわりをしていた。
午後の散歩ともいう。
いちおう、コウタは漆黒の剣を手にしている。
ときどき下草を払ってるあたり、ナタがわりにしか考えてないようだが。
見まわりに出たのはコウタとカークだけではない。
「我は2000年ぶりか。ずいぶんと変質が見られる。なるほど、『瘴気渦巻く絶黒の森』か」
ボロいマントをまとって杖を手に、痩せこけた壮年の男が同行している。
クルトである。
ダンジョン外では骨の体ではなく、人間の姿を取っていた。見た目だけは。
「東には死の谷があって、南はクルトさんの研究所がある」
「ダンジョンでかまわぬよ、コウタ殿」
「クルトさんはこっち、絶黒の森の西に何があるか知ってますか?」
「ふむ。我が研究所にこもってから2000年の時を経ているゆえ、定かではないが……」
「あっはい。ずいぶん長い間引きこもってたんですね」
「ここより西、山々を越えた先には海があったはずだ」
「おおー、海!」
「カァ!」
「いまも存在するかはわからぬがな」
「いやいやいや、海ですよね!? 2000年じゃなくならなくないですか!?」
「うむ、おそらくは」
「『おそらく』なんだ……異世界すごいなあ……」
「カァー」
進行方向の先、西にそびえる山々を見上げるコウタとカーク。
コウタはただぼんやりと、カークは今度見に行ってみるかと決意を込めて。
道のない山を踏破するのは厳しいものだが、カークには翼がある。
もし飛べれば、コウタも気軽に「絶黒の森」の外に出たことだろう。出ただろうか。
「ガアッ!」
「ん? どうしたのカーク?」
「ほう、これはなかなか……興味深い」
コウタとともに西を見ていたカークが警告の鳴き声をあげた。
呑気なコウタはともかくとして、クルトはすぐに反応する。
「モンスターが出た? カーク、クルトさん、下がって。前衛は【健康】持ちで怪我しない俺が」
「カァ」
「その必要はあるまい、コウタ殿。話通りであれば、あれは」
「あっ」
木々の枝葉と瘴気で薄暗い森の先。
幹の影から、一体のモンスターが姿を現す。
モンスターを前に、二人と一羽は冷静だ。
なにしろ現れたのは、見知った顔だったので。
絶黒の森の濃密な瘴気で変異したモンスター。
鋭いツノで人も動物もモンスターも斬り裂き、敏捷性と速度で何者も逃さない『絶望の鹿』である。
コウタに差し出した左のツノは、生えかけで短いままだった。
「最近見ないと思ったらこっちにいたんだね。ひさしぶり」
ペコっと会釈するコウタ。いつもの挨拶だ。
つられて鹿も頭を下げて、剣状に伸びた右のツノと短いままの左のツノを向ける。いつもの挨拶、ではない。
前足の蹄でゴリゴリと地面をかいて、いまにも向かってきそうなそぶりを見せる。息も荒い。
「あれ? どうしたのかな?」
「カァー。カアッ!」
「うむ。カーク殿の読み通り、我を警戒しているのであろうな」
「そっか、クルトさんは初めてだっけ」
「くははっ、我の魔力を感じながらも立ち向かうか。コウタ殿はずいぶん好かれているようだ」
「え?」
クルトがすうっと前に出る。
黒い鹿はぷるぷる震えだす。が、突進の構えを保っている。
クルトがばさっとマントを開く。骨の体となって杖をかざす。
黒い鹿は及び腰で、背後とコウタにちらちら視線をさまよわせる。
が、やはり逃げない。
「カァッ!」
と、見かねたカークがコウタをつついた。
「えっ、あっ、そうだね。クルトさん、この鹿は悪いモンスターじゃないんだ。ほら、鹿も。クルトさんは新しい仲間で」
黒いオーラ——瘴気、あるいは陰の魔力——をまとったクルトの肩を、コウタが気軽にポンと叩く。
黒い鹿がぎょっと目を見開く。歯を剥く。
「だから襲わないようにしてくれると嬉しいなあって」
ニコニコ笑うコウタに毒気が抜かれたのか、クルトが人間の姿に戻った。戦闘態勢を解いたらしい。
鹿はへにょりと座り込んだ。極度の緊張状態だったらしい。
「クルトも気をつけてね。ほかの絶望の鹿はわからないけど、この鹿は悪いモンスターじゃないから」
「うむ、了解した」
「あれ、ほかにも絶望の鹿っているのかな。話に残ってるぐらいだし一体だけじゃないと思うけど……一体しかいないんじゃ繁殖できないし……」
アゴに手を当てて考え込むコウタ。呑気か。
クルトは苦笑して、地面でぐったりする黒い鹿も呆れ顔だ。
「カァー」
あとカークも。
コウタとカークがこの世界で目覚めてから三ヶ月ちょっとが過ぎた。
健康で穏やかな暮らしを目指して開拓しながら、コウタは少しずつこの異世界のことを知る。
古代文明の生き残り魔導士・クルトによって、周辺のおおまかな地理も。
東は死の谷とその先に街、南はダンジョン。
「海かあ。あれ、海があるなら魚が手に入る? 塩も調達できそう?」
山々を越えれば、西は海なのだと。
コウタが絶黒の森から出る日も近いのかもしれない。
心身の【健康】によって戻りつつある、食欲のおかげで。





