1 醒めず、歩く
真っ暗な、温かいところをふわふわと漂っている。
体が軽い。まるで魂だけになってしまったのかと思うほどだ。
風が吹くでもなく、水があるわけでもない場所で、俺は自分を浮かばせている何らかの力に、ただ身を預けていた。
いつの間にか、辺りは白に包まれていた。
深く、深く、沈んでいく――――
***
目を覚ました。
ゆっくりと上体を起こすと、真っ先に視界に飛び込んできたのは部屋に差し込む金色の光だった。
見慣れた自室の景色。俺はベッドに座ったまま、暖房の風に揺れるカーテンをぼんやりと見つめる。
その隙間からは鮮やかな橙色がのぞいている。いつの間にか夕方になっていたらしい。
そういえば、俺は何時から寝ていたのだろうか。全く記憶がない。
今日はいつだっただろう。何か予定があったっけ、と、左耳に手を伸ばす。
「…………?」
まだぼーっとしていて働く気のなかった脳が、半分覚醒した。おかしい、と訴えている。
デイルバイスが今日は何も言ってこない。いつもなら、目を覚ました瞬間に、今日の日付とか天気とか予定とかを勝手に喋り出すのに。
――壊れたかな。
耳たぶに取り付けられたピアス型の小型機械を爪の先でつついてみたけれど、何の反応もない。
日々の生活をサポートしてくれるこの機械は、百年ほど前に開発されて、今では世界中の人が身につけている。俺も十七年生きてきて、これをつけていなかった時間は一秒だってない。
ぶつけても水に濡れても火の中に放り込んでも、故障どころか不調の話だって一度も聞いたことがないのだが。
もしかすると、俺は世界初の『デイルバイスが壊れた人』になれるかもしれない。……別にあまり嬉しくないな。
なんてどうでもいいことを考えながら、俺は水を求めてキッチンへ向かった。
四人家族用の、お茶がたっぷり入ったやかんを持ち上げるのは億劫で、蛇口から直接コップに水を注ぐとそのまま一気に飲み干す。
壁にかかった時計に何気なく目をやって、ふと、あることを思い出した。
『Dec. 14. Sun. 16:37』
そういえば、今日はデートなんだった。
約束の時間まではあと二十三分。待ち合わせ場所の駅までは走って十分だから、急げば間に合う。
超特急で服を着替えて、顔を洗い、髪を整え、コートを着て、ポケットの中身を確認する。デイルバイスがやはりどれだけ呼びかけても応答しないことに顔をしかめ、いけないいけないと笑顔を作り直してから家を出た。走って駅へ向かう。
まだ頭は、少しだけ、霧がかかったようにぼーっとしている。
彼女は駅前の銅像に背中を預けて、デイルバイスを操作するでもなく、ただ宙を見つめて立っていた。
俺が気づくと同時に向こうもこちらに気づいたようで、道路の向こうからひらひらと手を振ってくる。
俺は待ちきれず、走り出そうと地面を蹴った。
その時だった。
「ヒロくん!」
目の前を、車が爆速で通り過ぎていった。
反射的に後ろに跳んで避けた。心臓がばくばくと音をたてている。
遅れてプッとクラクションの高い音が聞こえて、思わず「すみません」と小さく謝った。左右確認を怠った自分も悪いが、信号の無いこの道では向こうも横断者の確認をすべきではないかとも思ったが、顔には出さない。出してしまったら、これから始まるデートが嫌な雰囲気になってしまう。
とにかく、今のでやっと、ぼーっとしていた頭が覚醒した。
今度こそ左右確認をしてから道を渡る。
すると、道を渡りきったところで、駆け寄ってきた彼女に飛びつかれた。首に腕が回され、ぎゅっと抱きしめられる。
「びっくりした、怖がらせないで」
彼女にしては珍しく、怖がるような声だ。
悲しい時も痛い時も怖い時も彼女はいつも強がるから、俺は彼女のこういう姿を滅多に見たことがない。
「ごめん、気をつける」
「ほんと、気をつけてよ」
声が少し震えている。相当怖がらせてしまったようだ。
「ほら、気を取り直して、行こう。せっかくのクリスマスデートなんだから」
「……そうだね。ごめんね、イブとか当日に行けなくて」
「いやそんなこと気にしなくていい。帰省なら仕方ないし、美香んちは毎年そうだろ。楽しんでこいよ」
「うん。ありがと」
美香は白いマフラーに顎を埋めて微笑んだ。かと思えば、目を釣り上げて俺を指差す。
「というかそれより、ヒロくん、何その服装! クリスマス感ゼロじゃん」
言われて俺は、自分の身体を見下ろした。
今着ているのはベージュのパーカーにカーキのパンツ、茶色のコート。ダサくはないはずだが、確かにクリスマスらしさはかけらも無い。
「でもそれはお前も一緒だろ」
「それはそうだけどさぁ。あ、でも、なんかペアルックみたいじゃない? 偶然!」
嬉しそうに笑う彼女は、ベージュのワンピースにムートンコート、白のマフラーを身につけている。足元は白のブーツ。俺が白のスニーカーで、二人ともベージュの服だから、確かにペアルックと言えなくもない……のか?
「あ、そうだ、いいこと思いついた」
突然、美香がポンと手を打った。
肩にかけたショルダーバッグから何かの包みを取り出すと、リボンを解き始める。
「ちょっと目、瞑って」
一体何なんだと首を傾げつつも、言われた通りに目を閉じる。
「よっ、と」
どうやら背伸びをしているらしい。
と思ったら、首に何かもさもさとした柔らかいものが当たった。それは細長い形状をしているらしく、ぐるぐると首に何周も巻きつけられる。
「これでよし。開けていいよ」
言われて目を開けると、首にワインレッドのマフラーが巻かれていた。
「どう? ズボンの緑と合わせて、ちょっとはクリスマスっぽくなったでしょ」
「あったかいし、これはまさか手作りか? 上手い」
素直に褒めると、美香は腰に手を当てて誇らしげに胸を張り、ふふんと鼻を鳴らした。
「すごいでしょ。お揃いなのです」
そう言って、自分の白マフラーの先をちょいちょいと引っ張る。
その笑顔に頬が緩むのをどうしても抑えられない。今の俺は、にへへと変な笑みを浮かべているかもしれない。
「じゃあ俺からも」
なるべく表情を引き締めて、ポケットに右手を突っ込んだ。
「美香、目瞑って」
「え。なになに、気になる」
彼女が笑顔で瞼を下ろしたのを確認して、白いマフラーを外した。置き場所がなかったので、とりあえず半分に畳んで自分の肩にかけておく。
「ちょっと寒いけど我慢してくれ」
ポケットから、ベロアの小箱を取り出した。
開けると、金色に輝くネックレスが姿を現す。赤いハートのチャームが揺れた。
高校生の財力ではあまり高価なものは買えない。だから有名なブランドのものではないけれど、美香の好みや俺の好みも考えて、二か月近く考え抜いて選んだ品だ。
けれどネックレスのちょうどいい長さなんて知らないから、チェーンをめいっぱい長くして、彼女の視界にチャームが入るようにつける。
「できた」
美香が目を開ける。
それから下を向いて。
「うわっ」
第一声は可愛いでも嬉しいでも大好きでもありがとうでもなかった。少なくとも期待していた言葉ではない。
しかし、喜んでもらえたのかそうでないのかは、言葉で言われずとも彼女の表情ですぐにわかる。
美香は一瞬だけ固まっていたが、すぐにぱっと顔を綻ばせた。その瞳はキラキラと輝いている。
「可愛い! これ、めちゃくちゃ好みなんだけど! ありがと、ヒロくん! あ、ねえねえこのハート、もしかして永遠の愛を誓うとか? いや別に自意識カジョーとかじゃなくて」
「その通りだけど」
「うわ、重っ」
俺が澄まして答えると美香は顔をしかめたが、その仕草や口調の端々から、彼女がご機嫌なのが伺える。
「別に重くはないだろ。というかどうしてハートの意味がわかった」
「だってヒロくんらしいかな、と思って。ちょっと中二病っぽくてイタいとことか。私達、もう高二だよ?」
「おい中二病ってなんだ、どういうことだ」
「えへへ喩えだよ、気にしない気にしない。その愛、しかと受け取った」
「そりゃどうも。じゃあそろそろ行くぞ、予約に遅れる」
「え、予約してくれてるんだ。どこだろう。というかヒロくんスマートな男じゃん、中二病はどこいったのよ」
「だから中二病いうな」
「あ、そこのコンビニでココア買っていっていい?」
「それくらいなら大丈夫だろう。ホットでほっと、だな」
「寒いよ、ヒロくん。マフラー返して。それじゃ、しゅっぱぁつ!」
「おー」
楽しそうな美香の動きに合わせて、俺も小さく拳を突き上げた。
コンビニに向かう間、デイルバイスが応答しないことを美香に話してみた。
すると彼女は、意外にもあっさり「あーそっか、じゃあ今日は私が払うよ」と二人分のココアとコーヒーの会計を済ませてくれた。現代では、店での会計もアニメの視聴も電話もメールも、すべてデイルバイスで行う。だから、それが使えないとなるとかなり不便なのだ。
金は後でちゃんと返すから、と謝ると、いいよそんな気にしなくて、と言われた。気にしなくていいはずがない。彼女に奢られる彼氏なんて、格好がつかないだろう。
車道沿いの街路樹は、まだクリスマスまでには十日もあるというのに、みんなライトアップされてピカピカと光っている。
銀行などの大きな建物には映像が投影され、頭上にはプレゼントや星の形をした風船が、これまたカラフルにピカピカしながら漂っている。
普段とは違う、浮かれた街を歩いていく。見慣れているはずの景色が、今日は全然違うもののように思える。
「ねえ」
美香が俺の袖を引っ張った。
「もしかして、公園に向かってる?」
さっき話していた『予約』の内容は、彼女には秘密にしていた。けれど、どこに向かっているかでバレてしまったようだ。
美香は確信を瞳にたたえて、俺を見つめている。
「ご明察。小型飛球に乗ろうと思ってる」
「え! やったぁ」
美香は歩きながら小さく飛び跳ねた。
「そういえば最近乗ってなかったなあ。クリスマスの街なんか、絶対綺麗じゃん。冬に乗るの初めて! 楽しみ!」
小型飛球はデートの定番だから、逆に「他のがいい」と言われることも覚悟していたが、喜んでくれて安心した。
美香はによによと頬をだらしなく緩ませている。スキップする後ろ姿を可愛いなあと微笑みながら眺めていると。
一瞬にして、全身の血の気が引いた。ちょうど、彼女が横断歩道に差し掛かったところだった。
十メートルほど前にいる彼女に手を伸ばし、思わず大声で「美香!」と叫ぶ。手は当然、空を切った。
呼ばれた美香が立ち止まり振り返った、その瞬間。
彼女のすぐそばを、一台の車が猛スピードで走り抜けた。
俺は駆け出し、そのままの勢いで美香を抱きしめる。全身が脈を打っていた。
「飛び出したら危ないだろ。心臓止まるかと思った」
「うわあそれはやめて、ヒロくんは生きてー」
「さっき同じことになりかけた俺が言うのもだけど、ほんと、怖がらせんな」
「……うん。ごめんね」
美香は俯き、目を伏せた。マフラーに顎を埋めたその姿は、何かをこらえているように見える。
彼女の恐怖を少しでも取り除いてやろうと、俺は片手を差し出した。
「ほら。手、繋ぐか?」
「うん。ありがと」
俺の手を握りしめる美香の手は、真冬なのに手袋をしていないからか、とても冷たかった。




