十六年前の事件
――今から十六年前。
平穏な街の日常は、突如として破られた。
「――ッ、パアンッ!」
乾いた銃声が、銀行の天井に突き刺さる。
それは、平穏な昼下がりを地獄へと変える合図だった。
火薬の焦げた臭いが鼻を突き、一人の銀行員が胸を押さえ、崩れるように床へ倒れこむ。
流れる鮮血が、冷たい白石の床を赤く染めていった。
逃げ惑い叫ぶ者、腰が抜けて声も出せずに震える者。
フロアは一瞬にして混沌と化した。
「死にたくなければ、全員そこを動くな!誰か一人でも動けば、この女を撃つぞ!」
不気味な覆面を被った大柄の男が、膨らんだ腹を抱えて震える女性客を背後から拘束し、そのこめかみに黒光りする銃口を押し当てた。
凍り付いたような静寂が場を支配する。
誰もが息を潜め、男の指先一つに自分たちの命が懸かっていることを悟った。
大柄の男の仲間には、長身の男、小柄で細身の男、中肉中背の男、細身の女、合わせて五人いた。
銃を持っているのは、大柄の男だけのように見えた。
「……待ってくれ」
張り詰めた空気を切り裂くように、一人の男性客が声を上げた。
すると、もう一発、銃声が響く。
銀行内が再び恐怖に包まれた。
「勝手に喋るな……!死にたいのか、ああん!?」
覆面を被った大男は、苛立った声色で言い放った。
しかし、男性客はひるまずにそのまま続けた。
「人質が必要なら、僕が代わりになります。……彼女には、守るべき命があるんだ」
「……ふうん。この状況で人助けとは。勇気のある兄ちゃんだな。いいぜ。こっちへ来い!」
男性客は両手を高く上げ、刺激しないよう一歩ずつ、慎重に大男へ近づいていく。
「カサッ」
その時、何か物音がした。
大男は焦ったように、背後の物音へ視線を向けた。
その刹那。
男は電光石火の早業で、大男の銃を掴むと、その手首を鋭く捻り上げた。
銃が男の手へと渡る。
「……あ、ありがとうございます……っ」
解放された女性の顔に、安堵の涙が伝う。
しかし、その瞬間――
「――パアンッ!」
二度目の銃声が響いた。
男性客の側頭部が弾け、彼は糸の切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。
女性客は恐怖と罪悪感に足がすくみ、意識を失い、床に倒れこんだ。
「銃を持ってるのが一人だけだとでも思ったか?……ヒーロー気取りの馬鹿が」
この銀行強盗事件では、銀行員一人と男性客一人が死亡し、現金五千万円が奪われた。
ほどなくして、警察が到着した。
犯行グループは複数に分かれて逃走したが、五人のうちの一人を逮捕することができた。
しかし、逮捕した男は送検中に、所持していた拳銃で自殺してしまった。
解読不能な暗号を残して。
捜査は難航を極めた。
現場から消えた四人の足取りは霞のように消え、自害した男以外の有力な証拠は、何一つとして見つからなかった。
事件は未解決のまま、人々の記憶の隅へと追いやられ、深い闇に葬られようとしていた。
事件から三週間が経過した、静まり返った深夜の病院。
あの凄惨な事件で人質にされていた女性は、産気づき、新しい命を産み落とした。
だが、あまりに過酷な運命だった。
事件の精神的ショックと出血多量により、彼女は最後の力を振り絞って産声を上げた我が子を見届けることなく、静かに息を引き取った。
冷たくなった女性の傍らで、哀惜と怒りの融合に肩を震わせる男がいた。
この女性の夫である。
夫は妻の最期に立ち会えなかった。
刑事として、例の銀行強盗事件の捜査に明け暮れていたからである。
自分の妻を巻き込んだこの事件を、何としても解決しようと躍起になっていた。
「……必ずだ。必ず俺が、奴らを見つけ出してやる。お前の仇を……!」
それから一週間後、不気味なほどに明るい満月の夜だった。
同病院内で、誘拐事件が起こった。
退院を間近に控えていたあの乳児が、病院のベッドから姿を消した。
虚脱感に苛まれる刑事の前に残されていたのは、一通の無機質なメッセージだった。
血の気が引くような、宣告。
そこには、こう書かれていた。
『○○区△△の倉庫へ一人で来い。さもなければ、子供の命はない』
刑事の喉から、獣のような嗚咽が漏れた。
「……ふざけるな、ふざけるなよ!」
刑事は狂ったようにアクセルを踏み込み、パトランプも点けずに指定の倉庫へと疾走した。
深夜の街にタイヤの焦げる音が響き、周囲の車のクラクションが罵声のように追いかけてくる。
運転が荒くなっていることには気が付いていたが、それどころではなかった。
「来たぞ!……お望み通り、一人でな!」
刑事は倉庫の扉を開けながら、叫んだ。
重い扉を開けた先には、底なしの暗闇が広がっていた。
月明かりさえ届かない。
刑事は、倉庫の入り口に無造作に置かれた懐中電灯を手に取り、まっすぐ進んでいく。
懐中電灯の細い光が、埃の舞う空間を切り裂く。
人の気配はない。
周りは積み重ねられた、たくさんの段ボールが壁のようにそびえたっているのみ。
段ボールの壁を軽く押してみると、簡単に崩れた。
段ボールの中身はどれも空のようだった。
「どこだ……どこにいる!」
心臓の鼓動が耳元でうるさく鳴り響く。
刑事は奥へと誘われるように、段ボールの迷路を進んでいった。
突き当たりに辿り着くと、何かが置かれているのが見えた。
「これは……」
そこにあったのは、無機質な機械音を刻むプラスチック爆弾だった。
液晶に表示された数字は、無慈悲に「00:05」を示している。
「――しまっ……!」
刑事は背を向け、入り口に向かって地を這うような勢いで駆け出した。
「くそ……こんなところで、死んでたまるかぁぁッ!」
絶叫を、巨大な火柱が飲み込んだ。
轟音が夜空を震わせ、古い倉庫は一瞬にして崩壊した。
駆けつけた消防によって火は消し止められたが、後に残されたのは、真っ黒に焦げた鉄骨と灰の山だけだった。
警察の懸命な捜索も虚しく、瓦礫の中から「何か」が見つかることはなかった。
誘拐犯も、幼い子供も、そして執念を燃やしたあの刑事の遺体さえも。
ただ、焼け落ちた跡地の傍ら、満月の青白い光を浴びて、一匹の猫が静かに座っていた。
その猫は、まるで全てを見ていたかのような冷ややかな瞳で、闇を見つめていた。
この誘拐爆破事件も、真実は炎の中に消え、やがて人々の記憶から風化していった。




