第20話:概念的休日の、望まざる完成
……静かだ。
信じがたいことだが、この学園に来てから、これほど「論理的」な沈黙に包まれたのは初めてかもしれない。
私は、旧校舎の図書室の最奥、埃ひとつない個人閲覧ブースで、手元の羊皮紙に羽ペンを走らせていた。第3層のエーテル流体に関する数式が、私の筆致に合わせて完璧な幾何学模様を成していく。この整然とした作業こそが、私にとっての真の休息だ。
窓から差し込む夕日は、机の上を均一な180ルクス(目測だが間違いない)で照らし出している。
アゼムは「湖の主を素手で捕まえる」などと供述して遠征に出たし、ハルマルトは新種の肥料の爆発(予定)に備えて温室に引きこもっている。ラハブレア先生に至っては、職員会議で「備品としてのトングの耐熱性能」について弁論部と三時間は揉めるはずだ。
「……ふむ。事象の固定、完了だ」
私は羽ペンを置くと、背もたれに深く体を預けた。
誰にも邪魔されず、誰の失態もカバーせず、ただ自分の思考の深淵に潜る。
これこそが、アーテリス学園における「至高の放課後」の定義であるべきだ。
「……おや。エメトセルク、そんなところで彫像の真似事かい? 随分と、エーテルの色が凪いでいるね」
……。前言撤回だ。この男の存在という変数を忘れていた。
目を開けずとも、隣にふわりと座った気配でわかる。ヒュトロダエウスだ。
「……ヒュトロダエウス。私は彫像ではない。思考を、事象の地平で一時停止させていただけだ。それと、私のパーソナルスペースを概念ごと無視して踏み込むのをやめろ」
「あはは、相変わらず言い回しが凝っているね。ほら、これ。購買部のおばちゃんから預かってきたんだ。アゼムの『予約キャンセル分』だってさ」
机の上に置かれたのは、学園名物のチョココロネだ。
しかも、あのアゼムが「中身を全部、魔導クリームに書き換えてくれ」と特注して、そのまま湖に忘れていったという、論理の欠片もない代物である。
「……。あいつは、食欲の予約すら完遂できないのか。資源の無駄だな」
私はしぶしぶ手を伸ばした。
齧ってみれば、驚くほど濃厚な甘さが脳の演算回路を直接叩いてくる。
……悪くない。糖分は、愚か者たちの相手をするための必須燃料だ。
窓の外に目をやると、中庭のベンチで、1年生のグラ・ハが頭を抱えていた。
広げているのは、私が数年前に「難解すぎて誰も読まない」と確信して放置した構造解析書だ。
「……あの馬鹿。そこは第4節の逆行列を解かなければ、次のページは白紙のままだぞ」
私は溜息をつき、窓硝子越しに指先を向けた。
小さな魔力弾を放ち、グラ・ハの机にあるインク瓶の影を、正解へと導く数式の形に変形させてやる。
「おっ、気づいたみたいだね。……ふふ、エメトセルク。君、今日は本当に機嫌がいいんだね」
「……。勘違いするな。私はただ、学園の平均知的水準の低下を食い止めただけだ」
最後の一口を飲み込む。
甘すぎるクリームが喉を通る感覚と共に、私の「完璧な孤独」が、どこか救いようのない「日常」の色に染め上げられていくのを感じる。
……まあ、たまには、こういう非効率な放課後があってもいい。
しかし、その平穏は、図書室の扉が「物理的な限界」を超えた音を立てて開いた瞬間に、霧散した。
「エメトセルク――! 助けてくれ! 湖から連れてきた『主』が、寮の風呂場でエーテル爆発を起こしそうなんだ!」
全身ずぶ濡れのアゼムが、サンクレッドとエスティニアンを「肉壁」のように抱えながら突っ込んできた。背後からは、巨大な魚の尻尾が廊下を破壊しながら跳ねる音が響いている。
「…………」
私は、穏やかに、しかし確実に「消去」の術式を編み上げながら、隣のヒュトロダエウスを見た。
「ヒュトロダエウス」
「何だい?」
「……。今のチョココロネの代金は、アゼムの口座から三倍にして差し引いておけ。……行くぞ。あの巨大魚を、今夜のメニューという名の『確定した事実』に書き換えてやる」
「あはは! 期待してるよ、名シェフ!」
私は立ち上がり、コートを翻した。
足取りは驚くほど速い。それは怒りというよりは、もはや「この騒動を片付けなければ、明日の平穏が計算上成立しない」と理解した、プロフェッショナルの義務感のようなものだった。
やれやれ。やはりこの学園には、私のための「静寂」など、1セグメントも存在しないらしい。




