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黒き乙女の鬼語  作者: 紅河崎アリス
人魚姫
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幻想

あきらめを十分に用意することこそ、人生の旅支度をする際には何よりも重要だ

〜ショーペンハウエル〜

それは形容し難い光景としか言えなかった。


いや、形容は出来るだろう。


数限りなく見てきた光景なのだから。


だが、数ヶ月の平和と安堵に包まれていたボクにはやはり形容し難い光景としか言えないのだろう。


その光景は、ある種信仰的な何かを感じさせるに事足りる光景だった。


いや…


信仰的な何かを感じさせるよう仕組まれた光景だった。


何か恨みでもあったかのようにバラバラに切り裂かれた家具や嗜好品の数々。


そして、それを彩るように舞い散る


紅い、紅い、液体。


綺麗に掃除されているからか垢一つない白い壁は掃除をした者をせせら笑うかのようにズタズタに引き裂かれ、凹み、砕かれていた。


そんな部屋の壁の中央。


そこに突き刺さっている物が異様だった。


いや、異様すぎるが故に逆に正常に感じてしまうくらいにぶっ飛んでいた。


それは、言葉で飾ることなど決して出来はしない、人間だったものの成れの果てだった。


四肢と胸元に一本ずつ野太い釘を打たれまるで聖職者のような姿勢を無理矢理保たされながらそれはその場に存在していた。


それだけでも、心を抉るには充分過ぎる光景だと言うのにそれへの非行はまだ終わっていなかった。


まずは口。


ダランと力無く垂れた構内には脳味噌ごと貫こうとしているかのような四肢を保っている物と同じ釘が打ち込まれ、突き刺さっている。


他の釘と同様にその釘もその姿勢を保たせるための楔なのだろう。


それぐらいしかそれをやる必要性は感じられない。


次に、腹部。


背骨以外の全ての肉と皮が削ぎ落とされどろどろとした内蔵の各種が蕩け落ちていた。


ズルズルと、痛ましく。


まるで、人間は単なる内蔵を詰め込んでいる袋でしかないと言わんばかりに。


蕩け落ちていた。


生々しい死臭が入り口にいるボクらへと這い寄るかのように迫って来る。


部屋の隅から隅と言う近いとは決して言えない距離にいると言うのに。


その臭いはまるでボクらを包み込むかのように近付いてきた。


『一足…遅かったようだね』


そう言って雪さんはゆっくりと部屋の内部へと入ろうとする。


だが、ボクはそれを腕で制止し、やはり、ゆっくりと先導するかのように部屋の内部へと滑り込む。


思わず目を逸らしたくなるような光景を眼前にボクは歩き出した。


顔も声も知らない依頼人をせめて壁から降ろすために。


一歩、一歩、慎重に歩みを進める。


まだ血の乾きが甘い。


まだこの部屋の何処かにこれをやった犯人がいるかもしれない。


そんな中を雪さんを先導させるわけにはいかない。


と、その時、なにかが足に触れた。


いや、当たったと言うべきか。


それは、目の前に広がる光景をさらに幻想的にするに相応しい素材だった。


既に乾いてしまい赤黒くなった血液で魚のような鱗のビッシリついた下半身を染め、裂けた上半身についているのは恐怖にゆがんだ顔のみ。


他の素材を全て切り落とされたそれはピクリともすることなくその場で絶命していた。


その生物だったものの名前に心当たりがある。


いや、こいつが犯人だとすら思っていた。


『へえ、これは面白いね』


そう言って雪さんは笑う。


だが、ボクはまったく笑えなかった。


いや、声すら出せなかった。


心の奥から湧いて来るのはたった一つの疑問。


いや、こういう言い方は面倒くさいか。


はっきり言おう。


依頼人を襲うはずの海魔。


人魚が腹部を割かれた状態で部屋の中心にて息絶えていた。


これは一体…


どういうことだ?

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