Monday 半紀行
半紀行
午前十時、出発の時間である。
用意してある服に着替え、帽子を被り、防水シューズに足を通す。
玄関ドアを開けると、
「行ってらっしゃい!」
と、妻の声。晴天だが二時間ほどの外出で、念のため傘を持参する。
歩行杖の代用にもなる。
住居前の通りを左側に廻り込み道を下っていくと、すぐに公園が見える。
周辺住民は高齢化が進んでおり、人影はまばらで、時折、犬を散歩に連れている人を見かける程度。
右手に竹林があり、カラスの寝床になっているようで、早朝や夕方騒がしいが、夜が明けると、スズメ、ウグイス、ハト、その他小鳥が啼き始める。
その道を歩いて行く途中で擦れ違う人から声を掛けられても、ただ頭を下げて通り過ぎる。
その理由は後で説明するが、愛想がないと思われても仕方がない。
しばらく進んで、十字路を右折すると道が上りになり、突き当りを更に右折して上がって行くと、保育園が見える。
隣接する専称寺(真宗大谷派)の経営で、入り口横の脇道を通り抜けて行く。
園庭で子供らの可愛い遊ぶ姿が見えても、不審者と思われないよう気をつけないといけない。
高所から下を望むと、かなり広い野球等の球技ができる天満宮広場が目に入る。
よく少年野球の練習姿を見かけるが、横目で見ながら周囲の通路を下って行く。
途中で右手に長い石段があり、登り切ったところに下野天満宮がある。
祭神は菅原道真で本殿が建っている。
見上げるだけにとどめ、坂道を下って行くと、双方向車線の広い道路に出る。
右手遠くに山並みが見えるが、比叡連山の一角でその方向に真っすぐ道が伸びている。
厳冬期は木々が真っ白に覆われ、水墨画の風景を連想するが、春先は一転、道に沿って樹木花々が色彩豊かになり目の保養にもなる。
距離のある登り坂で休み休み進んでいくと、広い敷地の土塀に突き当たる。
天台真盛宗総本山、西教寺である。
総門は左手にあるが、右折して更に上りきり、そこから道なりに下って行くと途中に標識があり、険しい山道に入っていけば、延暦寺松禅院、更に国重文のある安楽律院に通じる。
付近は高木に覆われており、夏後半に耳にするヒグラシの一斉の鳴き声は薄暗い雰囲気もあって物悲しい涼感を覚える。
しかし、そちらには向かわず西教寺右手の塀に沿った車道を真っすぐに上っていけば、山側にある墓地に通じる境内に自然に入っていく。
近くにはTVで放映された明智光秀一族の墓があり、手を合わせた後、前庭を見ながら書院や本堂を横切る。
本来であれば拝観料が必要であるが、その代わり設置されている賽銭箱に、右ポケットから硬貨を取り出し奉納する。
堂内には立像、座像等の重文があり、建物の側を進んでいくと樹々の隙間から青々とした琵琶湖の絶景が見通せる。
そして、境内を下って行けば、左右に塔頭のある真っすぐな道に出て総門まで続いている。
春はサクラ、秋は紅葉が美しく、夜にはライトアップもされる名所で、シーズンには多くの観光客で賑わう。
外に出て右側に下り勾配の車道をしばらく行くと、東本宮に向かう標識が目に入り、山の辺の道に入っていく。
途中、千体地蔵尊があり、様々な形の石仏が置かれている。
更に琵琶湖の景色を眺めながら、小さな橋を渡り林に向かって進んで行くと、日吉大社構内である。
同社は全国3800ある日吉社の総本社であり、背後にある比叡山延暦寺の守護神としての存在でもある。
境内は広く、東西本宮、5摂社からなる山王七社と呼ばれるだけあって、本殿、拝殿等の建物が各所にある。
ここでも1か所の賽銭箱で手を合わせ、硬貨を投じ頭上を覆う樹々を潜り、数か所小橋を渡り進むと入り口の鳥居に辿り着く。
右手に行けば、日本一長いケーブルカーの乗り口に向かうことになり、日本仏教の母山として名高い比叡山延暦寺に通じる。
鳥居周辺には、道標や石碑、琵琶湖側に左右に石灯籠が並ぶ参道が見える。
この付近で早朝には、部活訓練で持久走をしている高校生や、比叡山から下ってきた全身白衣装の修行僧の姿も見られるが、日中は観光地として人の往来が増えてくる。
特に桜開花の時期はソメヨシノやしだれ桜目当ての観光客が大勢押し寄せる。
またそのころに合わせ山王祭が行われ、大社後方の八王子山から神輿がかつぎおろされ、大社内の行事や参道行列等の神事を経て、神輿が琵琶湖上を船で渡るまでの儀式は勇壮で神聖な催しである。
その時期に居合わせなくても、参道周辺には数々の寺社があり、歩道に沿って穴太衆積みの石垣や足元のせせらぎも風情がある。
途中で石鳥居や二の鳥居もくぐって行くことになるが、店舗もちらほら見かけ、お昼時になると鶴喜そば、日吉そば等の店で舌鼓を打つ人も多い。
左手に観光案内所があり、そこのトイレで用を済ませておく。
そこからすぐ右手に京阪坂本駅が見え、歩道は狭く擦れ違う人と譲り合って先に進む。
JR比叡山坂本駅近くまで来ると、道は広くなるが、信号を左折して高架道路下の平坦な歩行者通路を歩く。
かなり大きなスーパーが見え、そこで一息。店に入ると食品売り場に向かい、好みの菓子パンを選ぶ。
缶ビールとともに左ポケットから金を出し、レジで購入。
店の外に出て適当な場所に腰掛け、食料品を味わいながらしばし休息。
束の間の至福の時間である。
ゴミを捨てた後、再び歩き始める。
以前は両側に田圃があった長閑な上りの側道なのだが、今は住居が隣り合って並び様変わりしてしまった。
春先には賑やかなカエルの鳴き声を耳にしたものだが、全く途絶え寂しい限りである。
けれども数か所に置かれた石仏が、その名残を留めている。
市営テニスコートを横目に見て、車道に至り信号を渡ると、住宅地の道路に入っていく。
何度か方向を変え歩いていくと、三角形の公園が見える。
丁度昼時で食べ物の匂いを嗅ぎながら自宅に到着。
所要時間にして二時間程度の散策である。
「お帰りなさい!」
と妻の声。
座敷に上がり着替えして食卓へ。
しばらくすると昼食になる。
実は私は認知症を患った、徘徊しかねない老人なのだ。
正常だった頃、午前中の行動を頭にではなく、体に覚えさせたのである。
寺社への通り抜けは、その時に同情もあってか、了承を得ている。
また、午後には別のメニューが待っている。
今までどれくらい繰り返しているのか全く記憶にない。
けれどもこれから、幾度も繰り返していくことだろう。
体が動かなくなるまで。




