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雑記 1week  作者: 野原いっぱい
11/11

Saturday 空白だらけの日記(高校、浪人)


挿絵(By みてみん)


高校生になり今まで参加したことがない運動クラブに入部することにしました。

どのクラブがいいか検討しましたが、やはりブームになっているサッカー部に入ることにしました。

なにしろ全日本のエースである釜本は同じ京都の出身ですし、他にも杉山、小城、森、横山といった大学、実業団で活躍中の選手名を挙げられるくらい人気の競技だったからです。


そして入ってびっくり、新入部員の1年生が40人ほどいたのです。

3年が5人、2年が7人なので私たちの学年で一気にサッカーが脚光を浴びたようです。

かくいう自分も、今までサッカーをしたことがなかったのですが、他のクラブを考えることはありませんでした。


靴やユニフォームを用意してクラブの練習に参加しましたが、とりあえず走ることからスタート。

総勢50人ほどになるため、一斉のランニングは圧巻でしたが、片隅で10人たらずの野球部員が練習しており、我々の方を羨ましそうに見ていました。

1年生の中にも経験のある者もいて、上級生から特別なメニューが与えられたのですが、我々いわば素人はダッシュ及びコース外に転がったボールの球拾いに放課後の練習時間を費やしました。

もしチーム編成を全員に当てはめるとすると、十一人がでられるので、おそらく4軍だろうなと思いながら練習に汗を流しました。


数カ月が経った頃に、あの釜本選手の母校であるY高と対戦することになりました。

もちろん地区きっての強豪チームで勝つのは難しいと思われました。

当校の出場選手は3年生全員と2年生で我々応援にも力が入ります。

ところが、一進一退の接戦となり、3年生が脚を吊りながらも、最終的には勝利したのです。

これには監督をはじめ部員一同大喜び。

公式試合でも良い結果が出るのではないかと思ったものでした。


それから、夏休みの合宿に参加しました。

部員全員が校内で寝泊まりした上で練習に明け暮れるのです。

真夏の炎天下での過酷な練習が続き皆喉がカラカラです。

その中でOB等からの差し入れでバケツに入った冷たく甘いジュースが届きますが、それを順番に柄杓で喉を潤します。

ただし、年長者優先で1年生の自分まで回ってくるころには、わずかに残っているものの、皆の汗や汚れが混じり黒っぽく変色し飲めたものではありません。

しかたなく水道の蛇口まで走ります。


そして、合宿も後半になりR高との練習試合がスケジュールに組まれました。

強いチームではありますが、Y高に勝った勢いで圧勝するものと誰もが信じていました。

試合は前半に2得点してこのまま勝利することを疑いませんでした。

ところが後半に入り状況が一変。R高に得点を許すと、立て続けにゴールを決められ、終わってみれば2対4で敗北してしまったのです。

明らかにスタミナに差があり、相手のほうがタフだったようです。

この結果に監督が怒り心頭し、二軍相手の第二試合に疲れ切ったレギュラーメンバーをそのまま出場させたのです。

数人が脚を痛めながらも、なんとか引き分けに持ち込んだのですが、我々控え選手はこの状況に声援も小さくなり、レギュラー陣が気の毒に思いました。

また、1年生主体の2軍選手は出場機会がなくなり、ガッカリです。


その夜の全員ミーティングの際、皆の前で3年生5人が一列に立たされ、監督が一人一人の頬を平手で思い切り叩きました。

監督は激情型のOBで、不甲斐ない負け試合に立腹し、部員全員に緊張感を持たせるために厳しい制裁を見せつけたようです。

部屋は静まり返り、もっと真剣に練習をしようと思う者と、私のように身がすくみ熱も冷めてしまった者がいたようです。

翌日からはより一層ランニング回数が多くなり、練習メニューが厳しくなりました。


そのような折に、OBコーチから私に家族が面会に来ていると言われました。

家に何かあったのかと思いながら、合宿所から正門の方に移動すると、なんと祖父が椅子に腰掛けていました。

私が心配で高校まで見に来たと言います。

年は八十を超えており、見た目に老人とわかります。

家から相当な距離があり、普段外に出歩くのが好きな祖父の脚でも時間が掛かったに違いありません。

私は恥ずかしさとやりきれない気分に襲われました。

他の部員の誰もが家族の面会、応援等なかったからです。

しかも皆ピリピリしており、タイミングが悪すぎます。

それでも年寄りのことで、強く文句を言うことは差し控えて、コーチの許可を得て途中まで送って行くことにしました。


そのようなハプニングがあったにせよ、合宿に最後まで参加することが出来ました。

その後、9月になっても相変わらずライン外での球拾いの役目です。サッカーボールを蹴ってグラウンドを駆け回ることはこれからも無理なようです。これからの季節、寒くなり立っているだけでは体が冷えて耐えられないと思いました。更に、合宿中に予感していたのですが、このまま続けていく意欲も減退しています。そして、退部する決心をしました。短かったのですが、私の運動クラブの体験は終わりを迎えました。


挿絵(By みてみん)

高校生になりアルバイトをすることになりました。

近所に牛乳屋があり配達員を募集しています。

新聞配達の場合はチラシ広告の差し込み等があって、朝4時くらいに起きないといけないのですが、牛乳の場合はそうでもなさそうなのですることにしました。

乗り物は自転車で後部と前かごにも牛乳を載せて同じ学区内の住宅に配達していくのです。

多くの家には牛乳受けが玄関に設けられており、ほとんどが瓶に入った白牛乳、家庭によってはフルーツ、コーヒー等の銘柄もありますし、それぞれ本数も違い配達先全て覚える必要があります。

時々、配達忘れ、間違いなどもありますが、1時間くらいで終了し学校には充分間に合います。

ただ、日曜日以外は天候の悪い日も配らなくてはならないため、一応体調管理をしています。


さて、牛乳を運ぶ自転車の運転については自信があります。

小学生の頃、自転車で街中を走って一人で電車ごっこをしていました。

大通りの千本、北大路、西大路、今出川各通りを一周。

適当な場所、例えばバス停留所でストップ。駅名を自分でアナウンス。

『きたのはくばいちょおー、きたのはくばおちょおー』のように。

言い終われば次の駅に向かってペダルをこぎます。

もちろん、信号が赤だと止まらないといけないし、走って来る車には気をつけて移動します。

一人遊びですからスピードを出すことなく、のんびりと走っていました。

京都は東西南北道路が碁盤の目になっており、大通りだけでも時間を掛けて走り、自分なりに停車駅を作った上で用紙に記入しようと目標を立てたのですが、結局実現しませんでした。

日数がかかりそうなのと、学年が上がるに従って幼い子供の遊びに思えてきたからです。


中学生になって、クラスの有志でサイクリングに行くことになりました。

行先は周山街道の高尾方面です。

適当な場所で飯盒炊爨するため、銘々が食料を持参することにしました。

初めてのことなので興奮しました。


学校近くに集合し出発。

一般道を一列縦隊で立命館大学キャンパスを横に見ながら走る。

観光名所の竜安寺、仁和寺を通り過ぎて、周山街道に入る。

そして、延々と上り道が続きかなり走ったところで、いよいよ高尾区域に入り、車列もかなり距離があくようになった。

私は以前から自転車に乗りなれていたこともあって、なんとか先頭を追走することが出来ています。

そして、かなりの上り坂である峠道に差しかかると、私も含め多くが自転車から降りて、ハンドルを押して進みました。

一番体力が消耗する坂道で皆呼吸が荒くなっています。

そして、登りきったところに休憩所があり、食料品を売っています。

そこで、冷たいジュースを飲んで、後続を待ちました。


そして、全員揃い一休みした後出発。

清滝川が下方に見え、このあたりは、春は桜、秋は紅葉が見ごろの観光名所でその上流を目指します。

上り下りのある比較的楽な道路で、更に急流が眼下に見えて、陽が川面を照らす時と、山蔭に入るシーンが交互に現れ絶景が続きます。

夏の暑い時期ですが、吹きつける風が気持ち良く、次から次へと変わる谷川の美景に全身に活力を与えてくれます。

有名寺院の高山寺を通り過ぎて、梅ケ畑と呼ばれる地域に入り、ところどころ北山杉の案内板を見かけるようになり、気が付けば京見峠や鷹峯方面への分岐点である杉坂に到着していました。

そこで、河原に降りて昼食を取ることにしました。

全員が無事揃って一応の目的地に着くことができ、皆満足で楽しく食事をすることができました。

そして、お互いにまた再びサイクリングに来ることを誓い合ってUターンし帰路についたのです。

おそらく中学時代の最も感激した思い出といっていいでしょう。


しかしながら、約束事はその後中学では果たせませんでした。

同じルートをサイクリングするのは高校生になってからです。

けれども以前とは全くメンバーが異なり、親しい友人で周山街道を目指しました。

前回と同様に清滝川の絶景を堪能しながら、昼頃には杉坂の分岐点に着きましたが、今回はUターンせずに、鷹峯方面へ抜ける道に進むことにした。

ただ、舗装されておらず、通行は出来るものの、ところどころ凸凹した路面が続きます。

両側は樹木に覆われており、小川は流れているものの、今までとは異なり視界も悪くなりました。

また、かなりのスピードダウンとなったが、樹木に囲まれているため比較的涼しい。

途中で標識があり、鷹峯に向かわず探検気分で山道に入ることにした。

森林の中に辛うじて通れる上り下りの続く細道のため、自転車から降りて押して進まざるを得ない。

普段は林業関係の人が利用しそうな道で、鹿や猪にでも遭遇しそうな雰囲気である。

途中山登りでありそうな険しい崖もあったりで、自転車を伴っているため四苦八苦の連続。

そしてかなりの時間が掛かったが、薄暗い山中から、明るく開けた場所に出ることが出来た。幾分広い二車線の舗装路の側に、川が流れていた。京都市内を縦断する賀茂川である。この道を下っていけば碁盤の目の北端に位置する大通りに出るだろう。長くて時間を掛けた自転車での冒険は終わりを告げた。


そして、今日も変わらず自転車で牛乳を配達し、自転車で高校に通っています。


挿絵(By みてみん)

テレビを見ると日米安保とベトナム関連のニュースが多くなった。

過去に遡ると、安保闘争については1960年当時、急進派学生が主体となって反安保闘争が繰り広げられ、エスカレートしていきました。

そして、いわゆる全学連と一般市民も巻き込み、日米安保を推進する政府に抗議するため、国会議事堂周辺に集まりデモが拡大し騒乱に発展。

女子学生が死亡し、多数の負傷者、逮捕者が出るに至ったのです。

その後、安保条約が批准された後、内閣が総辞職し総理大臣が交代すると運動は沈静化しました。


ベトナム戦争は社会主義の北ベトナムと資本主義の南ベトナムの間で勃発しましたが、アメリカが介入したために規模が拡大してしまいました。

アメリカはトンキン湾で発生した軍事衝突がきっかけとなって、北爆を開始、数多くの米軍を南ベトナム軍に加勢するため上陸させました。

それに対して北ベトナム軍兵士や解放戦線はゲリラ戦で対抗。

それ以来、両軍兵士、民間人の犠牲者は増え続けている。


高三となり一応進学を希望しているため受験の時期となりましたが、世の中が騒然としており、今一つ勉強がはかどりません。

2年先の1970年は安保条約の改正の年にあたり、1960年当時と同様、学生運動が活発に行われるようになっています。

集会や街頭デモもありますが、全共闘を主体に全国の主要な大学で建物を占拠し立てこもった上で条約破棄を訴えるケースが多くなっています。

特にテレビで盛んに放映されていたのは、東大、日大でそれぞれ山本義隆、秋田明大という闘争の主導者が有名になっていました。

もちろん関西でも京大、立命大も学内は荒れており、学生の過激な行動も目立っています。

それでも、高校生である自分には、セクトだのイデオロギーだの分からないことだらけ。


新聞やテレビで盛んに報道されているものの、傍観者的立場だったのですが、なんと通っている高校でも生徒を集めてアジ演説が始まったのです。

当校はテニスコートが複数あり、観客席もあるのですが、そこで幟を立て、チラシを配り、ヘルメットを被った学生がマイクに向かって声を張り上げています。

結構人数も集まっており全国で起こっている学生運動が影響しているようです。

これでは私も関心を持たざるを得ません。


丁度そのころ、他校の友人から京大のキャンパスを見にいこうと誘われました。

行ってみると正門入口付近に時計台のある建物が見えますが、ロッカーや机が並べられ中に入れないようになっています。

壁や柱にスローガンや要求文が書かれた紙があちこちに貼られていまいます。

窓からヘルメットを被った学生が顔を出しており、その光景を人々が路上から眺めています。

やはり、テレビに映った主要な校舎の占拠はここでも行われていました。

それから立命大にも行ってみました。

同じような状況で、いかにも学生運動の真っただ中といった容姿で多数が校内に陣取っています。

他の大学からも応援に来ているとのことです。

ふと疑問に思ったのは、彼らは講義を受けているのかということと、本当に目的を理解して運動に参加しているのか。

もし、真面目に学問を習得しようと思っている学生にとっては迷惑ではないか等々。

自分にとって色々考えさせられる機会になりました。


更に、決起集会にも参加しました。場所は岡崎公園にある丸山音楽堂です。

屋外にあり普段は様々な催しが行われていますが、この日は反戦、反安保団体、全共闘等が一堂に会して演説会を実施したあと、デモ行進を予定しています。

私たちは石段の観客席から、前方のステージに次から次へと現われる弁士に目と耳を向けています。

落ち着いてしゃべる経験豊富な年配者と比べると、全共闘の学生はいずれも門切り型で『断固粉砕』『要求貫徹』等勇ましい言葉を発しています。

会場を盛り上げようと拳を上げ意気盛んの様相です。


そしてすべての演説は終了し、いよいよデモ行進に移ります。

私たちは普段服での参加したため、整然とした行列で行進する団体に混じって、公園を出て大通りに進みましたが、過激なヘルメットを被った全共闘の学生たちの場合は、お互い姿勢を低くし肩を組んでシュプレヒコールを一斉に叫びながら道路に出た途端、近くで待機していた機動隊に両側から挟まれてしまいました。どうやら、警察に目を付けられているようで、楯を手に持った機動隊員の方が体格に勝り数も多いように思えますので、彼らが意図しているジグザグ行進のような派手なアピールは無理なようです。

その光景を目にし、学生たちの行動が、いかに活発に見えようと世の中を動かすことは無理ではないかと実感した次第です。


騒がしい年となっていますが、受験までもう間もなくです。




挿絵(By みてみん)

私は返ってきた答案用紙を手に取って茫然とした。

物理Bの採点0点。生まれて初めての屈辱的試験成績。

しかも翌年は大学入試試験が2、3月に控えており絶体絶命のピンチ。


確かにこの年、学生運動が全国の主要大学で繰り広げられ、私が通う高校にも影響し、集会があったりビラが配られたり気になって、今一つ勉強が捗らなかったことも事実です。

けれどもそれは言い訳にはなりません。校内に図書室があり、昼休みに覗いてみると、同級の知った顔が熱心に勉強している姿が目に入ります。

周りの雑音にも気に掛けず、受験準備をしている生徒も多くいるのです。

これはいけないと、真剣に取り組む必要を痛感しました。


ところで志望校については、ある程度決まっています。

英語、国語がどちらかといえば苦手で、しかも社交的ではない性格からすれば、文系は向いていないように思えます。

将来は具体的ではないものの技術者を目指したい気持ちもあり、おのずと理系を選択することになります。一方で、学費の高い大学は敬遠したい意識を持っており、私立大学は眼中にはありません。逆に国公立大学は私立に比べ格段に授業料が安く(なんと10分の1)、狙いは絞られてきます。

そして、地元で自宅から通えることが前提となります。

家に負担を掛けたくないこともありますが、本来貧乏性の性格であることが要因にあるようです。

すると、K大、KK大、KF大がそれに当てはまります。

けれどもK大は自分には敷居が高すぎます。

当校でも成績が最上位の数人が合格するだけと言われています。


このうちの有力な三人のタイプは異なります。

一人目はどのような問題でも解き方を心得ている天才タイプ。

次は授業計画や教科書を気にせず独自のペースで勉強を進めていくタイプ。

更には予習、復習を怠ることなく正確に実行するタイプが挙げられますが、残念ながら自分はそのいずれにも当てはまりません。

しかも、理系の主要科目に0点を取ってしまったように高校3年間の成績も芳しいものではなく、目標としたいずれの大学も受験勉強は間に合いそうもありません。


案の定、試験日程の遅い本命のKK大のみ受験しましたが、やはり準備不足は否めず不合格となってしまいました。

その結果、ある程度予想していましたが、浪人生となっての再スタートです。

もちろん、家族も一浪は容認してくれており、その意味では一安心。

その場合、予備校に入って再受験に備えるケースがほとんどですが、あえて入校せず独学を選択しました。性分からして学費の節約も念頭にはあったのですが、一心に勉強に励めば十分合格できる自信があったのです。

しかし、日を経ることなく、それは甘い考えでであったことを痛感することになったのです。


参考書も揃え、大雑把なスケジュールも立てて、受験勉強に取り組むことになりました。

まだ4月、来年の本試験まで十分時間はあるので、受験予定七教科を根気よく学習する予定でした。

ところが、5月に入りもっとも気候が良くなった頃に、突然参考書に書かれてある説明が頭に入らなくなってしまいました。

気疲れにより生じる倦怠かなと思い、音楽を聴いたり、漫画等雑誌を読み、頭を休めることを心掛けましたが、机に座って参考書をみても勉強する気になりません。

どうやら俗に言う5月病に陥ってしまったようです。


もし、予備校に通っていれば、周りに同じ受験生もいて刺激になったと思うのですが、たった一人での学習のため張り合いがなくなっているようです。

この時ばかりは、安易に学費を節約してしまったことを後悔しました。

その後も気分転換の必要性を痛感し、近隣の寺社めぐりをしたり、映画を見たりして時間をつぶしました。図書館や資料館にも行って自己即発にも努めました。


そして、ようやく勉学意欲が湧いてきたのは、なんと8月下旬頃でした。

4カ月ほどのロスが生じてしまい、大きなハンディとなってしまいましたが、遅れを取り戻す必要があります。

更に、勉強の空白期間に今までの記憶していたデータが抜け落ちている部分もあり、もう一度初めからやり直しの気分です。

しかも、第一志望の受験科目は7教科あり、まんべんなく学習していかなくてはなりません。

また、今までの経験から、あまり集中して頭を酷使し過ぎると、疲れが出て春先と同様な倦怠症状になりかねません。

適当に休憩時間を設けて参考書に取り組みました。

昼間はなにかと周囲の雑音が多く、勉強はもちろん自宅で静かな深夜に時折ラジオに耳を傾けながらすることが習慣となりました。


そして年も明けいよいよ受験シーズンに突入します。

日程からすると、K大が最初の受験対象となります。

けれどもほとんど合格見込みの薄い入試となりますが、自分のレベルを知るために挑戦することにしました。

ところが1日目の試験科目に現国があり、3種の単語を使って文章を作れとの問題がありました。

参考書では問に対して答えの出し方を主として習得してきたため、このような創造力が必要な設問は想定していませんでした。

さすが一級大学の問題は一味違うと思いながらも、誰がどのような基準で採点するのか疑問に思いました。悪戦苦闘の末になんとか作文しましたが、時間が掛かり過ぎて全体の半分しか目を通せませんでした。

他の教科も同様で難問が多く、解答が出来ない箇所が多々ありました。

このまま受験を続けていても不合格は間違いなさそうで、自信を無くすだけだと判断し二日目の試験は諦めてしまいました。


惨憺たる入試スタートとなってしまいましたが、気を引き締め直し、本命のKK大入試対策に取りかかる必要があります。

とはいってももう時間はありません。

逆に開き直って取り組んでいくしかありません。

そして、いよいよその日がやってきました。

もはや、今まで積み重ねてきた自分の知識を総動員して臨む以外ないのです。

合否の確率やその先のことなど気が回りません。

二日間にわたって、必須、選択7教科の試験用紙と向き合っていきます。

K大受験の経験から、難易度の高い問題に時間をかけずに解きやすい箇所を優先して記入していきます。

ある程度事前に作戦を練って問題に取りかかっていきました。

どの教科もK大の問題より易しく感じます。

その意味からは、事前に受けておいて正解だったようです。

けれども二日間の精神集中はさすがに疲れが生じます。

全ての試験が終わったころには疲労困憊の有様でした。


あとは結果を待つだけで、予想では合否半々といったところ。

発表まで1週間ほどかかりますが、もう参考書や試験問題を見る気にもなりません。

もし、不合格だった場合、何をするか青写真はありません。

また、2浪する気にもなれず、家に迷惑かけることも望みません。

漠然と就職する以外ないなと思っています。


そして、1週間過ぎて発表の日がやってきました。

ところが結果を知るのが恐く、大学構内の掲示板を見に行くことはありませんでした。

そう、どうも根が臆病な性格のようです。

その日は3本立ての映画を見て時間をつぶすことにしました。

結果は翌日の新聞に掲載されればわかるだろうと平然を装って過ごすことにしたのです。

結局映画のストーリーは全く頭に入らないまま帰路につきました。

家に入った途端、『おめでとう!』との声が耳に入ってきました。

KK大に在学中の兄夫婦が発表を見に行っていたみたいです。

その瞬間、喜びの感情より安堵の気持ちの方が強かったようです。

照れ笑いしながら家族と対面しました。

どうやら、あまり大げさにしたくない性格が表面に出たようです。

そして、受験勉強から解放されて安心したものの、大学入学まで何しようかなと思い悩んでいる自分がいました。




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