【1】
最初は、地震かと思った。
下から突き上げるような一撃がガツンと、デスクにあった珈琲がカップごと浮き上がったほどだった。
だがそれっきりで、首を伸ばして向かいの同僚の様子を窺うも、皆一様に仕事モードで、地震があった気配は微塵もない。
何か胸騒ぎがし、後から考えれば、ここで調べたことがきっかけだったことに気が付くのだが、この時の俺は不審に思い、キーボードを叩きパソコンで地震関連の速報がないか調べたものの、そのような情報を見つけることはできなかった。
付近で地下鉄の工事でもあったのだろうか。
ここは品川駅を海側に少し歩いた、古くはと殺場があった、いまでも名を変えてあるのだが、その向かいの、コンビニがある、下界を見下ろすような高層ビルでもない、ちっぽけで、昭和のかび臭いビルだ。
かび臭いついでに胡散臭い情報誌を発行している、非常にいかがわしい会社だ。ジャーナリストという、肩書だけはご立派なチンピラたちを野に放ち、脅しなだめすかし、所謂、裏社会の情報をせしめて銭稼ぎをしている会社だ。
胸を張って言える仕事ではないが、俺たちが流している情報をもとに、大がつく企業たちが蠢く、仕手戦を彷彿とさせる、なかなかやりがいのある仕事だった。
気のせいかと珈琲のカップに手を伸ばした時、内線が鳴った。表示された相手の番号は、社長室のものだ。
雇ったジャーナリストが捕まるなどの失態は思い当たらないが、社長室からの内線を放置もできず、俺は受話器を取った。
「介添君だね。いま、地震の検索をしたろう」
受話器の向こうは、聞きなれた社長の声。のんびりしているのに凄みを滲ませてくる、独特の声だ。
社員の通信記録も把握しているのは、まぁこの仕事だから予測はしてたが、これほど反応が早いと、何かあると身構えざるを得ない。
「えぇ、響くような衝撃を一発感じて調べたのですが、気のせいだったみたいです」
喉がひりつく感じを受けつつも、それを表に出さないよう、抑揚なく答えた。
「そうかぁーー」
それっきりボスは黙ってしまった。妙な沈黙が、俺に危険だと知らせてくる。
この仕事をしていると、身を護るために勘が鋭くなるのだが、まさにいま、目の前にある猛獣の檻の鍵が開いてしまうような、どうしようもなく、本能が逃亡を要求していた。
社長は何かを隠している。それに俺が気が付いてしまった。早くこの電話を切って、用事ができたと外に逃げるべきだ。
「ふむ、ちょっと、社長室に来てくれ」
逃げ口実を述べる前に、社長に寄り切られた。
「……はい。わかりました」
カチャと静かに受話器を置く。汗でシャツがべとついて気持ちが悪い。
「気のせいだ、たぶんな」
奮い立たせるために呟いた。
社長の部屋は、うす暗い廊下のつきあたりだ。ドアを前にして、ネクタイを揃え、小さく息を吐き、腹に力を込める。
気持ちで負けていると、物事はいい方向には転がらない。病は気からというが、アレは正しい。証拠は俺だ。
「介添君か、はいりなさい」
ノックをしようと拳を握ったところで、社長から声がかかった。センサーの類でもあるのかと天井に目をやったが、らしきものはない。
意を決してドアを開ける。
「失礼します」
一礼してから部屋に入る。壁に備え付けの刀掛けには、剥き身の日本刀が三振り。味気ない蛍光灯下でも、ギラリと光っていた。
大きな窓を背にした、どこにでもある事務用システム机に、恰幅の良い社長が、肘をついてこちらを見ている。
うちの社長、刀鍛冶 錬造。
にこやかな顔とふくよかな体格の癖に、いつの間にか背後に回っていたりする、気の抜けないオヤジだ。
元はどこぞの外人部隊にいたとか、いくつかの組を潰してきたとか、国会にも顔パスでは入れるとか、真贋つきかねる噂で身を固めた、曲者だ。
何もかもが見透かされている気がして、即座に回れ右したかったが、それすらも許されないような眼光を感じた。
「忙しいところ、わるいね」
「いえ、ちょうどキリが良いところでしたので」
「そうかそうか」
にこりと微笑む社長。俺の背中は汗でぐっしょりだった。
あの笑顔の向こうで、どれだけのことをしてきたのか。
俺は、この社長に拾われた。
経済ヤクザのフロント企業でまっとうに仕事をしてきた俺は、なぜか国税局に身柄を拘束されていた。
会社が闇送金でやらかして、俺がトカゲの尻尾になっていたらしい。
知ってるか?
この国で一番怖いのはヤクザでも警察でも自衛隊でもない。国税局だ。
税務署の中で青色申告に辟易してるのはただの兵隊で、裏にいる、課長級で組織された徴税部隊が本体だ。
後ろ手に縛られ、机に刺さったドスを前にして、国際送金先を吐けと脅されていた時に、社長が救出してくれた。なにごともなかったかのように部屋に入ってきて、俺を担いで口笛を吹いて歩いてでていった怪傑だ。
俺の命の恩人でもある社長に、いま、恐怖しか感じない。
「介添君が気がついたあの地震は、我が組織が試験しているものでね、普通の人間には感じ取れないものなんだ」
意味の分からない言葉が並んだが、社長は笑みを崩さない。意味があるからだ。惑わう俺の出方を読んでいるのだろう。
「そんな人材を探していたんだよ、ずっとね」
社長の笑みが深くなった。ヤバイ時の顔だ。
俺の本能は、今すぐここから逃げたいと訴えているが、足をコンクリートで埋められたかのように、動かなかった。
「これを扱える人間を探していたんだよ」
社長がデスクから取り出したのは、女児用玩具で良く見かける、ファッションピンク色で、柄の先にハートがついた、取っ手にボタンが埋め込んでありそうで、チープな電子音が鳴り響きそうなステッキと、殴られたらたんこぶでは済まない重量感の、回転式拳銃だった。
冗談ではないということだろう。だが、社長がそう簡単に俺を撃つとは思えない。不躾だが、そのステッキと拳銃と社長の顔を、5度ほど往復させてもらった。
社長は、揺るぎない自信が見て取れ、本気で言っている人間の顔であり、狂人によく見る、疑うことを母体に置き忘れて生まれた、純粋な目をしていた。
「……社長、それは――」
「さぁ、これを手に、魔法少女戦隊に入り込んで、中から崩壊させるんだ」
社長の猟奇的な笑みに、俺に退路はないのだと悟らされた。