第十八話
書き直しました。2019
僕達は、その日の内に青説殿下の部屋へ出向いた。
はっきりさせておかなくちゃいけないことがある。
「殿下、居られますか?」
障子越しに声をかけると、中から硬い声音で返事があった。
「入れ」
「失礼します」
障子を開けると青説殿下は部屋の文机の前にいた。殿下の部屋は、すっきりとしていた。畳が敷かれた部屋にある物は、文机のみだ。まるで生活感のない部屋だった。
殿下は生真面目そうな、きりっとした瞳で僕らを一瞥する。僕らは部屋の中へ足を踏み入れた。
「先程の話ですが――」
「貴様には関係あるまい。他国の者は黙っておけ」
殿下はぴしゃりと一蹴する。
「ええ。本来ならば、僕が介入する話ではありません。これでも、分をわきまえているつもりです。いつかのように、でしゃばったことは致しません」
「では何故きた」
「僕はただの付き添いです」
にこりと笑うと、殿下は呆れたように息を吐いた。
「また、いつもの筆録か」
「はい」
殿下の仰るようにルクゥ国に籍を置く僕には関係のない話で、本来ならば関わってはいけない出来事だ。でも、全てを記すと決めた以上知っておきたいし、こう何年も一緒にいれば心を開きたがらない殿下にたいしてが情も湧く。晃が愛した人達がいる国ならば、なおさらだ。
だから、マルに事情を話してマルと火恋を伴ってここに来た。好奇心だけじゃなく、きちんと事実を知っておきたい。
「火恋は詳細を聞いていないようなので、貴方に直接お聞きします。殿下、何故、王を失脚させようとなさったのですか?」
「薄々貴様も感ずいておろう」
「意見の不一致があるのは存じ上げております」
「そうだ。兄上は甘い。あんな考えでは、この国も守れはしない」
(国も?)
その言い方では、他にも守るものがあるみたいだ。僕は突っ込んでみた。
「国もとは、他にも何か?」
「……」
青説殿下はしばらく黙り込んだ。一考するように床一点を見つめると、不意に顔を上げた。
「やはり、貴様に話すことではない」
「ですが、私には教えてくださいますわよね」
火恋が強い語調で言って、殿下を見据えた。
「そこの男がいなければな」
「分かった」
マルが即座に頷いた。
「ごめん、レテラ。ちょっと出ててもらえる?」
「……分かった」
やっぱ、そうなるか。後でマルにでも訊こう。僕は残念な気持ちで、くるりと踵を返す。その腕を捕られて、少し後ろによろけた。マルが耳元で囁く。
「後で教えるからさ」
考えてたことが一致して、僕は少しだけ目を丸くした。
「ありがと」
マルに礼を言って、部屋を出た。
そのとき、薄暗い廊下の角で一瞬だけ何かが揺らめいたような気がした。まるで、角から見えていた誰かの服の衣がさっと隠れてしまったみたいだ。
「誰かいるのか?」
僕は小さく独りごちて、角を覗いた。でもそこには、真っ直ぐに続く廊下があるだけだった。訝しがりながら首を捻る。
「あの衣、どこかで見たような」
記憶を辿る。ムガイが似たような物を着ていたような気がするけど、いかんせん一瞬だったので確証はない。
「見間違いかな」
再び廊下を眺めた。やっぱりそこには、深閑な廊下があるだけだった。
* * *
それから数時間が過ぎて、事件は突然起こった。
その日の夕方、日が西の空に傾く頃、僕は自室で清書に励んでいた。
あの後、マルから聞いた話を巻物に記していく。母国に送る気はさらさらない。こんな内容を送れるわけがなかった。下手をしたら、彼女を巡って戦争にもなりかねない。
「ふう」
僕は一息ついて筆を置いた。巻物に書いた文章を目で追っていく。
ハーティム国のムガイが、どこからか情報を仕入れてきた。
驟雪国が聖女を狙っている――と。
聖女を自国のものとすれば、それだけ優位に立てる。そう考える者は今、多い。
ムガイからそれを聞いた青説殿下は、紅説王では聖女を守りきることは出来ないと踏んで、紅説王の失脚を考え始め、時期王候補の火恋に紅説王を失脚させ、火恋が王となる話を持ちかけた。火恋も一度は承諾するものの、ルクゥ国レテラに目撃され、説き伏せられて、すぐにその話を断った。
謀反の計画は、いったんは断たれたようだ。
青説殿下は驟雪国が聖女を狙っていることを紅説王に告げると円火と火恋に約束した。
ちなみに、驟雪国より任務に赴いている燗海は、一切の関与を否定している。
「うん。こんなもんかな」
僕は満足して巻物を文机に置いた。でも、すぐに心が曇ってしまった。
燗海さんに話を聞いたときの表情を見る限り、燗海さんは今回の件に関与してないと思う。というより、思いたいといったほうが正確か。確固たる無罪の証拠はないんだから。
だけど、奥さんが成そうとしていた世界平和と真逆なことを、燗海さんがするわけがない。
それに燗海さんは、驟雪を出て贖罪のために世界中を旅していた人だ。祖国の頼みを聞いて、此度の任務に赴いたが、元々は国などに頓着しない人だ。そんな人が、国というもののために、そんな企てに参加するとは思えない。
むしろ、国というものに属する官吏という人種は、外部に出た人間を信頼したりはしないだろう。利用はするかも知れないが。
そういうことを考えると、やっぱり燗海さんはこの件には関わってないと思う。
僕が自分なりの結論を出したところで、障子の向こうから、陽空の叫ぶような大声が聞こえてきた。
「おい! レテラ!」
僕はびくっと肩を震わせて、慌てて立ち上がった。
「なんだよ」
ぶつくさ言いながら、僕は障子を開けようと手をかけたが、その前に障子は勢い良く開いた。
「お前、勝手に開けるなよ」
「大変なんだよ!」
僕の言葉にかぶせるように、陽空が血相変えて叫んだ。
「あかるちゃんが、死んだ!」
「……は?」
何をバカなことを言ってるんだこいつは。
あかるが死んだ? ありえないだろ。
「なに冗談言ってんだよ」
「冗談でそんなこと言うわけねえだろ!」
陽空に怒鳴られて、僕の中で不安がのし上がってくる。
「……嘘だろ」
「――来い」
絶句する僕の腕を引っ張って、陽空は僕を歩かせた。
それから、その部屋に連れて行かれるまで、僕はどこの廊下をどう通ったのか覚えていない。連れて行かれたその部屋ですら、しばらくどこの部屋なのか判らなかった。
あかるは、六畳ほどの小さな部屋で寝かされていた。
あかるの長い黒髪が、静かに畳に広がり、清廉な瞳は、眠るように閉じられている。その全てが死などという穢れとは無縁のようだった。ただ、一箇所を除いて。
薄青い着物、白と青がちょうど交じり合った、美しい空のような、その部分が、紅色に染まっている。
あかるの胸の中心。
そこに、大きな血色の滲み。
僕は、何気なく視線を奥座敷へと投げた。
その部屋には見覚えがあった。障子が開け放たれた奥の部屋は、数多にある城の部屋と代わり映えはないのに、僕はそこがどこなのか分かった。
あかるがこの世界へやって来たときに寝かされていた部屋だった。
あかるは、その手前のこじんまりとした部屋に寝かされてたんだ。
僕はもう一度、あかるに視線を戻した。
そこにはかつてのように眠る、少女の姿がある。
あの日、僕が殺したかった少女の亡骸がそこにあった。
耳鳴りがする。頬を何かが伝っていく。瞬きをしたその熱さで、涙なんだとぼんやりと悟った。
あかるにすがりつくように泣き叫ぶ紅説王。
これからどうしよう、と歯がゆさを見せるマル。
私のせい――? と、小さく叫んだ火恋。
部屋のいたるところからすすり泣く、多くの声。
その全てが、今の僕にはどうでも良い。
呆然としたまま、僕はそこに立ち尽くした。
僕はもう一度、晃を喪ってしまった。
* * *
僕は、誰にも会いたくなくて部屋へこもった。
それでも翌日には、誰かと何かの話がしたくて部屋を出た。
皆とたわいもない話をするうちに、一週間後には気持ちが大分落ち着いた。だけど、紅説王はそうはいかなかったみたいだ。
王は一週間、あかるの遺体が置かれている部屋にこもった。何とか話をしようとしたけど、警備兵に止められて話すら出来なかった。
それは誰が行っても同じことだった。
それから王はやつれた顔で部屋から出てきて、僕らに宣言した。
「あかるを生き返らせる」
僕は正直、王は正気を失ったと思ったし、その場にいた殆どの者が同じことを思ったという。――マル以外は。マルは不謹慎にもその瞳を輝かせていた。
紅説王はマルと研究室にこもるようになった。いつもなら、禁じられない限り僕はそこに入り浸る。だけど、今回ばかりはそんな気になれなかった。
王に同情心もあったし、正気を失っているにしてもなんにしても、愛する人にもう一度逢いたいという気持ちは、僕には十分に理解できたからだ。
だけど、研究室に行かない理由は他にあった。
彼の気迫が、あまりにも恐ろしかったからだ。
マルはいつも研究に没頭しているけれど、紅説王は没頭しながらもどこか冷静だった。そんな王が、一心不乱に研究に没頭する様は、どこか異常で、鬼気迫るものがあった。
立ち入ってはいけないと、僕の中の何かが警鐘を鳴らしていたのだ。
だから僕は、たまに研究室を覘くに留めた。
全てを記すという贖罪に背くことには抵抗感と罪悪感があったけど、この警鐘を僕は無視することが出来なかった。
葬儀をされないまま、あの部屋に寝かされ続けているあかるの肉体は、何故か腐敗しなかった。
マルによれば、魔王の抵抗力によってだろうという話だったけど、いつまでも色づく薄紅の頬や血色の良い唇を見せられ続ければ、愛する人の死を受け入れるのは難しい。僕は王に心底同情する。あれではまるで、今も生きていてただ眠っているだけのように見える。
そして火恋もまた不憫な子だと思う。
火恋は、城に留まっていた。自分があかるを追いつめたせいであかるが死んだのではないかと気に病んで、殆ど食事を口にしなかった。
もちろん、晃を二度喪ったショックもあっただろう。
僕だって同じだ。あの衝撃は今でも胸に深く響く。
紅説王は、あかるが何故死んだのか明かさなかった。
あかるの肉体が腐食しないせいかも知れないし、自分の口からあかるが死んだと確認したくなかったのかも知れない。
その気持ちは、どちらだったにせよ僕には良く理解が出来た。僕だって、気持ちの整理が出来るまでその名を口にしたくなかった。この世にいないのだと認めるようで恐ろしかった。
だけど、僕はそんな王に憤りも感じていた。何故亡くなったのか知らなければ、火恋は自分を責め続けるしかない。
火恋には、自分のせいであかるが死んだと思って欲しくなかった。
そうして、誰もが憂鬱なまま、一ヶ月が経ったある日、事件が起きた。
それは、寝静まった夜更けだった。突然、強風が駆け抜けたような轟音が城中に響き渡った。
「なんだ!?」
僕が飛び起きると、廊下を障子越しに女の影が駆けて行くのが見えた。あれは、おそらく隣室のヒナタ嬢だろうと思って、はたと気がついた。何故夜中に影が見えるんだ? 縁側ならばともかくとして。
そこでふと気がついた。
廊下を白い光が照らしている。僕は何故だか直感した。この光は、魔王だと――。
僕は布団から飛び起きて、障子を思い切り開けた。すると、廊下の先から光が溢れ出している。僕は光源の方へと駆けた。
「眩しい」
光源へと近づくにつれて、眩しくて目を開けていられなくなった。僕はよろめきながら進み、誰かとぶつかって尻餅をついた。
「すいません。大丈夫ですか」
僕は薄目を開けてその人物を見上げた。ぼやっとした視界から見えたのは、ヒナタ嬢の横顔。透き通るようなきれいな肌だった。
「なんだ、ヒナタ嬢か」
僕は呟いて、薄目にしながら立ち上がった。それと同時に、今度は地面が大きく揺れだした。
「うわっ」
せっかく立ち上がった尻が勢いよく地面へ戻る。
(地震か?)
切迫した瞬間、光がいっそう強くなり、僕は思わずぎゅっと目を瞑った。強い衝突音がして、光は一気に消え去った。
いや、あまりにも強い光が遠ざかったために、一瞬、無くなったのだと勘違いしたんだ。だが、目を開けると、光源はきちんと輝いていた。そう、僕らの上空に。
あるはずの天井は吹き飛び、それは夜空に爛々と輝いていた。
僕らの白い太陽――魔王だ。
「どうして魔王が。だって、あかるの体の中に残ってるはずだろ?」
独りごちた僕に、ヒナタ嬢が答えた。
「どうしてだって? そんなの決まってる。あの王が取り出したんだろ。女可愛さにな」
「だからって、何で魔王を取り出す必要があるんだよ」
「そんなの、あたしが知るはずないだろ」
ヒナタ嬢は一瞬僕を睨んで、天を仰いだ。そして、にやりと酷薄な笑みを浮かべる。
「そんなことより、お出ましだ」
「え?」
嫌な予感と供に、それはやって来た。
地に叩きつけるような突風を巻き起こし、暗雲のような巨大な黒い影が、白い太陽を遮って僕らを覆った。
全身が粟立つ。
(――やつだ!)
魔竜、アジダハーカ。ただ一匹の生き残り。
ヒナタ嬢は、ぼくの隣で冷酷な笑みを浮かべたまま、囁いた。
「あたしの左腕の仇、あのトカゲ野郎……」
「ヒナタ待て!」
駆け出そうとした彼女に、後ろから強い制止がかかり、ヒナタ嬢は振り返って駆け出すのを止めた。廊下の端から燗海さんが一瞬で駆けて来て、僕らに並んだ。
「なんだ、ジイさん」
ヒナタ嬢は迷惑そうな表情を浮かべて燗海さんを見る。燗海さんはそんなヒナタ嬢を一瞥もせずに、魔竜を見上げた。
「様子がおかしい」
「え?」
僕は呟いて、ヒナタ嬢は何も言わずに顎を上に向ける。魔竜は、突風を吹きつけながら羽ばたいていたけど、それ以外は何もせずにいる。天を見上げるように、三つ首が伸びているのが窺えた。
(何を見てるんだ?)
僕は自問して、はっとした。
「魔王――あいつ、魔王を見てるんじゃ?」
魔竜の真上には魔王が輝いている。
魔竜に遮られながらも光を地に注いでいた。
「おそらくな」
「もしかして、食べようとしてるんじゃ……?」
嫌な予感が過ぎったが、燗海さんは首を振った。
「いや。そうではなさそうじゃぞ」
燗海さんの言うように、魔竜は一向に動こうとしない。まるで、魔王に魅入られているみたいだ。僕がまじまじと魔竜を見ていると、すぐ側の部屋から声高に誰かが叫んだ。
「危険です! 僕が行きます!」
「なんだ?」
僕は駆け出して、その部屋を覗いた。その部屋は、あかるの遺体が安置されていた部屋だった。
あかるの遺体が入った棺の前で、マルが紅説王を止めようと袖を引っ張っていた。その手を、王は静かに外した。
「お前じゃ無理だ。円火」
「どうし――」
僕が声をかけようとした瞬間、紅説王は結界で空中に足場を作り、瞬く間に上空へ駆けた。
王は、魔竜の目前に立った。僕はぎょっとして、息が詰まる。王は、紫色の呪符をかざし、あらん限りに叫んだ。
「共鳴せしもの、対となるもの、我の命を聞け! 操相の術ここに成らん!」
「ヴィイイ!」
魔竜は僅かの間、悲鳴を上げた。そして急に、ぴたっとおとなしくなったかと思うと、まるで指示を待つように紅説王を見据えている。
(なんなんだ?)
僕は、混乱した。状況が上手く把握できない。そこに、
「おい、どうしたんだ。何があった!?」
陽空、アイシャさん、ムガイ、火恋、そして青説殿下までもが慌てて駆けてきた。だけど僕は、
「……分からない」
呆然と空を見上げたまま、そう答えるしかなかった。
* * *
元々白みつつあった空は明け、地平線に太陽が顔を出した。しばらく呆然としていた僕らは、誰に従うでもなく、おのずと足を前に出し、王のところへ近寄っていった。
王は結界で囲った魔王を愛しそうに胸に抱いて、瓦礫が散乱している棺の前に座り込んでいた。
王と棺の周りを舞った塵が、昇ったばかりの朝日に反射してきらきらと輝く。
その光景は、異様で、同時にひどく美しかった。
魔竜は城の一角でまるで忠実な犬のように大人しくしている。でも、不安は拭い切れない。どうしてそうなったのか、まるで見当もつかないからだ。
僕は部屋に足を踏み入れると、壁際に寄りかかっているマルを見つけた。
マルの方が話しやすそうだな、と思いながらマルを見据える。すると、マルの方から切り出した。
「話をするよ。なんで、こうなったか。紅説様、良いですね?」
「ああ」
王は頷いて、顔を上げた。僕はその表情を見てほっとした。言っちゃなんだが、正気に見えたからだ。マルは真面目な顔つきで僕らを見据えた。
「僕と王は、この一ヶ月であかるの魂が魔王の中に沈んでいることを突き止めた。だから、あかるの魂に語りかけるために共感性の強い呪符、操相の呪符を入れたんだ」
「それって、相手を操るためのものだよな?」
僕の質問に、マルは「そう」と答えて続けた。
「この呪符は、相手を操るだけでなく、呪符を持つ者と、対になる呪符を持つ者は心の中で会話することが出来るんだよ。テレパシー能力の応用さ」
マルは紅説王を見た。僕はそのようすに違和感を感じた。普段、マルは研究を説明するとき、嬉々としていたり、はつらつとしているのに、今は何となく沈んで見える。
「そうして語りかけ、あかるの魂の居場所を知ることで、あかるの魂だけを呪符の力で命じて魔王から浮上させようと考えたんだ。でも、思いがけず魔王本体があかるの体から飛び出てきてしまったんだ」
「それでか」
陽空が納得する声音を出した。僕も相槌を打つ。
「魔竜は、魔王に呼応してやって来たんだよ」
「どういうことですの?」
質問した火恋をマルは見やる。
「おそらく、自分の細胞が組み込まれた魔王に操相の呪符が入ることによって、魔王と繋がってしまったんだ」
「それは少しおかしくはないかしら? 操相の呪符が魔王にあったとしても、魔竜に影響を与えるとは思えないけど。だって魔竜に呪符は入ってないでしょ?」
アイシャさんの問いかけはもっともだ。操相の呪符には対になる呪符がいるはずなんだから。
「いいや。ただ一匹だけ、おったはずじゃぞ。昔な」
僕は確信を得たような声音に、燗海さんを振り返った。それは僕だけじゃない。そして、ある考えに結びついたのも。
「いたな。昔、殺し損ねた、あたしの獲物が」
ヒナタ嬢が不敵に笑んだ。
「そう。そいつだったんだよ。たった一匹生き残った魔竜はね。そのことに紅説様がお気づきになり、ある程度の確信の元、操相の呪符を発動させ、見事魔竜を操ることに成功したってわけさ」
「すごい」
僕は思わず呟いていた。皆も、そう思っていたに違いない。心底安堵する息がそこかしこから漏れていたのだから。これで、魔竜の脅威は去った。人類は助かったのだ。
晃の命をとした願いも成就されたんだ。
僕は、嬉しさとほんの少しの切なさで満たされた。
王を見やると、安堵の表情を浮かべていた。
だから、僕らはてっきり王も同じ想いなのだと思っていた。僕らの前で渋面を作るマル以外は――。
* * *
それから一ヶ月。王と殿下は荒れに荒れた。
紅説王は、魔王の中からあかるの魂を取り出すことを諦めていなかった。あかるの魂だけに語りかけ、取り出し、そして陽空の磁力で魂をあかるの肉体に定着させると言った。
これに猛反対したのは青説殿下だった。そして意外なことに、マルも反対した。
あかるの魂だけを取り出すことは危険だとマルは提示した。魔王と融合している魂を外へ引き出せば、魔王自体が歪み、崩壊する可能性もある。そうなれば、魔竜を抑えることは出来ない。
君子危うきに近づかず――冷静になってください。マルと殿下はそう説得したが、王は頑として首を縦に振らなかった。長らくここにいるが、こんな王は初めて見た。
各国には魔竜を操れるようになったことは伏せ、魔竜の封じ込めに成功したと報告してある。僕もルクゥ国にはそのように書簡を送った。詳細は書かなかったが、安心せよ。脅威は去った、それは事実なり――と念を押して。
僕はため息をつきながら、縁側に座り込んだ。
ぼんやりと庭の枯山水を眺める。そこに、陽空がやって来て僕の隣に座った。
何も言わずに陽空を一瞥すると、再び庭を眺めた。陽空も何を言うでもなくぼうっと遠くを眺めている。
僕らはしばらく無言で風景を眺めていたけど、沈黙に耐えかねて僕はぽつりと言葉を口にした。
「あのさぁ」
「うん?」
「どう思う?」
「どうって?」
「紅説王のこと」
「っていうと?」
陽空は若干身を乗り出した。怪訝な顔つきがさらに深くなる。
僕はしばらく考察して、慎重に言葉を選んだ。
「あかるのこと、愛してたんだとは思うんだよ。すごく、深くね。だけど……あれは少し、行き過ぎじゃないかな?」
紅説王のあれは愛情というよりは、執着に近いんじゃないだろうか。気持ちは僕だって良く解るけど。僕だって、晃を喪ったときはかなり追いつめられてたし。
だけど、王の今のありさまを見てると何かがおかしいと思ってしまう。
あかるに出会う前の、冷静で思慮深い王を知っているが故に、魔竜を押さえる術を無くしても良いという選択肢を選ぶ王を僕は理解できない。――というよりは、とても残念に思ってしまうんだと思う。立派だった王を知ってるが故に。
すごく自分勝手な言い分なのかも知れない。僕だって、晃を蘇らせる術があると言われたら、世界を壊してでも飛びつくかも知れない。だけど……。
僕が堂々巡りをしていると、陽空が珍しくとつとつと言葉を口にした。
「その、あ――アイシャから聞いたんだけど、ムガイのやつがさ、その場にたまたま居合わせたらしいんだわ。あかるが死んだ場面にさ」
僕は耳をぴくりと動かした。無意識に取り出したメモ帳を見てふと、僕はこんな話題のときまでメモするのかと、僅かに自嘲が洩れた。でも次の瞬間には、そんなことは吹き飛んでしまった。
「正確には、殺された現場にな」
「……殺された?」
「そう。なんかな、街中で紅説王が狙われたらしいんだわ。それを、あかるが庇ったんだと。で、ムガイがその場を目撃して、すぐに治癒をしたらしいんだけど、心臓を一突きにされてて、即死だったみたいでさ。表面とか、細胞とかの傷は治ったんだけど、もう、心臓は動き出さなかったって。だから、自分を責めてるんじゃないか。紅説さんはさ。そういう人じゃん」
「……確かに、そうかもな」
呟きながら、不意にあの日を思い出した。青説殿下が火恋と企てを話していた日を。
(もしかして――)
僕はすくっと立ち上がった。
「どうした?」
「ごめん。僕行く」
「……お、おお」
陽空が戸惑った声音を出したけど、僕は陽空を見なかった。そのまま歩き出し、青説殿下の部屋の前で足を止めた。
「失礼します」
返事を待たずに障子を開ける。薄暗い部屋の文机の前にいた殿下は、振り返って驚いた表情をした。殿下がなんの用だと怒鳴り出す前に切り出す。
「さっき、何故あかるが死んだのか聞きました」
「そうか。私はまだ知らないが」
「本当ですか?」
僕はわざと疑った声音を出した。殿下は不愉快そうに眉を顰める。
「何が言いたい」
「殿下。貴方は謀反を企んでいらっしゃった。そのために、王を殺そうとなさったのでは?」
「……だから、なんの話しをしている」
青説殿下は、ほとほと訳が分からないというような顔をした。僕はまた、わざと突き放すように告げた。
「あかるは、王を殺そうとした者によって、殺害されたようですよ」
「……なんだと」
殿下は心底驚いた表情をした。
「部下達から、そんな報告は受けていない。そもそも、私は兄上を殺そうとは思っておらん。ただ、王位から退いてくれればそれで良いのだ。我々はそのことを念頭においていた。故に、それは我々の仕業ではない。疑うべきなのは、驟雪の者ではないのか」
「驟雪の?」
「ああ。あやつらは聖女を狙っていた。一緒にいた兄上を殺害すれば聖女を手に出来ると浅はかにも思ったのではないのか。国王が一人で供も連れずに出歩くはずがないのだからな」
「それでは王は、王と知らずに弑逆されようとしていたと?」
「私に分かるはずもないが、可能性は無きにしも非ずだろう」
確かに紅説王は普段、王とは思えない質素な服装をしている。可能性はないことはないのかも知れないが……。
僕は腑に落ちなかったが、殿下が嘘をついてるようにも見えなかった。王が殺されそうになったと知ったときの殿下は、本当に驚いてるように見えた。とすれば、殿下の部下の早計か。それとも、別の国の者なのか。
いずれにせよ、あかるは死んだ。あかるが死んで特をする人間は、あの時点ではこの世に誰もいない。あかるがいなければ、あの凶悪な魔竜は倒せなかったはずなのだから。
「いずれにせよ、王が狙われたということだけは、明白のようです」
「そうなるだろうな」
殿下は複雑な表情で頷いた。
「この先も、ないとは言えないですよね」
牽制を含んだ僕の言葉に、青説殿下は顔を曇らせて頷いた。
「そうだな。力が手に入ってしまったからにはな……」
僕は、このときの殿下の言葉を図りかねていた。
このとき、この条国に、まさしく暗雲が立ち込めようとしていた。それを、殿下は予感されていたのだ。