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少年法の壁  作者: リンダ


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それぞれの“あの時”

後日談


それぞれの“あの時”



 同じ出来事の中にいても、

 それぞれの中に残る“あの時”は少しずつ違う。


 声。

 空気。

 机の配置。

 誰かの笑い方。

 自分が立っていた場所。

 その日の天気。

 理人の顔。


 何年経っても、思い出す場面は人によって違った。


 だが、共通しているものがある。


 あの時、止まれなかったこと。


 そして、もう一つ。


 止まれたかもしれない、という確信だった。



■ 江口 翔


 江口は、夜のコンビニの駐車場で、車の中に座っていた。


 エンジンは切っている。

 ラジオもつけていない。

 スマートフォンも膝の上で伏せたまま。


 フロントガラスには、駐車場の白い照明がにじんで映っている。

 その奥に、自分の顔がぼんやり浮かんでいた。


 年を取った。


 昔の自分とは違う顔。

 けれど、目の奥だけは、あの頃と同じように見える時がある。


 ずるい目。

 逃げる目。

 都合の悪いことを見ないようにする目。


 江口は、その目を見ていられず、視線を落とした。


 頭の中に浮かぶのは、あの時の教室だった。


 窓際の席。

 ざわつく休み時間。

 誰かが理人の名前を出した。

 神谷が少し笑った。

 こころが乗った。

 水田が言葉を足した。


 江口は、その場で笑った。


 笑うだけなら、罪じゃないと思っていた。


 自分は最初に言い出したわけじゃない。

 自分は殴ったわけじゃない。

 自分は主犯じゃない。


 ずっとそう思っていた。


 そう思うことで、自分を守っていた。


 でも、今なら分かる。


 あの笑いが、空気を強くした。


 理人が黙るたびに、江口はどこかで安心していた。

 言い返されなければ、こちらが勝っているような気がした。

 相手が下を向けば、教室の中で自分が少し大きくなったように感じた。


 それが、最低だった。


「……なんでだよ」


 ぽつりと声が漏れた。


「なんで、止めなかったんだよ……」


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


 あの時の自分へ。

 今の自分へ。

 それとも、誰にも届かない空気へ。


 江口は、ハンドルに額を押しつけた。


 冷たい。


 その冷たさが少しだけ気持ちよかった。


 理人の顔が浮かぶ。


 最初は、まだ怒っていた。

 「返して」と言っていた。

 「やめろよ」と言っていた。

 それが少しずつ短くなっていった。


 「別に」

 「もういい」

 「……」


 最後には、何も言わなくなった。


 あの沈黙を、江口は勝ちだと思っていた。


 今は分かる。


 あれは勝ちではない。

 人が壊れていく音だった。


「……俺も、やってたじゃん」


 声が震える。


 止めなかったこと。

 笑ったこと。

 その場にいたこと。

 見ていたのに、見ないふりをしたこと。


 全部が、加害だった。


 もし、あの時。


 ほんの一言。


 「やめろよ」


 それだけ言えていたら。


 理人は、少しは違った顔をしただろうか。

 美羽は、あんなに必死に兄を守らなくて済んだだろうか。

 伊達家は、横須賀を離れなくて済んだだろうか。


 答えは出ない。


 でも、止められたかもしれないという感覚だけは消えない。


「……張り倒したいよ」


 あの頃の自分を。


 笑っている自分を。

 「俺は主犯じゃない」と思い込んでいる自分を。

 誰かの人生を壊す側にいながら、まだ安全な場所にいるつもりの自分を。


 張り倒して、胸ぐらをつかんで、言ってやりたい。


 それ、笑いじゃない。

 それ、強さじゃない。

 それ、もう戻れなくなるぞ。


 けれど、過去には届かない。


 コンビニの駐車場には、トラックのエンジン音が遠く響いていた。

 江口はしばらく動けなかった。



■ 中島こころ


 こころは、洗面台の前に立っていた。


 夜遅く。

 家の中は静かだった。


 鏡の中にいる自分は、ひどく疲れていた。


 メイクを落とした顔。

 目元に残るくすみ。

 乾いた唇。

 何度も泣いたせいで、まぶたは少し腫れている。


 こころは、鏡の中の自分をじっと見た。


 そこに、あの頃の自分が重なる。


 女子の輪の中で笑っていた自分。

 神谷の隣で、軽く肩をすくめていた自分。

 理人の言葉を真似して、面白がっていた自分。


 「わかる」

 「ウケる」

 「なんかそういう感じだよね」


 自分から殴ったわけではない。


 でも、こころの言葉は、いつも空気に油を注いでいた。


 誰かが言った悪口に、軽く乗る。

 神谷の言葉を、少しだけやわらかく見せる。

 場の笑いを正当化する。


 それが、自分の役割だった。


 あの頃のこころは、そうしていれば安全だった。


 主犯ではない。

 でも中心には近い。

 責任は薄いように見える。

 でも、空気には影響を持っている。


 ずるい立ち位置。


 今なら分かる。


「……最低」


 小さく呟いた。


 洗面台の水を出す。


 水音が、やけに大きい。


 こころは手を洗った。


 何度も洗った。


 けれど、指先に残るような感覚は消えなかった。


 理人とぶつかった神谷が、「手を洗いに行こう」と言った日。

 あの時、自分は笑っていた。


 理人のアレルギー性鼻炎のことを、汚いもののように扱った。

 母親の店のことを笑った。

 父親の仕事のことまで、茶化した。


 見たこともないくせに。

 知らないくせに。


 こころは水を止めた。


 鏡の中の自分に向かって、言う。


「なんで、止めなかったんだろ」


 涙が落ちる。


「なんで、“やめよう”って言えなかったんだろ」


 答えは、分かっている。


 怖かったから。


 神谷に逆らうのが怖かった。

 女子の輪から外れるのが怖かった。

 次に自分が笑われるのが怖かった。


 だから、笑う側にいた。


 でも、それは理人には何の関係もない。


 自分が怖かったからといって、理人を傷つけていい理由にはならない。


 こころは、鏡に映る自分を睨んだ。


「……あんた、何してたの」


 その声は、あの頃の自分へ向いていた。


 髪を整えながら笑っていた自分。

 友だちの顔色を見て、言葉を選んでいた自分。

 誰かの痛みより、自分の居場所を優先した自分。


 こころは、鏡に手をついた。


 冷たい。


 その冷たさの向こうに、今の現実がある。


 娘は自分から離れた。

 夫も離れた。

 家は静かになった。


 それでも、こころは思う。


 自分が味わっている孤独は、理人の孤独とは違う。


 理人は、何も悪くなかった。


 自分は違う。


 自分は、あの教室で笑っていた。


 その違いだけは、絶対に忘れてはいけない。



■ 水田 蓮


 水田は、夜のベランダで煙草に火をつけた。


 ライターの小さな火が、一瞬だけ顔を照らす。

 煙が夜気に混じって、ゆっくりと消えていく。


 理人の試合がテレビで流れていた日。

 水田は、すぐにチャンネルを変えた。


 見たくなかった。


 でも、見なかったからといって、消えるわけではない。


 理人の名前は、どこにでも出てくる。


 世界王者。

 指導者。

 星空教室。

 子どもたちに慕われる存在。


 そのたびに、水田の胸は重くなる。


 あの時の教室。


 自分は“前に出る側”だった。


 水田は、それを分かっている。


 神谷が空気を支配していた。

 江口が乗った。

 こころが笑った。


 そして自分は、場を面白くしているつもりだった。


 言葉を足す。

 少し大きな声で言う。

 みんなが笑いやすいようにする。


 理人が傷つくほど、場は盛り上がった。


 その盛り上がりを、自分の力だと思っていた。


 今思えば、吐き気がする。


「……クソだな」


 吐き出すように言った。


 煙草の煙が喉に引っかかる。


 あの時、自分は強いと思っていた。


 空気を動かせる側。

 場を回せる側。

 笑いを作れる側。


 でも、それは全部、誰かを踏みつけて作った偽物の強さだった。


 本当の強さではない。


 本当の強さは、理人たちが見せていた。


 壊されても、守るものを作った。

 許していなくても、子どもたちを傷つけなかった。

 ボクシングの力を、人を傷つけるためではなく守るために使った。


 水田は、手元の煙草を見た。


 短くなっている。


 灰が落ちそうだった。


「止められただろ……俺なら」


 そう。


 自分なら、止められた可能性があった。


 前に出る側だったから。

 声が大きかったから。

 空気を動かせる側にいたから。


 もし自分が「もうやめよう」と言えば、何人かは止まったかもしれない。


 それでも、自分は止めなかった。


 むしろ、加速させた。


 理人の逃げ場を、笑いでふさいだ。


「……ぶん殴ってやりてえな」


 あの時の自分を。


 だが、その言葉の直後、水田は苦く笑った。


 殴ったところで、何になる。


 暴力で止めるなんて、結局また同じだ。


 あの頃の自分に本当に言うべきことは、たぶんこうだ。


 お前が今欲しがっている笑いは、人を壊して得るものだ。

 そんなものは、強さでも人気でもない。

 ただの暴力だ。


 水田は、煙草を灰皿に押しつけた。


 夜の空気は冷たかった。


 それでも、胸の中の熱は消えなかった。


 後悔という熱だった。



■ 坂下竜也


 坂下は、部屋の電気をつけずに座っていた。


 暗闇の中で、ただスマホの画面だけが光っている。


 SNSのタイムラインに、理人の名前が流れてきた。


 理人がジムで子どもたちに話している短い動画。

 字幕には、こう出ている。


 「謝る未来ではなく、止まる今を選んでください」


 坂下の指が止まった。


 その言葉を、何度も読み返す。


 自分は、どちらでもなかった。


 そう思っていた。


 中心ではない。

 暴力を振るったわけではない。

 神谷のように支配したわけでもない。

 水田のように盛り上げたわけでもない。


 ただ、そこにいた。


 でも、その「ただ」が、今は重い。


 笑っていた。

 何も言わなかった。

 帰ってから、何も考えなかった。


 それが一番ダメだったのかもしれない。


「……それが一番ダメだろ」


 ぽつりと呟く。


 自分は、空気の一部だった。


 教室の壁みたいに、ただそこにいたつもりだった。

 でも壁ではなかった。


 人間だった。


 人間なら、声を出せた。

 立ち上がれた。

 先生に言えた。

 理人の隣に座れた。


 でも、しなかった。


 怖かったのか。

 面倒だったのか。

 自分には関係ないと思ったのか。


 たぶん、全部だ。


 坂下はスマホを握ったまま、画面を見つめた。


 動画の中の理人は、子どもたちに優しく話している。


 自分たちが黙らせた理人が、今は誰かに言葉を渡している。


 その現実が、苦しかった。


「……なんでだよ」


 答えは出ない。


 でも、答えが出ないからといって、罪が消えるわけではない。


 坂下はスマホの画面を消した。


 部屋は真っ暗になった。


 その暗闇の中で、あの教室だけが、なぜか鮮明に浮かんでいた。



■ 相良拓斗


 相良拓斗は、電車の中で吊り革につかまっていた。


 帰宅時間の車内は混んでいた。

 誰かの肩が当たり、車輪の音が床から伝わる。


 目の前の席では、学生たちが小さな声で笑っていた。


 何を話しているのかは聞き取れない。


 けれど、その笑い声だけで、相良の胸はざわついた。


 昔は、笑い声なんて気にしなかった。


 むしろ、自分もその中にいた。


 理人が何か言われるたびに、笑った。

 誰かがからかうたびに、笑った。

 「やりすぎじゃないか」と一瞬思っても、その思いをすぐに押し込めた。


 空気を壊したくなかったから。


 でも今、相良は思う。


 壊すべき空気だった。


 あの空気は、守るものではなかった。


 誰かを壊している空気なら、自分が嫌われても壊すべきだった。


 電車が大きく揺れた。


 相良は吊り革を握りしめる。


 娘に言われた言葉がよみがえる。


「私の前で、正しい親みたいな顔しないで」


 何も言えなかった。


 もし娘が学校で同じ目に遭ったら、自分は絶対に怒っただろう。

 学校へ訴えただろう。

 相手を許さなかっただろう。


 なのに、自分はかつて、相手の親がそう思うようなことをした側にいた。


 その矛盾を、娘は見抜いた。


 電車の窓に、疲れた自分の顔が映る。


「……ほんと、どの口で言うつもりだったんだ」


 相良は小さく呟いた。



■ 藤森 圭


 藤森圭は、古いアルバムを捨てられずにいた。


 引っ越しのたびに、何度も捨てようとした。

 でも、捨てられなかった。


 その中には、小学校の集合写真がある。


 理人は写っていない。


 いや、正確には、端に少しだけ肩が写っている写真が一枚ある。


 当時は、それを見て笑った。


 今は、その写真を見るたびに、喉が締まる。


 写っていないということ。


 そこにいたはずなのに、残っていないということ。


 あの頃、自分たちは理人を“いないもの”にしていた。


 写真に残らないように。

 班から外れるように。

 会話に入らないように。


 その積み重ねの一つ一つが、理人に「自分はここにいてもいないのと同じだ」と思わせた。


 藤森は、写真を見つめる。


 自分は笑って写っている。


 歯を見せて、楽しそうに。


 その笑顔が、今は気持ち悪い。


「……何笑ってんだよ」


 藤森は写真の中の自分に向かって言った。


 返事はない。


 ただ、写真の中の自分は、何も知らない顔で笑っている。



■ 田丸 瞬


 田丸瞬は、病院の待合室に座っていた。


 年を取った母の診察を待っている。


 母は、過去の騒動で体を壊した一人だった。


 賠償金。

 世間の視線。

 親戚との断絶。

 その中で、母は急速に老け込んでいった。


 田丸は、母の背中を見ながら思う。


 自分がしたことは、理人たちだけでなく、自分の親にも返ってきた。


 でも、それを「自分も被害者だ」と言うことはできない。


 理人たちの苦しみと、自分たちの苦しみは違う。


 理人たちは巻き込まれた。

 自分たちは始めた。


 そこを間違えてはいけない。


 母が小さく咳をする。


 田丸は立ち上がり、水を取って戻る。


「ありがとう」


 母は弱々しく言った。


 田丸は何も言えなかった。


 本当に謝るべき相手には、もう会えない。


 母に謝っても、理人には届かない。


 でも、自分のせいで母の人生まで壊れたことも、消えない。


 田丸は、待合室の白い床を見つめた。


 あの教室の床を思い出した。


 理人が、うつむいていた床。



■ 共通するもの


 彼らは、それぞれ違う場所で生きている。


 違う仕事。

 違う家。

 違う夜。

 違う孤独。


 けれど、共通しているものがある。


 あの時、止まれなかったこと。


 そして、もう一つ。


 止まれたかもしれない、という確信。


 それは、最も残酷な確信だった。


 「仕方なかった」とは言えない。


 あの場の空気が怖かった。

 自分も子どもだった。

 家庭に問題があった。

 誰も止めなかった。


 どれも事実の一部かもしれない。


 でも、止まれたかもしれない。


 その可能性があった。


 だからこそ、彼らは苦しんだ。


 もし、あの時に戻れるなら。


 誰もが思う。


 あの頃の自分を、張り倒してでも止める。


 笑っている自分を止める。

 乗っかろうとしている自分を止める。

 見て見ぬふりをしている自分を止める。

 黙って帰ろうとしている自分を止める。


 でも、それは叶わない。


 過去には戻れない。


 理人たちが失った時間も、戻らない。


 美羽が泣いた夜も、戻らない。


 伊達家が横須賀を離れた夏も、戻らない。


 できるのはただ一つ。


 その過去を抱えたまま、生きていくこと。


 そして、今どこかで同じ空気が生まれようとしているなら、止まれと伝えること。


 笑うな。

 乗るな。

 黙るな。

 見て見ぬふりをするな。


 誰かの人生を壊す前に。


 自分の人生まで壊す前に。


 止まれ。


 それが、彼らに残された現実だった。

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