投稿を続ける理由
後日談
「投稿し続ける理由」
獅童は、長い文章をSNSに投稿した。
実名だった。
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私は、かつて一人の同級生をいじめていました。
笑い、煽り、止めず、追い詰めました。
相手は学校に行けなくなり、家族ごと住んでいた町を離れました。
妹さんも、両親も、人生を変えざるを得なくなりました。
私はその後、仕事を失いました。
家族も失いました。
親の葬儀にも呼ばれませんでした。
謝りたいと思っても、もう会うことすら拒まれています。
当然です。
謝罪は、加害者の都合です。
被害者には、受け取らない権利があります。
私は、もっと早く止まるべきでした。
あの時の自分を、張り倒してでも止めたい。
今、誰かを笑っている人へ。
誰かを仲間外れにしている人へ。
見ているだけで止めていない人へ。
やめてください。
その一瞬の笑いで、人の人生も、自分の人生も壊れます。
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投稿は、すぐに拡散された。
コメントは、賛否であふれた。
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「よく書いたと思う」
「遅すぎる」
「被害者をまた利用してない?」
「でも、これを読んで止まる子がいるなら意味はある」
「許されたいだけじゃないの?」
「許されないと分かった上で書いてるなら重い」
「加害者の末路として学校で読ませたい」
「被害者の名前を出してないのは最低限の配慮だと思う」
「でも被害者側が嫌がったらやめるべき」
「“謝罪は加害者の都合”って言葉、刺さった」
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獅童は、そのすべてを読んだ。
批判も読んだ。
罵倒も読んだ。
同情も読んだ。
そして、一つだけ返信した。
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許されたいから書いているのではありません。
許されないことは分かっています。
ただ、自分がしたことの結末を、隠したまま生きることも違うと思いました。
もしこの投稿で、一人でも止まるなら。
もし、誰かが誰かを傷つける前に手を止めるなら。
そのために書きます。
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それから獅童は、投稿を続けた。
自分がどうやって加害に加わったのか。
最初はどれほど軽い気持ちだったのか。
なぜ止まれなかったのか。
なぜ周囲の笑いに乗ったのか。
どの瞬間に、本当は引き返せたのか。
そして、引き返さなかった結果、何を失ったのか。
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仕事。
家庭。
親。
親戚。
子どもからの信頼。
自分自身への信頼。
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ある投稿には、こう書いた。
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いじめをしていた頃、私は強い側にいると思っていました。
でも違いました。
人を傷つけることでしか自分を保てない時点で、私は弱かった。
強さとは、人を黙らせることではありません。
止まれることです。
止められることです。
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また別の日には、こう書いた。
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謝れば終わると思っている人へ。
終わりません。
謝罪は、相手が受け取って初めて対話になります。
相手が拒否したら、そこで終わりです。
それを受け入れることも、加害者の責任です。
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コメント欄には、子どもたちからも声が届いた。
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「今、クラスで一人を笑ってる。明日からやめる」
「自分、見てるだけだった。先生に言う」
「これ読んで怖くなった」
「自分も加害側だったかもしれない」
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その一方で、厳しい声も続いた。
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「あなたが語ることで傷つく人もいる」
「被害者の許可は取ってるのか」
「反省してる自分に酔ってないか」
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獅童は、その批判にもこう返した。
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その指摘も受け止めます。
だから、被害者の名前も場所も、具体的な情報も出しません。
ただ、自分がしたことと、その結果だけを書きます。
私の投稿で少しでも被害者側が苦痛を感じるなら、すぐにやめます。
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数日後。
理人側から、直接の反応はなかった。
美羽も、光も、何も言わなかった。
許可もない。
否定もない。
その沈黙を、獅童は都合よく解釈しなかった。
ただ、距離を守りながら続けることにした。
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やがて、獅童の投稿は教育関係者にも読まれるようになった。
ある学校では、道徳の授業で取り上げられた。
ある保護者会では、いじめ防止の話し合いの資料になった。
ある少年は、獅童の投稿を読んで、仲間外れにしていた子へ「もうやめよう」と言った。
それでも、獅童は救われなかった。
救われるために書いているのではなかった。
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夜、獅童は画面を閉じる。
部屋は相変わらず静かだった。
家族は戻らない。
親も戻らない。
理人たちに会うこともない。
それでも、明日も書く。
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あの時、止まれなかった自分の代わりに。
今どこかで、止まれる誰かがいるかもしれないから。
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獅童は、次の投稿の下書きに、短く一文を打ち込んだ。
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笑っている側にいるときほど、自分を疑ってください。
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そして、静かに保存した。
後日談
「書き始めた加害者たち」
獅童の投稿は、静かに広がっていった。
炎上ではなかった。
称賛でもなかった。
ただ、読んだ人の胸に、重い石のように沈んでいく投稿だった。
そして、それを読んだ者たちの中に、かつて同じ教室にいた加害者たちがいた。
神谷莉央。
江口翔。
水田蓮。
中島こころ。
彼らはしばらく、獅童の投稿を黙って読んでいた。
自分も書くべきなのか。
書く資格があるのか。
書くことで、また被害者側を傷つけるのではないか。
何度も迷った。
それでも、やがて一人ずつ、投稿を始めた。
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最初に書いたのは、中島こころだった。
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私は、かつて同級生をいじめる空気に加担していました。
中心にいたと言えるほど強く前に出ていたわけではありません。
でも、それは言い訳です。
私は笑っていました。
人を傷つける言葉に「わかる」と言っていました。
誰かが苦しんでいるのを見て、止めませんでした。
今、私は家族を失いました。
娘からは、距離を置かれています。
夫とも別れました。
でも、それは被害者のせいではありません。
私がしたことの結果です。
いじめは、中心にいた人だけで成立するものではありません。
横で笑う人間がいて、何も言わない人間がいて、空気ができていきます。
私は、その空気を作った一人でした。
今、誰かを笑っている人へ。
「自分は主犯じゃない」
そう思っていても、相手の人生を壊す側にいるかもしれません。
止められるなら、止めてください。
止められないなら、せめて笑わないでください。
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こころの投稿には、多くのコメントがついた。
「これ、傍観者にも刺さる」
「“主犯じゃない”って言い訳、自分もしてた」
「被害者側からしたら、笑ってた人も同じだよね」
「遅い。でも書いた意味はあると思う」
「許されるためじゃなく、止めるために書いてほしい」
こころは、そのコメントを一つずつ読んだ。
胸は痛んだ。
でも、途中で閉じなかった。
今度こそ、見ないふりをしたくなかった。
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次に投稿したのは、江口翔だった。
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私は、いじめの中で“盛り上げる側”でした。
直接手を出したことがない日もありました。
でも、言葉で煽りました。
笑いました。
相手が困っている顔を見て、面白がっていました。
当時の私は、それを“ノリ”だと思っていました。
でも、今なら分かります。
あれはノリではありません。
暴力でした。
私は今、仕事を失いました。
家族も離れていきました。
息子からは「どの口で人に迷惑をかけるなと言っていたのか」と言われました。
返す言葉はありませんでした。
いじめをしている時、自分は強いと思っていました。
でも本当は、弱かったのだと思います。
誰かを下に置かないと、自分の居場所を作れなかった。
今、教室や職場で誰かをいじって笑っている人へ。
その場では笑いが起きるかもしれません。
でも、その笑いは、人の人生を壊すことがあります。
そして、いつか自分の人生にも返ってきます。
止まってください。
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江口の投稿には、厳しい声も多かった。
「息子さんの言葉が重い」
「自分が失ってから気づくの、遅すぎる」
「でも“ノリは暴力”って言葉は広がってほしい」
「これを学校で読ませたい」
「被害者に届かせる必要はない。これから加害するかもしれない人に届けばいい」
江口は、その最後のコメントを長く見つめていた。
被害者に届かせる必要はない。
そうだと思った。
理人たちに見てほしいわけではない。
許してほしいわけでもない。
これから誰かを傷つけるかもしれない人が、止まるために書く。
それしか、自分にできることはなかった。
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神谷莉央の投稿は、さらに大きな反響を呼んだ。
彼女は、長く書けなかった。
何度も下書きを消した。
だが、最後には実名で投稿した。
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私は、いじめの中心にいました。
空気を作り、人を選び、言葉で傷つけました。
相手の身体的な特徴を笑い、家族のことまで傷つけました。
当時の私は、自分がそこまで悪いことをしていると思っていませんでした。
それが一番恐ろしいことだったと思います。
私は今、家族を失いました。
娘から「こんなことをした親を持つ自分が恥ずかしい」と言われました。
夫とも離れました。
親族ともほとんど関係がありません。
でも、私が失ったものについて、被害者に何かを求めるつもりはありません。
私が失ったものは、私がしたことの結果です。
もし、あの頃の自分に会えるなら、止めます。
泣いてでも、叫んででも、止めます。
でも、過去には戻れません。
だから今、書きます。
誰かを“汚い”と言う前に、止まってください。
誰かの家族を笑う前に、止まってください。
相手が黙ったから勝ったと思わないでください。
それは、相手が壊れ始めているサインかもしれません。
私は、それに気づきませんでした。
その結果、一つの家族を壊し、自分の家族も壊しました。
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この投稿は大きく拡散された。
コメント欄は荒れた。
「中心にいた人間が今さら何を言う」
「娘さんの言葉がすべて」
「でも“黙ったから勝ったんじゃない、壊れ始めてる”は大事」
「反省してる自分に酔わないでほしい」
「これを読む加害者が一人でも止まるなら意味はある」
莉央は、批判を閉じなかった。
自分に向けられる言葉を、最後まで読んだ。
かつて自分は、理人の苦しみを見ることから逃げた。
だから今度は、自分に向けられた厳しい言葉から逃げないと決めていた。
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水田蓮も、短い投稿をした。
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私は、いじめを“面白くしていた側”でした。
言葉で煽り、笑いを取り、周囲を巻き込みました。
今思えば、あれは笑いではありません。
誰かを踏みつけて、自分が強くなったように錯覚していただけです。
私は家族を失いました。
子どもから「父さんみたいな大人にはなりたくない」と言われました。
あの言葉は、一生忘れません。
人を傷つけることで得る笑いは、必ず自分に返ってきます。
その場の人気も、空気も、全部一瞬です。
でも、傷つけた事実は残ります。
今、誰かを笑いものにしている人へ。
その笑いは、本当に笑いですか。
それとも、暴力ですか。
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四人の投稿が出そろったあと、SNSでは再び議論が起きた。
「加害者が発信すること自体が二次加害では?」
「被害者名を出していないなら、教育的意味はある」
「許されようとしてないなら読める」
「でも被害者側が嫌がったら即やめるべき」
「加害者の末路を知ることは、抑止になる」
「これ、子どもだけじゃなく大人にも必要」
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獅童は、四人の投稿を見ていた。
画面の向こうで、それぞれが自分の罪を書いている。
遅すぎる。
もちろん、遅すぎる。
でも、書かないよりはいいのかもしれない。
そう思ったあと、獅童はすぐに自分を戒めた。
それを決めるのは、自分たちではない。
被害者側が苦痛を感じるなら、やめるべきだ。
だからこそ、彼らは互いに決めた。
理人、美羽、光の名前は出さない。
学校名も、場所も、詳しい特定情報も出さない。
自分たちが何をしたか。
その結果、自分たちがどうなったか。
そして、なぜ止まるべきだったか。
それだけを書く。
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ある日の投稿で、莉央はこう書いた。
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これは懺悔ではありません。
許されるための文章でもありません。
私が書いているのは、警告です。
誰かを傷つける側にいる人へ。
あるいは、横で笑っている人へ。
あなたは今、相手の人生と、自分の人生を同時に壊しているかもしれません。
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この一文は、大きく拡散された。
学校関係者。
保護者。
職場のハラスメントに悩む人。
かつて加害した人。
傍観していた人。
多くの人が、その言葉を共有した。
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それでも、理人たちからの反応はなかった。
それでよかった。
反応を求めてはいけない。
許しを求めてはいけない。
ただ、自分たちは書き続ける。
かつて止まれなかった自分たちの代わりに、
今どこかで止まれる誰かへ向けて。
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そして、獅童は次の投稿を書いた。
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反省は、被害者に見せるためのものではありません。
自分の行動を変えるためのものです。
もしあなたが今、誰かを傷つけているなら。
謝る未来ではなく、止まる今を選んでください。
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その言葉に、静かに多くの反応が集まっていった。




