「二度と顔を出すな」
後日談
「あの時の自分へ」
夜は静かだった。
窓の外に広がる街は、誰もがそれぞれの生活を営んでいるように見える。
だがその中で、ただ一人だけ、時間が止まったままの人間がいた。
神谷莉央は、テーブルに肘をつき、何もない空間を見つめていた。
部屋にはもう、家族の気配はない。
かつては当たり前にあった声も、足音も、笑いも、すべて消えていた。
その静けさの中で、ひとつの問いが、何度も浮かぶ。
⸻
あの時、私はなぜ止まれなかったのか。
⸻
あの教室。
あの空気。
あの笑い。
思い出そうとしなくても、勝手に蘇る。
最初は、ほんの軽い一言だった。
周りも笑っていた。
自分も笑った。
それだけだった。
でも、その“それだけ”が積み重なっていった。
⸻
家の中は、うまくいっていなかった。
父は家にいないことが多く、母はいつも苛立っていた。
会話はすぐに衝突に変わり、家の空気は張り詰めていた。
逃げ場はなかった。
だから、外で笑った。
教室で笑った。
誰かを笑うことで、自分の居場所を作った。
⸻
でも、それは理由にはならない。
⸻
莉央は顔を覆った。
「関係ないじゃん……」
声が漏れる。
「なんの関係もない人の人生、壊していい理由になんかならないじゃん……」
答えは分かっている。
分かっているのに、当時の自分は止まらなかった。
⸻
理人の顔が浮かぶ。
黙っていた顔。
俯いていた顔。
それでも時々、何か言い返そうとした顔。
そのすべてを、自分は“面白いもの”として見ていた。
それがどれほど異常なことだったのか、今なら分かる。
でも、あの時は分からなかった。
⸻
そして結果はどうだったか。
⸻
理人は学校を去った。
家族ごと、町を去った。
美羽も巻き込まれた。
両親も、すべてを変えざるを得なかった。
あの一家は、人生を作り直すことになった。
⸻
一方で、自分はどうだったか。
⸻
最初は、何も変わらなかった。
学校に通い、卒業し、社会に出て、普通に生きた。
“何もなかったこと”にして。
⸻
だが時間は、止まっていなかった。
⸻
理人は、世界のリングに立った。
美羽も、その隣で戦った。
光もまた、並んでいた。
あの教室で笑われていた存在が、
世界に認められる存在になっていた。
⸻
そして、自分は。
⸻
家庭を失い、
子どもに拒絶され、
過去に縛られて生きている。
⸻
莉央は、ゆっくりと顔を上げた。
窓に映る自分の姿は、どこか他人のようだった。
「……全部、自分でやったことだよね」
誰に言うでもなく、そう呟く。
⸻
あの時、止まれたはずだった。
最初の一言で。
最初の笑いで。
最初の違和感で。
たった一歩、引くだけでよかった。
たった一言、「やめよう」と言えばよかった。
⸻
それができなかった。
⸻
莉央は、目を閉じた。
そして、心の中で、もう一人の自分を思い浮かべる。
あの教室にいる、子どもの自分。
笑っている自分。
誰かを指さしている自分。
⸻
「やめろ」
小さく、しかし強く言う。
「それ、絶対やったらダメなやつだろ」
心の中の自分は、振り返らない。
笑ったままだ。
だから、莉央はさらに強く言う。
「止まれよ!!」
その声は、誰にも届かない。
過去は変わらない。
⸻
しばらくして、莉央は力なく笑った。
「……張り倒してやりたいよ」
あの頃の自分を。
何も分かっていなかった自分を。
人の痛みを、笑いに変えていた自分を。
⸻
でも、それはできない。
⸻
できるのは、ただ一つ。
⸻
この事実を、抱えたまま生きていくこと。
⸻
窓の外では、誰かの生活が続いている。
理人たちも、どこかで笑っているだろう。
それは、許されたからではない。
自分たちで取り戻したからだ。
⸻
莉央は、静かに目を閉じた。
⸻
あの時、止まれなかった。
⸻
その一文が、これから先の人生に、ずっと付きまとっていく。
後日談
「それぞれの“あの時”」
同じ出来事の中にいても、
それぞれの中に残る“あの時”は少しずつ違う。
だが、共通しているものがある。
⸻
■ 江口 翔
江口は、夜のコンビニの駐車場で、車の中に座っていた。
エンジンは切っている。
ラジオもつけていない。
ただ、暗いフロントガラスに映る自分を見ている。
頭の中に浮かぶのは、あの時の自分。
笑っていた自分。
誰かの言葉に「わかるわー」と乗っかっていた自分。
止めるでもなく、積極的に殴るでもなく、
ただ“空気を強める側”にいた自分。
⸻
「……なんでだよ」
ぽつりと声が漏れる。
「なんで、止めなかったんだよ……」
⸻
自分は直接手を出したわけじゃない。
そう思っていた。
でも違う。
止めなかったこと。
笑ったこと。
その場にいたこと。
それ全部が、加害だった。
⸻
理人の顔が浮かぶ。
何も言わなくなった顔。
それでも、何かを言おうとしていた顔。
⸻
江口は、ハンドルに額を押しつけた。
「……俺も、やってたじゃん」
⸻
もし、あの時。
「やめろよ」
その一言を言えていたら。
⸻
江口は、目を閉じた。
「……張り倒したいよ」
あの頃の自分を。
⸻
■ 中島 こころ
こころは、洗面台の前に立っていた。
鏡の中の自分を、じっと見つめる。
メイクを落とした顔。
疲れた目。
そして、その奥にあるもの。
⸻
思い出すのは、笑っていた自分。
理人の言葉を真似して、面白がっていた自分。
女子同士で「ウケる」と言い合っていた時間。
⸻
「……最低」
小さく呟く。
⸻
当時は、悪いことをしている感覚はなかった。
ただ、みんながやっていたから。
ただ、面白かったから。
ただ、空気に乗っていただけ。
⸻
でも今は分かる。
それがどれだけ残酷だったか。
⸻
「なんで、止めなかったんだろ」
涙が落ちる。
「なんで、“やめよう”って言えなかったんだろ」
⸻
あの時、ほんの一言でよかった。
でも、その一言が出なかった。
⸻
こころは、鏡に映る自分に向かって言う。
「……あんた、何してたの」
⸻
答えは、もう分かっている。
⸻
■ 水田 蓮
水田は、夜のベランダで煙草に火をつけた。
吸い込んだ煙が、胸の奥で重く沈む。
理人の試合がテレビで流れていた日、
チャンネルを変えた。
でも、頭の中では消えない。
⸻
あの時の教室。
自分は、どちらかといえば“前に出る側”だった。
面白くしていた。
場を回していた。
笑いを作っていた。
⸻
それが、全部。
⸻
「……クソだな」
吐き出すように言う。
⸻
あの時は、力を持っている気がしていた。
空気を動かせる側。
笑いを作れる側。
⸻
でも今は分かる。
⸻
それは、誰かを踏みつけて得た“偽物の強さ”だった。
⸻
水田は煙を吐いた。
「止められただろ……俺なら」
⸻
でも止めなかった。
むしろ、加速させた。
⸻
「……ぶん殴ってやりてえな」
あの時の自分を。
⸻
■ 坂下 竜也
坂下は、部屋の電気をつけずに座っていた。
暗闇の中で、ただスマホの画面だけが光る。
SNSのタイムラインに、理人の名前が流れる。
スクロールする手が止まる。
⸻
自分は、どちらでもなかった。
中心でもない。
止める側でもない。
ただ、そこにいた。
⸻
笑っていた。
何も言わなかった。
帰ってから、何も考えなかった。
⸻
「……それが一番ダメだろ」
ぽつりと呟く。
⸻
あの時、何もしなかったこと。
それが、今になって一番重くのしかかる。
⸻
止めなかった。
助けなかった。
見ていた。
⸻
坂下は、スマホの画面を消した。
「……なんでだよ」
⸻
答えは出ない。
⸻
■共通するもの
彼らはそれぞれ違う場所で生きている。
違う仕事。
違う生活。
違う時間。
⸻
だが、共通しているものがある。
⸻
あの時、止まれなかったこと。
⸻
そして、もう一つ。
⸻
止まれたかもしれない、という確信。
⸻
だからこそ、苦しい。
だからこそ、消えない。
⸻
もし、あの時に戻れるなら。
誰もが思う。
⸻
あの頃の自分を、張り倒してでも止める。
⸻
だが、それは叶わない。
⸻
できるのはただ一つ。
⸻
その過去を抱えたまま、生きていくこと。
⸻
それが、彼らに残された現実だった。
後日談
「明るい声のある場所」
一方で、飯山のジムには、今日も明るい声が響いていた。
「理人先生、今の見た?」
「見た。足が止まってた」
「えー、褒めてよ!」
「褒めるのは次、直してから」
子どもたちが笑う。
リングの端では、光がミットを構えていた。
「ほら、ワンツー。力まない。相手を倒す前に自分が転ぶよ」
「はい!」
美羽は小さな女の子の縄跳びを見ながら、何度も一緒に跳んでいた。
「そうそう。できてる。焦らなくていい。昨日より一回多く跳べたら勝ち」
その言葉に、女の子はぱっと笑った。
ジムの壁には、理人と光、美羽が世界戦で使ったグローブや写真が飾られている。
だが、そこにあるのは栄光の記念館ではなかった。
ここは、次の誰かが自分の足で立つための場所だった。
⸻
引退後の理人と光は、飯山でジムの運営と育成に力を注いでいた。
世界王者だった二人が直接教えるジムとして、県外から訪れる親子もいた。
だが理人は、いつも最初に同じことを話した。
「強くなる前に、人を傷つけない人になってください」
保護者たちは、その言葉を聞いて表情を引き締める。
光も続ける。
「勝つことは大事です。でも、勝ち方も大事です。負けた相手を笑う選手は、このジムでは育てません」
美羽も笑いながら言う。
「あと、妹や弟に偉そうにするのも禁止。家での態度、意外と競技に出ます」
子どもたちが「えー」と声を上げ、保護者たちが笑う。
そこには、かつて理人を壊したような笑いはなかった。
誰かを踏みつける笑いではなく、同じ場所にいることを喜ぶ笑いだった。
⸻
理人と光の息子・希は、そんなジムの中で育った。
小さなころからリングの周りを走り回り、子どもたちに混じって縄跳びをし、時々父に叱られた。
「希、グローブ投げない」
「はーい」
「返事だけは世界王者級だな」
と美羽が言うと、
「美羽おばちゃん、うるさい」
「おばちゃん言うな」
ジム中に笑いが起きる。
光はその様子を見ながら、少し呆れたように、それでも幸せそうに笑っていた。
かつて理人を飯山駅で迎えた少女は、今や母になり、指導者になり、それでも芯の強さは昔のままだった。
⸻
美羽にも家庭があった。
ボクシング仲間だった夫と築いた家には、いつも活気があった。
試合後の選手が泊まりに来ることもあれば、ジムの子どもたちが夏休みに遊びに来ることもある。
美羽の家では、夕飯の席がよく大人数になった。
「美羽先生、ご飯おかわりしていいですか?」
「いいよ。動く子は食べなさい」
「理人先生より優しい」
「それ、兄ちゃんに言っとくね」
「やめてください!」
子どもたちが笑い、保護者たちも安心した顔で見守る。
美羽は、自分がかつて守られる側だったことを忘れていない。
だからこそ、今は誰かが安心して笑える場所を作る側に回っていた。
⸻
伊達健斗と葵も、飯山でしっかりと根を張っていた。
健斗は日産販売店での仕事を続けながら、地域の交通安全教室にも関わるようになった。
車の仕組みを子どもたちに教え、命を守る運転について語る姿は、かつて開発主任だったころとは違う意味で誇らしかった。
葵は地域の店で働きながら、ジムの保護者たちとも自然に交流するようになった。
「葵さん、今日も差し入れありがとうございます」
「育ち盛りが多いけんね。食べるもんは大事」
そう言って笑う葵の周りには、いつも誰かがいた。
横須賀で一度壊されかけた伊達家は、飯山で別の形の大家族のような輪を作っていた。
⸻
週末になると、ジムはさらににぎやかになる。
小学生。
中学生。
高校生。
保護者。
卒業した元教え子。
遠征帰りに顔を出す選手。
かつて理人たちに教わり、今は指導者の道を目指す若者。
誰かがサンドバッグを叩き、誰かが水分補給をし、誰かが悔し涙を流す。
そのたびに、理人や光、美羽がそばに行く。
「泣いていい。でも、泣き終わったら何を直すか考えよう」
「負けたのは恥ずかしくない。相手を馬鹿にする方が恥ずかしい」
「今日はここまでできた。それはちゃんと認めよう」
保護者たちは、ただ技術を教わりに来ているのではなかった。
子どもが人として大切なことを学べる場所として、このジムを信頼していた。
⸻
ある日、一人の母親が葵に言った。
「ここに来てから、うちの子、家で人の悪口を言わなくなったんです」
葵は少し驚いた顔をしたあと、やわらかく笑った。
「それは、いいことですね」
「はい。強くなるって、そういうことなんだって言ってました」
その言葉を聞いた葵は、胸の奥が少し熱くなった。
あのとき失ったものは、戻らない。
でも今、自分たちが守ろうとしているものは確かにある。
⸻
夕方、練習が終わると、理人は子どもたちと一緒に外へ出た。
今日はよく晴れている。
夜になれば、星が見えるだろう。
「先生、今日も望遠鏡出す?」
「出すよ。宿題終わってからな」
「えー」
「えーじゃない。宿題から逃げるやつに木星は見せません」
子どもたちが笑う。
光が横で腕を組む。
「理人、最近ちょっと先生感強すぎない?」
「いいだろ、先生なんだから」
美羽がすかさず言う。
「兄ちゃん、昔より説教長くなった」
「お前もな」
「私は短く刺すタイプ」
「それ前も言ってたな」
また笑いが起きる。
⸻
その声は、飯山の夕暮れに明るく広がっていく。
かつて、誰かを傷つける笑いの中で壊されかけた理人。
その理人が今、誰かを守る笑いのある場所を作っている。
光の家族も、美羽の家族も、健斗も葵も、そしてジムに通う子どもたちも保護者たちも、その輪の中にいる。
失った日常は戻らない。
だが、別の場所で育った日常がある。
それは明るく、騒がしく、汗の匂いがして、時々涙もあって、けれど誰も取り残さない場所だった。
飯山のジムには、今日も声が響いている。
誰かを笑う声ではなく、
誰かと一緒に笑う声が。
後日談
「二度と顔を出すな」
飯山のジムは、その日もにぎやかだった。
子どもたちの声。
ミットを打つ音。
光の鋭い指示。
美羽の明るい叱咤。
理人の静かな声。
「力で押すな。足から入る」
「はい!」
「相手を倒すより先に、自分が崩れたら意味がない」
理人は少年のフォームを直しながら、丁寧に声をかけていた。
そのときだった。
ジムの入口に、数人の大人が立っていた。
理人の動きが止まる。
光も、美羽も、すぐに気づいた。
顔を見た瞬間、空気が変わった。
神谷莉央。
江口。
水田。
中島こころ。
かつて、横須賀の教室で理人を追い詰めた者たちだった。
四人は、ひどくやつれていた。
かつての強がりも、余裕もない。
ただ、理人たちを前にして、泣きそうな顔をしていた。
「……理人」
神谷が声を震わせた。
「ごめんなさい」
その言葉と同時に、彼女は頭を下げた。
ほかの者たちも、次々に頭を下げる。
「本当に、ごめんなさい」
「俺たち、あのとき……」
「取り返しのつかないことをしたって……」
「今さらだって分かってる。でも……」
子どもたちは、何が起きているのか分からず静まり返った。
理人は、しばらく何も言わなかった。
やがて、静かに口を開いた。
「帰れ」
短い一言だった。
だが、その場の空気を切り裂くほど冷たかった。
神谷が顔を上げる。
「……理人、お願い。少しだけ話を」
「話すことはない」
美羽が、兄の横に立った。
「ここは子どもたちの場所です。あなたたちが来る場所じゃありません」
光も前へ出る。
「帰って」
その声には、怒りがあった。
何年たっても消えなかった怒りが。
⸻
江口が必死に言った。
「俺たちも、あのあと全部失ったんだ」
理人は表情を変えない。
「家族も離れて、子どもにも拒絶されて、仕事も……」
「それが?」
理人の声は低かった。
江口は言葉を失う。
「それと俺たちに何の関係がある?」
「……」
「お前らが何を失ったかなんて、俺たちには関係ない」
理人の目は、まっすぐだった。
「俺たちは、お前らに壊されたあと、自分たちで人生を作り直した。お前らのためじゃない。許すためでもない。生きるためにそうしただけだ」
神谷が泣きながら言う。
「でも……謝りたくて……」
「謝りたいのは、お前の都合だろ」
理人は即座に返した。
「俺が聞きたいかどうかは関係ないのか?」
神谷は黙った。
「昔からそうだったな。お前らは、自分たちの気持ちを優先して、人の気持ちを考えなかった」
⸻
中島こころが、震える声で言った。
「私たち、本当に後悔してるの」
美羽が一歩前に出た。
「後悔してるなら、ここに来ないでください」
「……」
「兄は、あなたたちと会いたくない。私も会いたくない。光さんも会いたくない。それを分かっていて来たなら、また自分たちの気持ちを押しつけてるだけです」
こころの顔が崩れる。
「謝ったら少しでも……」
「楽になれると思った?」
美羽の声は鋭かった。
「私たちは、あなたたちを楽にするために生きてるんじゃない」
⸻
水田が拳を握りしめながら、うつむいた。
「……あのとき、止めればよかったって、ずっと思ってる」
光が静かに答える。
「遅すぎる」
「……」
「その言葉を聞くために、理人はここまで来たんじゃない。美羽ちゃんも、私も、あなたたちの後悔の受け皿じゃない」
光は子どもたちの方を一度見た。
「ここは、子どもたちが安心して強くなる場所。あなたたちの懺悔の場所じゃない」
⸻
理人は、最後にもう一度言った。
「帰れ」
神谷は泣きながら顔を上げる。
「理人……」
「二度と顔を出すな」
その声は、静かだった。
「俺も、光も、美羽も、お前らの顔は二度と見たくない」
誰も動けなかった。
理人は続ける。
「俺たちは、お前らを許していない。これからも許すつもりはない」
「……」
「それでも俺たちは、俺たちの人生を生きる。だから、お前らはお前らで、自分のしたことを抱えて生きろ」
沈黙。
「ここに来るな。子どもたちに近づくな。俺たちの生活に関わるな」
⸻
加害者たちは、何も言えなかった。
謝罪の言葉も、後悔も、失った人生の話も、すべて届かなかった。
届かなかったのではない。
受け取られなかった。
それは当然だった。
彼らが失ったものは、彼ら自身の行為の結果だった。
理人たちに、それを慰める義務などなかった。
⸻
やがて四人は、ゆっくりとジムを出ていった。
扉が閉まる。
ジムの中には、重い沈黙が残った。
子どもたちは、理人たちを見ていた。
理人は深く息を吐き、少し時間を置いてから言った。
「みんな、今日の練習はここまでにしよう」
一人の少年が、小さく尋ねた。
「先生……今の人たち、誰?」
理人は、すぐには答えなかった。
そして、静かに言った。
「昔、俺たちを傷つけた人たちだ」
子どもたちは黙った。
「でも、覚えておいてほしい」
理人は続ける。
「謝ることは大事だ。でも、謝ったから相手が許さなきゃいけないわけじゃない」
光がそっと隣に立つ。
美羽も、腕を組んで聞いている。
「傷つけられた人には、会わない権利がある。許さない権利がある。距離を置く権利がある」
理人の声は優しかった。
「だから、最初から人を傷つけないでほしい。もし誰かを傷つけそうになったら、止まってほしい。止める側に立ってほしい」
子どもたちは、真剣な顔でうなずいた。
⸻
夜。
ジムの灯りが消えたあと、理人は一人で外に立っていた。
飯山の空には星が出ていた。
光が隣に来る。
「大丈夫?」
「うん」
少しして、美羽も来た。
「兄ちゃん、言えてよかったね」
理人は静かにうなずいた。
「うん」
許さない。
会いたくない。
二度と顔を出すな。
それは憎しみに飲まれた言葉ではなかった。
自分たちの人生を守るための線引きだった。
理人は星を見上げた。
かつて奪われたものは戻らない。
それでも今、守るべき場所がある。
このジム。
子どもたち。
家族。
光。
美羽。
希。
だからこそ、もう二度と、過去に土足で踏み込ませるわけにはいかなかった。
理人は静かに言った。
「俺たちは、ここで生きてる」
光がうなずく。
「うん」
美羽も言った。
「だから、守ろう」
三人は、しばらく夜空を見上げていた。
許さないまま。
忘れないまま。
それでも、前へ進むために。
後日談
「呼ばれなかった葬儀」
その話を聞いたとき、獅童はしばらく声を出せなかった。
神谷たちが飯山へ行った。
理人たちのジムへ直接出向き、泣きながら謝った。
けれど、理人にも、光にも、美羽にも、突き放された。
帰れ。
二度と顔を出すな。
顔も見たくない。
その言葉を聞いた瞬間、獅童の背筋に、ひどく冷たいものが流れた。
当然だ。
頭では分かっていた。
当然すぎるほど当然だ。
それでも、その現実を他人の口から聞くと、胸の奥が凍りつくようだった。
⸻
獅童もまた、もう何も持っていなかった。
過去が晒されたのは、数年前だった。
伏せ字や噂では済まなくなり、
断片的だった情報が誰かによってつなげられ、
やがて名前が広がっていった。
職場に知られた。
家族に知られた。
親戚にも知られた。
最初は否定した。
子どもの頃の話だ。
もう何年も前のことだ。
当時は自分も未熟だった。
そこまで大事になるとは思わなかった。
だが、どの言葉も空っぽだった。
誰も納得しなかった。
妻は家を出た。
子どもは目を合わせなくなった。
職場では居場所がなくなり、やがて退職せざるを得なくなった。
親戚からも距離を置かれた。
誰も、獅童をかばわなかった。
⸻
両親も、壊れていった。
民事上の責任、賠償金の支払い、社会からの非難。
当時、自分を守ろうとして被害者側を責めた両親は、その後もずっと矢面に立たされた。
最初は怒っていた。
「いつまで昔のことを言うんだ」
「子どもの頃の過ちじゃないか」
「相手は成功してるんだから、もういいだろう」
そんなことを言っていた。
だが、世間は許さなかった。
理人は許していない。
美羽も許していない。
光も許していない。
そして何より、事実があった。
被害者家族を街から追い出すほどのことをした。
学校も裁判も、その責任を認めた。
今さら“昔のこと”では済まなかった。
両親は次第に疲れ果てた。
支払いに追われ、親族からも責められ、世間体も失い、体を壊した。
父が倒れたと聞いたとき、獅童は病院へ向かおうとした。
だが親族から連絡が来た。
「来なくていい」
短い言葉だった。
母のときも同じだった。
葬儀にも呼ばれなかった。
知らせは、すべてが終わってから届いた。
獅童はそのとき、玄関に座り込んだまま動けなかった。
自分の両親の葬儀にすら、呼ばれなかった。
そこまで、自分は失っていた。
⸻
そして今。
神谷たちが飯山へ行き、理人たちに拒絶されたという話を聞いた。
獅童は、ようやく思い知った。
自分がもし行っても、同じだ。
いや、もっと強く拒まれるかもしれない。
謝罪したい。
許されたい。
せめて一度、言葉を伝えたい。
そう思っていた気持ちが、急にひどく身勝手なものに見えた。
理人に何の義務があるのか。
美羽に何の義務があるのか。
光に何の義務があるのか。
自分の後悔を聞かせるために、またあの人たちの前へ現れる。
それは、結局また自分のためではないのか。
獅童は両手で顔を覆った。
⸻
「あの時、やめておけばよかった」
何度も思った。
だがその言葉すら、今では軽く感じる。
やめておけばよかった、では足りない。
最初からやってはいけなかった。
笑ってはいけなかった。
囲んではいけなかった。
言葉で追い詰めてはいけなかった。
相手の家族まで巻き込んではいけなかった。
自分の家庭が苦しかったから。
親とうまくいっていなかったから。
自分も満たされていなかったから。
そんな理由で、何の関係もない伊達家を壊していいはずがなかった。
⸻
獅童はスマホを手に取った。
理人の名前を検索すれば、すぐに出てくる。
世界王者。
ジムの指導者。
星空教室。
光との家庭。
美羽の活躍。
希の誕生。
明るい写真が並ぶ。
そのどれもが、遠かった。
理人は、自分が壊しかけた人生を、自分の力で作り直した。
でもそれは、自分が許された証ではない。
獅童は画面を閉じた。
謝りに行く資格もない。
会う資格もない。
声を届ける資格もない。
そう思うと、胸の奥が空っぽになった。
⸻
夜が更けていく。
獅童は一人、暗い部屋で座っていた。
家族はいない。
仕事もない。
親もいない。
親戚もいない。
そして、謝る相手にすら会うことを拒まれている。
それは、理人たちが復讐したからではなかった。
自分が選んだ行動の結果だった。
⸻
獅童は、もう一度だけつぶやいた。
「……俺は、何をしたんだ」
答えは、分かっている。
だが分かっても、過去は戻らない。
葬儀に呼ばれなかった現実も。
家族を失った現実も。
理人たちが顔も見たくないと言った現実も。
全部、戻らない。
そしてそのすべては、あの教室から始まっていた。
笑っていた自分。
力を持った気になっていた自分。
誰かを壊していることに気づかなかった自分。
もし、あの頃の自分に会えるなら。
今度こそ、獅童は思う。
張り倒すだけでは足りない。
泣いてでも、怒鳴ってでも、押さえつけてでも、止める。
でも、それはもうできない。
できるのはただ、失った人生の中で、
自分がしたことを一生抱えて生きることだけだった。




