帰る場所を選ぶ
第45話 帰る場所を選ぶ
帰る場所、という言葉の意味が、理人の中で少しずつ変わり始めていた。
前までは、帰る場所といえば横須賀の家だった。
学校でどれだけ苦しくても、駅前の道を通り、家の玄関を開け、自分の部屋へ入る。
それが当たり前だった。
でも今、その“当たり前”はもう崩れている。
横須賀の家は、まだ家であるはずなのに、
そこへ戻る想像をすると、先に胸の奥が重くなる。
家そのものが悪いわけじゃない。
けれど、その場所には、あの教室の気配や、帰り道の視線や、家の前まで来た加害者たちの声がまとわりついている。
逆に飯山は、もともとは“行く場所”だった。
祖父母の家で、たまに来る場所。
故郷の空気を吸って、また帰る場所。
でも今は違う。
朝起きて、障子越しの光を見る。
味噌汁の匂いを聞く。
光が迎えに来る。
美羽が横で笑う。
その繰り返しの中で、飯山が少しずつ“帰る場所”の形を持ち始めていた。
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その日、祖父母の家の居間で、健斗と葵が改まった顔をして座っていた。
理人と美羽も向かいに座る。
祖父母は少し離れたところで静かに見守っている。
空気がいつもと違うことは、理人にも美羽にも分かった。
「理人、美羽」
健斗が口を開く。
「今日は大事な話がある」
美羽が少し姿勢を正す。
理人も、黙って父を見る。
葵が続けた。
「お父さんとお母さんで話して、決めた」
「……」
「うちら、飯山で暮らそうと思う」
その言葉が、部屋の中へ静かに落ちる。
美羽が最初に反応した。
「……ほんとに?」
「うん」
葵がうなずく。
「ほんとに」
理人はすぐには何も言えなかった。
飯山で暮らす。
それは、自分がここに“避難している”だけではなく、
家族の暮らしそのものがここへ移るということだ。
つまり、横須賀へ戻ることを前提としない。
“元に戻る”ではなく、
ここで新しく生きる
ということになる。
その意味の大きさに、理人の中の言葉がすぐには追いつかなかった。
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健斗がゆっくり話す。
「このまま横須賀に戻っても、理人もしんどい」
「……」
「美羽も、あのままじゃ安心して学校へ行けない」
「……」
「だから、家族みんなで飯山に移る」
葵も言う。
「仕事のことも考えた」
「お父さんは飯山市内の日産の店に話をつけ始めとる」
「お母さんもこっちで仕事を探しとる」
「今の家も、売る手続きを進める」
理人の目が少し揺れる。
そこまで、本当に進んでいるんだ。
ただの“検討”ではない。
本当に、家族はここで生き直す方へ舵を切っている。
「それぞれの職場にも、事情は話した」
健斗が言う。
「向こうも分かってくれた」
「……」
「だから、これはもう“どうしようか”の話じゃなくて、“そうする”って話だ」
その言葉は強かった。
でも、押しつける強さではなかった。
家族を守るために腹をくくった強さだった。
⸻
美羽が、ぱっと理人の方を見た。
「お兄ちゃん、よかったね」
その言葉に、理人は少しだけ息をのんだ。
よかった。
その感覚を、自分はまだ完全には言葉にできていなかった。
不安もある。
本当にここでやっていけるのか。
横須賀の家や、前の生活を手放すことへの寂しさがゼロなわけでもない。
でも、それでも、
“戻らなくていい”
と、家族ごと決まったことに、胸のどこかが確かに軽くなっている。
「……うん」
理人は小さく言った。
「よかった、かも」
その“かも”が、今の理人には精いっぱいだった。
でも、それで十分だった。
葵の目に少しだけ涙がにじむ。
祖母はそっと顔を伏せる。
祖父は黙ったまま、大きくうなずいた。
⸻
その日の夕方、理人は光と二人で土手を歩いていた。
移住の話は、もう光にも伝わっている。
でも、光は最初から大騒ぎしなかった。
ただ、理人の歩く速さに合わせて隣を歩いていた。
「……決まったんだってな」
と光が言う。
「うん」
「そっか」
少し間があく。
風が草を揺らす音がする。
「うれしい?」
と光が聞く。
理人は少し考えた。
「……うれしい、のかな」
「うん」
「まだ、ちょっと不思議」
「まあ、そうだろな」
理人は空を見ながら言う。
「でも」
「……」
「“戻る”じゃなくて、“ここで生きる”って感じがする」
その言葉に、光の表情がやわらぐ。
「それでいいと思う」
「……」
「理人が、理人として息できる方が大事だ」
理人はその言葉を聞いて、少しだけ足を止めた。
理人として息できる方。
横須賀では、自分が何者かさえ削られていく感じがした。
好きなものも、声も、笑いも、全部が少しずつ奪われた。
でもここでは、少なくとも少しずつ取り戻せている。
光は、そんな理人を見て、少し照れたように笑う。
「……これから、ずっと一緒にいられるってことだよな」
その言い方に、理人も少し照れる。
「まあ……そうなるな」
「うん」
「……いやなん?」
「いやじゃない」
と光は即答した。
「むしろ、めちゃくちゃうれしい」
そのまっすぐさに、理人はまた少しだけ笑った。
光との距離は、前より確かに近くなっている。
好きだと言い合った、その先へ。
ただ甘いだけじゃなく、一緒に暮らしの時間の中へ入っていくような距離へ。
理人は、そのことを少しずつ実感し始めていた。
⸻
一方、横須賀では別の意味で家の中が壊れかけていた。
発信者情報の開示。
保護者会での追及。
外部からの批判。
そのすべてが、加害者側の家庭へも重くのしかかっていた。
神谷莉央の家では、母親が帰宅した莉央を居間へ呼び止めた。
「莉央」
「なに」
「……なんで、あんなことをしたの」
その一言に、莉央の表情が止まる。
母親は今まで、
“うちの子に限って”
“何か誤解があるはず”
という姿勢でいた。
でもさすがに、外へ証拠が出て、学校も世間も騒ぎ始めた今、そう言い切れなくなっている。
「どうして、あんな書き込みをしたの」
「……」
「どうして、あの子をそこまで追い詰めたの」
だが、その問いかけを聞いた瞬間、
莉央の中で何かが切れた。
「……何でって?」
声が低くなる。
「お母さんがそれ言うの?」
母親が息をのむ。
「お父さん、どうせお母さんより他の女の人の方がいいんでしょ?」
「……っ」
「知ってるから」
「……」
「毎日あんな空気の家にいて、何もなかったみたいな顔してるくせに」
「莉央」
「私に、なんであんなことしたのって聞く前に、自分たちのこと見たら?」
母親は何も返せない。
莉央はさらに言う。
「自分たちはめちゃくちゃなことして謝らないくせに」
「……」
「私たちには、謝れって言う資格なんてないじゃん」
その言葉は、母親の胸の一番痛いところへ刺さった。
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江口駿の家でも、似たようなことが起きていた。
「なんでこんなことしたのよ!」
と母親がヒステリックに言う。
駿はテーブルに肘をついたまま、乾いた笑いを漏らした。
「俺だけのせいみたいに言うなよ」
「何よ、その態度!」
「成績悪いときだけ怒鳴って、金ない金ないって騒いで」
「……」
「家の空気最悪なのに、学校ではいい親ぶって」
「駿!」
「成績だけで俺を判断すんなよ」
その一言に、母親は完全に黙った。
⸻
水田蓮の家でも、父親が「お前、こんなことして何考えてるんだ」と問い詰めたとき、蓮は初めて真正面から返した。
「それ、お父さんに言われたくない」
「何だと」
「俺がテストの点落としたとき、どんな顔してた?」
「……」
「結局、お父さんも俺のこと数字でしか見てねえじゃん」
「……」
「そんな人に、何が正しいとか言われても入ってこないんだよ」
父親は、その場で返す言葉を失った。
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中島こころの家では、母親が珍しく早く帰ってきて、
「こころ、話がある」
と言った。
だが、こころは笑いもしなかった。
「今さら?」
「……」
「普段いないくせに、こういう時だけ親みたいな顔すんのやめて」
「こころ」
「自分の都合で家にいなかったくせに、私に謝れとか反省しろとか、意味わかんない」
その怒りは、今まで別の弱い相手へ向いていたものが、
初めて家の中へ返ってきた瞬間でもあった。
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どの家でも、大人たちは返す言葉を失っていた。
もちろん、子どもたちのしたことが消えるわけではない。
それが許されるわけでもない。
でも、その加害の背後に、それぞれの家庭の歪みがあったことは、もう否定しようがなかった。
壊れている大人たちが、
壊れていく子どもたちを育て、
その子どもたちがさらに弱い誰かを叩く。
その連鎖が、ようやく家の中でむき出しになり始めていた。
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飯山では、その夜、理人が縁側で美羽と並んで座っていた。
「ここ、好き?」
と美羽が聞く。
理人は少しだけ笑う。
「うん」
「私も」
「……よかった」
その一言を聞きながら、理人は思う。
自分たちは、帰る場所を選び始めた。
ただ追い出されたのではない。
自分たちの未来を守るために、場所を選ぶ側へ少しずつ戻ってきている。
その感覚が、今の理人にはとても大きかった。
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