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少年法の壁  作者: リンダ


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飯山の午後-3人の時間


飯山の午後 ― 三人の時間


 飯山へ来てから、美羽は前よりよくしゃべるようになっていた。


 横須賀では、外へ出るだけでどこか身構えていた。家の前の道を歩くときも、兄の教室へ行ったときのことを思い出して、知らないうちに肩へ力が入っていた。


 でも飯山では違う。


 山が見える。

 空が広い。

 祖父母の家の庭には風が通る。

 誰かが急に冷たい声を投げてくることもない。


 何より、お兄ちゃんがいる。

 少し元気のないお兄ちゃんだけど、それでも横須賀にいたときよりは、ちゃんと“ここ”にいる感じがする。


 美羽にとって、それが大きかった。



 その日も昼ご飯のあと、光が玄関先から声を張った。


「理人ー! 美羽ちゃーん!」


 祖母が笑いながら、

「今日も来たよ」

 と言う。


 美羽はぱたぱたと走って玄関へ向かった。


「光ちゃん!」


「おう」

 光は笑って手を上げる。

「今日は二人とも、ジム見に来る?」


 美羽の目がぱっと光る。


「行く!」


 理人は、そんな妹の勢いに少しだけ口元をゆるめた。


「即答だな」

「だって楽しそうだもん」

「まだ見学って言ってるだけだぞ」

「見学して、やりたかったらやる!」


 そのやり取りに、光が吹き出した。


「美羽ちゃん、見込みあるわ」


「なにそれー」

 と美羽が笑う。


 理人は、その二人のやり取りを見ながら、胸の奥にあたたかいものが広がるのを感じていた。


 こういう時間が、まだ自分の人生の中に残っている。

 それだけで、少しだけ救われる。



 ジムへ向かう道すがら、美羽はずっとしゃべっていた。


「光ちゃんって、ほんとに強いの?」

「どういうパンチが得意?」

「女の子でもすごい人いる?」

「私でもできる?」


 光は一つ一つ、ちょっと得意げに答える。


「強いかどうかは相手による」

「パンチは、まあストレートも好きだけど、ボディ入ると気持ちいい」

「女の子でも強い人、いっぱいいる」

「美羽ちゃんでもできる。たぶん最初は縄跳びで泣く」


「なんで泣くの!」

「しんどいから」

「えー!」


 その会話に、理人は小さく笑った。


 横須賀でなら、きっとこんなふうに道を歩くことも難しかった。

 誰かの視線を気にして、声の大きさを気にして、急に嫌な言葉が飛んでこないかを気にしていたはずだ。


 でもここでは、美羽の声は風の中へそのまま溶けていく。

 それが何より、自由に思えた。



 ジムに入ると、いつもの空気がある。


 サンドバッグを打つ乾いた音。

 ミットのはじける音。

 ステップの擦れる音。

 汗とゴムと布の匂い。


 美羽は少しだけ緊張したように、でもきょろきょろと周りを見ていた。


「すごい……」

 と、小さく言う。


 理人も最初はそうだったな、と光は思う。

 少し前まで、自分もこの空気の中へ初めて理人を連れてきたのだ。


 そのときの理人は、まだ肩が固くて、顔色も今よりずっと悪かった。

 でも今は違う。

 理人は前より自然にそこへ立っていて、グローブやミットの並ぶ棚を自分から見る余裕が少し出てきていた。


「美羽ちゃん、まずはこれ」

 光が縄跳びを渡す。


「え、いきなり?」

「いきなり」

「ボクシングって殴るやつじゃないの?」

「その前に跳ぶやつ」


 美羽はむーっとしながらも、素直に縄跳びを持つ。


 最初の数回はうまくいかない。

 足に引っかかる。

 リズムがずれる。

 でも、それが悔しいらしい。


「もう一回!」

 と美羽が言う。


 光が笑う。


「そうそう、そういうの大事」


 理人は少し離れたところから、その様子を見ていた。

 美羽はもともと負けず嫌いだ。

 でも横須賀では、その負けず嫌いを出す場所すらなくなりかけていた。

 今こうして、ただ縄跳びで悔しがっているのが、なんだかすごく普通で、すごく良かった。



 しばらくして、理人はいつものようにミットを持つ先輩のところへ行った。


「今日もやるか」

 と先輩が聞く。


「……はい」

 理人がうなずく。


 構える。

 踏み込む。

 打つ。


 ぱん、と乾いた音がする。


「お、いい」

 先輩が言う。

「前よりちゃんと腰乗ってる」


 理人は少しだけ照れくさそうに目を伏せた。


「ほんとですか」

「うん。考えすぎず打てたときの方がいいな」

「……」

「理人、お前たぶん、繊細だけど体の感覚は悪くないぞ」


 その言葉に、理人は胸の奥が少し動くのを感じた。


 繊細。

 横須賀では、その気質を笑われた。

 でもここでは、それが悪い意味ではなく、感覚のよさとして言われている。


 同じ自分なのに、場所が違えばこんなにも意味が変わるのかと思った。



 一方の美羽も、ついにグローブをはめていた。


「ちょっとだけね」

 と光が言い、

「本気で打たなくていいから、まっすぐ前へ出す感じ」


 美羽は、グローブをつけた自分の手を見て、

「なんか強そう!」

 と素直に喜ぶ。


 その言い方に、理人も光も笑った。


「じゃ、いくよ」

 光がミットを構える。


 美羽は思いきって一発打つ。


 ぽふっ、と軽い音。


「えっ、今の!?」

「今の」

「弱っ!」

「最初はそんなもん」


 悔しそうな顔をして、もう一回打つ。


 今度は少しだけましな音が出る。


「おっ」

 光が言う。

「ちゃんと前向いて打てた」


「ほんと!?」

「うん」


 美羽の顔がぱっと明るくなる。


 その様子を見ていた男子の先輩が笑いながら言った。


「妹ちゃん、気が強そうだから伸びるかもな」


「気が強いってなに!」

「ほら、そういうとこ」

 と光が吹き出す。


 美羽はむくれながらも、どこかうれしそうだった。


 理人は、その光景を見ていて、胸の奥がじんわりあたたかくなるのを感じた。


 美羽も、ここでちゃんと守られている。

 ただ“巻き込まれた妹”じゃなくて、今この場で、自分の足で立っている。


 それが兄として、すごくうれしかった。



 練習の帰り、光の家へまた寄ることになった。


「今日も食べてくよな?」

 と光が当然のように言い、

 美羽は

「やったー!」

 と即答する。


 理人は少し笑って言う。


「毎回お世話になりすぎじゃないか」

「気にすんな」

「気にするよ」

「でも来るんだろ?」

「……行く」

「ほら」


 そういうやり取りも、前より自然だった。



 光の家の台所は、祖父母の家とはまた違うにぎやかさがある。


 味噌の匂い。

 焼き魚の音。

 炊きたてのご飯の湯気。

 光の母が手際よく皿を並べ、

 父が「今日は妹ちゃんもいるから多めな」と笑う。


「いらっしゃい」

「お腹空いたでしょ。いっぱい食べな」


 その言葉に、美羽が元気よく返す。


「はい!」


 理人も、

「いただきます」

 とちゃんと言えた。


 食卓に並ぶのは、特別豪華なごちそうじゃない。

 でも、できたてで、あたたかくて、食べる人を歓迎しているご飯だった。


 理人はそれを食べながら、横須賀の給食の時間を少し思い出した。

 食べ物まで嫌がらせの対象になっていたあの時間。

 息を潜めて、できるだけ目立たないようにしていた昼休み。


 今は違う。

 ここでは、ただ食べていていい。

 それだけのことが、すごく大きかった。



 食べ終わったあと、理人はぽつりと言った。


「……今日、楽しかった」


 その一言に、光の母も父も少し顔を見合わせる。

 美羽はうれしそうに兄を見る。


 光は、それを当たり前みたいな顔で受け取った。


「そりゃよかった」


 でも、その“よかった”の中に、どれだけ安堵がこもっているかを、理人は少しだけ感じていた。


「久しぶりに体動かして……なんか」

 理人は少し考える。

「ちゃんと、自分の体があるって感じした」


 その言葉に、部屋の空気が少しだけ静かになる。


 光はまっすぐ理人を見た。


「うん」

「……」

「理人の体は、ちゃんと理人のもんだよ」


 その言葉は、ボクシングの話でもあり、もっと深い意味でもあった。


 勝手に押さえつけられたり、

 笑いながら蹴られたり、

 狭い場所へ押し込められたりしたあの時間で、

 理人は自分の体の感覚まで奪われかけていた。


 でも今は、自分で立って、自分で打って、自分の意思で動いている。


 そのことが、理人にとってどれほど大きいかを、光はちゃんと分かっていた。



 少し間が空いた。


 理人はテーブルの木目を見ながら、静かに言った。


「……光」


「ん?」


「この前も言ったけど」

「……」

「俺も、光のこと、好きだから」


 美羽が「おお」と小さく目を丸くする。

 光は一瞬で顔が赤くなった。


「な、なんで改めて言うん」

「言いたくなったから」

「……っ」


 理人は少し照れたように、でもちゃんと続けた。


「俺も、強い男になりたい」

「……」

「ボクシング、始めてみようかなって、本気で思ってる」


 光はしばらく何も言えなかった。

 でも次の瞬間、顔を真っ赤にしたまま、笑った。


「……そっか」

「うん」

「じゃあ、一緒に強くなろうや」


 その言葉に、理人も少しだけ笑った。


 横須賀では、強さは人を押さえつけるために使われていた。

 でも飯山では違う。

 強くなるということは、自分で立つことだった。

 誰かを守れることだった。

 怖さに飲まれない体と心を作ることだった。


 理人は、その意味を少しずつ知り始めていた。



 美羽はそのやり取りを見ながら、

「私も強くなる」

 と急に言った。


「え?」

 理人と光が同時に振り向く。


「私も、ボクシングやる」

「ほんとか?」

 光が笑う。

「うん。お兄ちゃんと一緒に強くなる」

「……」

「だって、また誰かが変なこと言ってきても、もう泣くだけはいや」


 その言葉に、理人の目が少し揺れた。


 美羽もまた、横須賀で傷ついていたのだ。

 兄のことで巻き込まれ、自分自身も悪意を向けられた。


 でも今、その小さな体で、“自分も強くなりたい”と言っている。


 理人は、そんな妹を見ながら、少しだけ胸が痛くて、でも誇らしかった。


「……じゃあ、一緒にやろうか」

 と理人が言う。


 美羽はぱっと笑った。


「うん!」


 光も笑う。


「飯山トリオ結成だな」

「なんそれ」

「まあ、ええやん」

「ださくない?」

「言うな」


 三人のやり取りに、光の両親まで笑った。


 その笑いは、誰かを壊す笑いじゃない。

 誰かを輪の外へ追い出す笑いじゃない。

 ただ、同じテーブルを囲んでいる人たちの、あたたかい笑いだった。



 その夜、理人は祖父母の家の部屋で一人になってから、しばらく手のひらを見つめていた。


 今日、ミットを打った手。

 グローブをはめた感触。

 体を動かした疲れ。

 光に好きだと言った声。

 美羽の「私も強くなる」という顔。


 全部が、ちゃんと自分の中に残っていた。


 教室の夢は、まだ消えない。

 戻れない気持ちもある。

 でも今の自分には、少しずつ別のものが増えてきている。


 好きだと言われること。

 好きだと返すこと。

 体を動かして楽しいと思うこと。

 妹と一緒に笑うこと。


 それは、奪われかけていた人生の感覚そのものだった。



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