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少年法の壁  作者: リンダ


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飯山の朝、決戦の前



第40話 飯山の朝、決戦の前


 飯山の朝は、少しずつ理人の体に馴染み始めていた。


 最初のころは、目を覚ましてもどこか現実感が薄かった。障子越しの光を見ても、自分がまだ夢の続きの中にいるみたいで、体が朝に追いつかない感じがあった。


 でも今は違う。


 朝になると、祖母が台所で味噌汁を温める音がする。縁側の外では風が草を揺らし、遠くで鳥の声がする。祖父が新聞をめくる乾いた音がして、光が来る日は、まだ早い時間から玄関の外で「おはよー」と遠慮のない声が響く。


 そういう一つ一つが、少しずつ理人の中に“朝”を戻していた。


 布団から起き上がる。顔を洗う。朝ごはんの席につく。無理のない範囲で食べる。少し休んで、外へ出る。昼にはまた戻ってきて、祖父母の家でゆっくり過ごす。


 それだけのことだった。


 でも、その“それだけ”が、横須賀では失われていた。


 毎朝、学校へ行けるかどうかで胸が苦しくなり、玄関で足が止まり、呼吸が乱れ、自分をどう保つかだけで精一杯だった日々と比べれば、今の飯山の時間はあまりにも静かだった。


 理人は、その静けさに少しずつ体を預け始めていた。



 その日も朝食のあと、祖母が笑って言った。


「理人、今日は顔色ちっといいね」


 理人は少し照れくさそうに目を伏せた。


「……そうかな」


「そうだよ」

 祖父が新聞の向こうから言う。

「昨日より、目が起きとる」


 その言い方が、飯山らしくて理人は少しだけ口元をゆるめた。


 そんな小さな変化を、祖父母は見逃さない。

 でも、それを大げさに喜びすぎない。

 そこがありがたかった。


 回復というのは、たぶんこういうふうに始まるのだろう、と理人はぼんやり思う。


 劇的に元気になるんじゃない。

 いきなり全部忘れられるわけでもない。

 ただ、昨日より少しだけ息がしやすい。

 それを何日か重ねていくしかない。



 昼前、光が来た。


「理人ー、今日も来たぞ」


「毎日くるな」

 理人が小さく返すと、光は笑う。


「来るに決まっとるやろ」


 その掛け合い自体が、数日前なら考えにくかった。

 理人が相手の言葉へ軽く返す。

 光がそれを受けてまた笑う。

 それだけのことなのに、祖母は台所で少しだけうれしそうな顔をしていた。


 光は庭先の椅子へ腰を下ろして、持ってきたスポーツドリンクを理人へ渡した。


「今日もジム行く?」


 理人は少し迷ってからうなずく。


「……行く」

「よし」


 光の顔がぱっと明るくなる。


 ボクシングを始める、と言ったあの日から、理人は本当に少しずつ体を動かし始めていた。まだ本格的ではない。ミット打ちやステップ、構え方の練習くらいだ。けれど、誰かを傷つけるためではない強さの使い方に触れることは、理人にとって思った以上に大きかった。


 光の目は真剣だ。

 先輩たちの動きも鋭い。

 でもそこには、横須賀の教室みたいな“笑いながら壊す”空気はない。


 きつくても、苦しくても、そこにあるのは鍛えるための痛みで、誰かを踏みにじるためのものではない。


 その違いを、理人の体は少しずつ覚え始めていた。



 練習の帰り道、光は飲みかけのペットボトルを振りながら言った。


「理人、今日ちょっと踏み込み良くなった」


「そう?」


「うん。最初よりちゃんと前に出れてる」

「……前って、むずいな」

「わかる。でも、下がってると余計しんどいんだよ」


 その言葉に、理人は少しだけ黙った。


 下がっていると余計しんどい。


 それは、ボクシングの話でもあり、今の自分のことでもある気がした。


 光は理人が黙った理由を深くは聞かなかった。

 でも、少し歩調をゆるめて、理人の隣を同じ速さで歩いた。


 その距離が、前よりずっと自然になっている。


 好きだと言った。

 好きだと返された。

 それでも二人の関係は急に派手に変わるわけではない。

 ただ、並んで歩く距離が少しだけ近い。

 目が合ったときに、少しだけ照れる。

 そういう小さな変化が重なっていく。


 理人は、その心地よさをちゃんと感じ始めていた。



 一方、横須賀では“決戦前夜”の空気が濃くなっていた。


 佐藤絵梨奈の事務所では、これまでの記録が整理され、外部提出用の資料としてまとまり始めていた。


 音声データ。

 写真。

 ノートのコピー。

 発信者情報開示の一覧。

 校長・教頭との会話の録音。

 教育委員会への報告内容の齟齬。

 学校内部での「他教員は関わるな」という通達。


 それらが一つの束になると、もう“校内の人間関係トラブル”では済まない重みを持ち始める。


 佐藤は、机に並んだ資料を見ながら低く言った。


「ここまで揃えば、外は動きます」


 健斗と葵、高石は黙って聞いていた。


「学校の対応の不誠実さ」

「教育委員会の機能不全」

「そして、被害児童保護よりも組織防衛を優先している構図」

 佐藤は一つ一つ確認するように言う。

「かなり明確です」


 高石はその言葉を聞きながら、学校の中では何度も薄められてきたものが、ようやく外の言葉で輪郭を持つのを感じていた。


 学校は閉じた場所だ。

 だからこそ、外へ出さなければ見えないことがある。


「提出、進めます」

 佐藤が言う。


 健斗は短くうなずいた。


「お願いします」



 その提出の動きは、やがて外でも取り上げられ始める。


 まだ大きく騒がれる段階ではない。

 だが、教育関係者の間や法務系のルートでは、すでに

 横須賀市内の小学校での重大ないじめ・暴力事案と、学校側の不誠実対応

 として注目され始めていた。


 教育委員会が問い合わせを受けてもなお「体調不良で在宅療養中」としか整理しなかったこと。

 被害の中心を“人間関係のトラブル”へ薄めたこと。

 学校幹部が他教員へ関与制限をかけていたこと。


 その一つ一つが、外から見れば明らかに異様だった。


 つまり、学校が守ろうとした“内側だけの論理”が、逆に学校自身を追い詰め始めていた。



 そんな中、美羽も夏休みに入った。


 理人が飯山へ行ってから、横須賀の家の中は少し静かになっていた。

 でも、その静けさは空っぽでもあった。


 美羽もまた、飯山へ向かうことになった。


 今回は、祖母が横須賀の伊達家まで迎えに来る。

 柔道師範でもある祖母は、年齢を重ねても背筋がまっすぐで、立っているだけで空気が変わる人だった。


 その日、伊達家の前に車が止まり、祖母が降りてくる。

 美羽はうれしそうに玄関から飛び出しかけて、でもふと、道の向こうの気配に気づいた。


「……」


 神谷たちだった。


 神谷莉央、中島こころ、江口駿、水田蓮。

 わざわざ近くまで来ていたのだろう。

 路地の角のところで、こちらを見ている。


 そして神谷が、口元だけで笑った。


「あれ〜?」

「正義のヒロインがおでかけするの〜?」


 その言い方には、悪意が隠しようもなく滲んでいた。


 美羽の背中が少しこわばる。

 でも、もう前みたいにただ黙るだけではなかった。


 その瞬間だった。


「あんたら〜」


 低く、腹の底に響くような声が飛んだ。


 祖母だった。


 さっきまで孫を迎えに来たやさしい祖母の顔をしていたのに、その一声で空気が一変する。背筋はさらに伸び、目の奥の圧が変わる。


 祖母は、かつて柔道の日本代表として戦い、今も師範として後進を育てている人だった。

 年齢を重ねても、その芯の強さは消えていない。

 むしろ、静かな凄みとして体の奥に残っていた。


 祖母は一歩前へ出る。


「追いかけて、捕まえて、うちの孫に何言うか」


 神谷たちの顔が、初めてはっきり引きつった。


 祖母はさらに一歩近づく。


「寝技がええか」

「……」

「投げ技がええか」

「……」

「足技がええか」


 口調は荒くない。

 でも、その静かな圧の方がよほど怖い。


「わたしは柔道師範や」

 祖母は言った。

「あんたらを締め上げることくらい、わけないよ」


 もちろん、本当に手を出すつもりで言っているわけではない。

 だが神谷たちには、その“手を出さなくても圧倒できる人”の凄みが初めて分かった。


 今まで、相手が怯む側にしか立ってこなかった。

 でも今、自分たちの方が初めて“怖い”という感情を抱いている。


 神谷が一瞬、言葉を探す。

「いや……別に、ただ」

「ただ何だい」

 祖母が低く返す。


 それで終わった。


 中島が小さく後ずさる。

 江口と水田も視線を逸らす。

 神谷でさえ、今はもう笑えなかった。


「帰んな」

 祖母は短く言った。

「今すぐ」


 その一言で、四人は逃げるようにその場を離れた。


 去っていく背中を見ながら、美羽は息を止めていたことに気づく。


 祖母がふっと表情を戻し、美羽の方を見た。


「もう大丈夫やよ」


 その声には、さっきまでの圧はなかった。

 ただ、孫を守る人のやさしさが戻っていた。


 美羽は小さくうなずく。

 胸の奥に張りついていた怖さが、少しだけ溶ける。



 その夜、飯山では理人が祖父母の家の玄関先へ出て、美羽の来る時間を何度も気にしていた。


 やがて車の音がして、祖母と一緒に降りてきた美羽の姿が見える。


「お兄ちゃん!」


 その声に、理人の顔が少しやわらぐ。


 美羽は走ってきて、理人の腕にしがみついた。


「来たよ!」

「うん」

「会いたかった」

「……俺も」


 そのやり取りを、祖母と光が少し離れたところで見ている。


 理人の顔には、まだ疲れが残っている。

 でも横須賀にいたころより、確かに少し呼吸がある。

 美羽と再会したその瞬間の表情に、祖母も光も小さく安堵した。


 決戦の前。

 横須賀では外部提出が進み、学校側は追い詰められ始めている。

 でも飯山では、理人が少しずつ朝と夜を取り戻し、美羽もまたそこへ加わった。


 この対比が、これからの物語をさらに強くしていく。




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