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この妖狐、距離が近すぎる――契約俳優は逃げられない  作者: 熾星


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夜の撮影事故

「はい、カット」


 監督の声がモニターの奥から飛んだ瞬間、撮影所に張りつめていた空気が、ようやく少しだけゆるんだ。


 京都郊外にある時代劇の撮影所は、夜十時を過ぎてもまだ明々と照らされていた。仮設のセットの外から山風が吹き込み、初春の夜の冷たさを運んでくる。スタッフたちは思わず肩をすくめたが、ロケ地の外周には、まだ大勢のファンが残っていた。


 もちろん、そのファンたちは佐伯蓮を見に来たわけではない。


 蓮はこの作品では脇役だった。出番は多くなく、役柄も決して好かれやすいものではない。夕方から深夜までファンを待たせているのは、このドラマの主演、朝比奈旭だった。


 旭はここ二年で一気に名前を上げた若手俳優だ。顔がよく、カメラ映えもするうえ、所属事務所も宣伝に惜しみなく予算を使っていた。深夜ドラマのヒットをきっかけに、彼のファンは撮影現場まで追いかけるようになり、こんな郊外のロケ地でさえ小さな応援会のような賑わいを見せていた。


 場外では、誰かが声を潜めて「旭くん」と呼び、別の誰かが応援うちわやペンライトを掲げている。高橋真紀は数人のスタッフを連れ、外で秩序を保ちながら、ファンにミネラルウォーターとカイロを配っていた。あの手慣れていて行き届いた対応は、大手事務所で鍛えられた営業のやり方そのものだった。


「蓮さん、こちらです」


 三浦伊織が脇の通路から歩いてきた。蓮がまだその場に立っているのを見ると、声を落として促した。


 次の出番にも蓮のシーンはある。ただ、おそらく回ってくるのは日付が変わってからだ。夜の撮影はそれだけで消耗する。まして時代劇の屋外ロケとなれば、重い衣装、かつら、立ち回りが重なり、待ち時間だけでも体力を削られていく。


 蓮は我に返り、スタッフの後について休憩車へ向かった。


 伊織は蓮の外套と水筒を抱え、いつもより少し急いだ足取りで隣を歩いていた。まだ若く、蓮のマネージャーになってからも長くはない。それでも蓮に関わることだけは、誰よりも真剣だった。


 蓮はどの現場でも手を抜かない。


 カメラが回っていないときは静かに台本を読み、出番になるとすぐに役へ入る。そんな俳優なら、本来もっと良い機会が巡ってきてもいいはずだった。けれど蓮の所属する芸能事務所は小さく、強い宣伝部門も、ゴールデン帯の作品に直接押し込めるほどの力もなかった。


 伊織はしょっちゅう、彼の代わりに悔しがっていた。


 それでも蓮本人は、焦っているように見えなかった。


 争わない。奪いに行かない。自分から営業もしない。事務所が用意した小さなバラエティ番組にも、あまり積極的ではなかった。ほかの役者がワンカットのために現場に半時間余計に残るところを、蓮は自分の芝居を終えると、あとは静かに隅へ下がっていた。


 伊織の気持ちは、蓮にも伝わっていた。


 蓮は手を伸ばし、伊織の肩を軽く叩いた。


「そんな顔をするな。俺が売れてないのは、お前のせいじゃない」


 伊織は一瞬固まり、すぐにうつむいた。


「そういう意味じゃありません」


「わかってる」


 蓮は休憩車に乗り込んだ。


 車内には暖房が入っていて、外よりずっと過ごしやすかった。蓮は座ると、伊織の外套のポケットから自分のスマートフォンを取り戻した。伊織は車の扉の外から顔をのぞかせる。


「蓮さん、コーヒー買ってきましょうか」


 蓮は遠くの暗い山道へ目をやった。


 このあたりでコンビニを探そうと思ったら、どれほど歩くことになるかわからない。


 蓮は隣の席を軽く叩いた。


「いい。乗って休め。今日はお前も大変だった」


「いえ、蓮さんのほうが大変です」


 伊織はそれ以上遠慮せず、身をかがめて車に乗り込み、扉を閉めた。


 できればこの隙に蓮に少し眠ってほしかった。後半の夜撮影はワイヤーを使ううえ、立ち回りもある。少しでも集中が途切れれば、動きに支障が出る。


 けれど蓮は眠らなかった。


 彼はスマートフォンを見下ろし、Xの画面を指で流したあと、何人かの監督やプロデューサーのアカウントを開いた。最近新しい企画を発表した人もいれば、業界内でオーディションの噂が流れている人もいる。


 隣でそれを見ていた伊織の胸が、また静かに沈んだ。


 蓮は上へ行きたくないわけではない。


 ただ、期待をすべて隠すことに慣れすぎているだけだった。


 外からは、ファンの声が波のように届いた。夜はすでに深く、場外に残る人数も夕方よりは減っている。それでも蓮が普段目にする現場に比べれば、十分すぎるほど賑やかだった。


 高橋真紀は人垣の端に立ち、スタッフにミネラルウォーターを配らせていた。旭が遠くを通りかかった瞬間、ファンは声を押し殺して悲鳴を上げ、スマートフォンのレンズが一斉に持ち上がる。


 伊織は窓の外を見て、思わずため息をついた。


 蓮は顔を上げない。


「羨ましいか」


 伊織はすぐに背筋を伸ばした。


「羨ましくないです。蓮さん、水をどうぞ」


 慌てたような速さで水を差し出す。


 蓮はそれを受け取り、ちらりと伊織を見た。


「反応が大きいな。本当は羨ましいんだろ」


「違います」


 伊織は焦って声を低くした。


「ただ、蓮さんの実力なら、いつか絶対にあの人より売れると思っているだけです」


 口にした瞬間、伊織は後悔した。


 周囲には旭のファンも、スタッフも多い。誰かに半端に録音されれば、明日には「無名俳優のマネージャー、朝比奈旭を暗に批判」などという芸能ニュースになりかねなかった。


 蓮は責めなかった。ただ、少し笑っただけだった。


「ここはロケ地で、事務所の会議室じゃない」


 伊織はうつむいた。


「わかっています」


「ならいい」


 蓮の声は淡々としていたが、責める響きはなかった。


 外の光景を見て、伊織が羨ましく思わないはずがない。だが、羨ましがったところでどうなるものでもない。芸能界は演技力だけで勝てる場所ではない。人によっては一度の機会を待ち続け、契約が終わるまでそれを掴めないまま終わる。


 車の外で扉が軽く叩かれた。


「佐伯さん、準備お願いします」


 蓮はスマートフォンをしまった。


「行こう」


 伊織が先に降り、扉を開ける。蓮は車から降りると軽く伸びをして、また脇の通路から撮影現場へ戻った。


 次のシーンは夜戦だった。


 蓮が演じる刺客は、旭が演じる若き藩主と崖際で斬り結ぶ。物語上では、藩主は追い詰められて足を滑らせ、崖から落ちる。刺客は彼の玉佩を奪い、無傷で去っていく。


 時代劇のアクションはただでさえ手間がかかる。ワイヤーを使う場面ならなおさら慎重さが必要だった。撮影前には、アクション監督、安全担当、ワイヤーチームが吊り点と予備ロープを確認している。制作会社はここ数年、現場の安全管理で業界から厳しく見られていたため、手順を雑にするわけにはいかなかった。


 蓮は衣装を整え、指定位置へ立った。


 全身を黒で包み、顔には布を巻いている。見えているのは両目だけだ。カメラが向いていないときの彼は、存在感が薄いほど静かだった。だが監督がスタートをかけると、その気配は完全に変わる。


「アクション」


 山風がセットを吹き抜け、照明の中で木々の影が揺れた。


 旭は刀を抜いて後ずさり、足元で小石を踏んだ。


「貴様、何者だ」


 蓮が目を上げる。


 その瞬間、モニター前の助監督まで思わず息を止めた。


「お前の命を取りに来た者だ」


 低く抑えた声には、鋭い殺意が宿っていた。顔は隠れていて、観客には表情の全体が見えない。それでも迫りくる圧は、画面を支えるのに十分だった。


 二人は段取りどおりに斬り合った。


 刀がぶつかり、夜の中で火花が一瞬だけ散る。旭が後退し、足元を踏み外す。ワイヤーが彼の身体を受け止める。


 すべて順調に見えた。


 旭の安全ロープが、不自然に一度揺れるまでは。


 それは段取りの中の揺れではなかった。


 蓮の目つきが一瞬で変わった。


「危ない」


 最初、誰もそれが芝居の外の声だとは気づかなかった。


 次の瞬間、旭の身体は制御を失った反動で石壁へ向かって振られた。現場が一斉に乱れる。誰かが止めろと叫び、誰かがワイヤーチームへ走り、誰かがカメラをどかせと怒鳴り、別の誰かがすぐに救急車を呼んだ。


 蓮はほとんど考えていなかった。


 彼は身を翻して飛び出し、旭の手首を掴んだ。


 蓮の身体には、ワイヤーがついていない。


 その場にいた全員が凍りついた。


 崖下には安全用のエアマットが敷かれている。だが蓮が飛び出した位置は大きくずれており、身体はほとんどセットの縁から宙に出ていた。旭のロープは一本切れ、残り二本はまだ吊っている。石壁に叩きつけられるはずだった身体を、蓮が強引に引き止めたことで、旭はどうにか空中で止まった。


「蓮さん」


 下から伊織の声がした。声色が完全に変わっていた。


 旭は青ざめた顔で蓮を見上げた。


「早く上がってください。俺にはまだロープがあります。大丈夫です」


 蓮は角度を一目見た。


「この向きでお前を引き上げたら、そのまま石壁にぶつかるぞ」


 その通りだった。


 石崖のセットには、古びた雰囲気を出すための砕石や凹凸が作り込まれている。今無理に引き上げれば、旭は頭や顔を傷つける可能性があった。


 旭は何も言えなくなった。


 彼も俳優だ。身体と顔が何を意味するかは、よくわかっていた。俳優人生はまだ一番良い時期に入ったばかりだ。こんな事故で壊すわけにはいかない。


 蓮は、そこまで深く考えたわけではなかった。


 目の前の人間を、このまま壁に叩きつけてはいけないと思っただけだった。


「伊織」


 蓮は歯を食いしばって叫んだ。


「ゆっくり巻かせろ」


 伊織は恐怖で中身を抜かれたようになっていたが、その声で現実へ引き戻され、ワイヤーチームへ駆け出した。


「巻いてください。ゆっくりです。無理に引かないで」


 現場がようやく動き始めた。


 ワイヤーチームは少しずつロープを巻いた。アクション監督が角度を叫び、安全担当は汗だくになっている。撮影所の外では、ファンの一部が異変に気づき、スマートフォンをこちらへ向ける人が増えていた。旭の名前を呼ぶ声もあれば、救急通報をする人もいる。


 旭の身体が少しずつ上がってくる。


 蓮とほぼ同じ高さになったとき、温かい液体が一滴、旭の目の前に落ちた。


 旭は見上げた。


 粗いロープが蓮の頬を裂き、血が顎を伝って落ちていた。そのロープは顔の横を強く押さえている。少しでも首の向きがずれれば、傷つくのは頬ではなく喉かもしれなかった。


 旭の声が一気に変わった。


「止めてください。止めさせてください。このままだと顔に傷が残ります」


 俳優は普通の人間以上に、顔の重さを知っている。


 顔で生きるのは女優だけではない。カメラはすべての欠点を拡大する。どれほど演技がうまくても、あまりに目立つ傷跡があれば、選ばれる役は変わってしまう。


 蓮は旭を見なかった。


 顔の最も敏感な場所から痛みが弾けた。腕は重さに耐え続けて痺れ始め、汗ばんだ掌が横棒の上を少しずつ滑る。


 蓮は旭を横へ押した。


「ここを掴め」


 旭がようやく同じ高さに来た。


 蓮は旭の手を離し、彼が自分で横棒を掴んだのを確認してから、もう一方の手を上へ伸ばし、縁に指をかけて身体を引き上げた。


 蓮は地面に半ば膝をつき、短く息をついた。それからまた手を伸ばし、旭を引き上げた。


 二人が地面に戻った瞬間、現場の全員が深く息を吐いた。


 スタッフたちはほとんど反射的に旭のほうへ集まった。


「旭くん、大丈夫」


「どこか痛いところは」


「先生、先に朝比奈さんを診てください」


 旭はスタッフに支えられ、まだ顔色が悪かった。


 一方、蓮は膝に手をついて立ち上がり、指の隙間から血を滴らせていた。彼は声を上げず、誰かを呼ぶこともしなかった。


 伊織が駆け寄って初めて、彼が押さえていた半分の顔が見えた。


「蓮さん」


 その声が、撮影現場に鋭く響いた。


「顔が」

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