おねえさん、なんかダルそうにする
食後。作ってもらった手前、洗い物くらいは俺がやると申し出て、キッチンに立った。
スポンジで皿を洗いながら、横目でリビングを盗み見る。山葉さんはローテーブルの前のカーペットにペタンと座り込み、ソファを背もたれにして食後の余韻をダラダラと貪っていた。
「鈴木くんちのこのソファ、ちょうどいい硬さしてんねー。眠くなってきた」
「寝てもいいですけど、この後講義はないんですか?」
「講義はないけど、三時から生協のシフト入ってる。あー、行きたくな……」
皿を水切りカゴに伏せ、食後のコーヒーの準備にとりかかる。豆を挽く余裕はなかったので、今日は手軽なドリップバッグだ。マグカップにお湯を注ぐと、香ばしい匂いが肉野菜炒めの残り香と混ざり合った。
「はい、どうぞ。少し熱いので気をつけて」
「ん。ありがと」
山葉さんが両手でマグカップを受け取り、フーフーと息を吹きかけている。
その時。
ブブブ、ブブブブ。
ローテーブルの上に放り出されていた山葉さんのスマホが、無機質なバイブレーションの音を立てて震え出した。
山葉さんはちらりと画面に目を落とした。
その瞬間、細められていた三白眼がガラス玉のように冷え込み、そこからスッと感情の色が抜け落ちた気がした。
彼女はスマホに触れることなく、ただマグカップに口をつける。震え続けるスマホを、まるでそこにないもののように無視していた。
やがて、ブツリと着信が切れる。
俺はコーヒーを一口啜り、何も見なかったフリをしようとした。だが、十秒もしないうちに、再びスマホが震え始めた。
画面には、さっきと同じ着信画面。
「あの……。出なくていいんですか?」
見かねて俺がそう促すと、山葉さんは小さく、だがはっきりとしたため息をついた。
「……んー。ごめん、ちょっと出る」
マグカップを置き、スマホを手に取った彼女は、立ち上がってベランダの方へと歩いていった。ガラス戸は閉めたままだが、静かな部屋の中には彼女の電話の声がうっすらと届いてしまう。
「もしもし」
耳に届いたその声に、俺は少しだけ眉をひそめた。
俺の部屋で見せる熱を帯びない気怠げな口調でも、生協のレジで見せる明るく透き通った『女神』の声でもない。
「うん。……うん、わかってるから。大丈夫。……うん、ちゃんとやってるよ。心配しないで」
それは、ひどく平板で、感情の起伏を押し殺したような声だった。
ただ、相手を安心させるためだけの、完璧に調整された『いい子』の受け答え。
「うん。……わかった。じゃあね」
通話は一分も経たずに終わった。
スマホを耳から離した山葉さんは、窓の外を見つめたまま、数秒間動かなかった。その背中は、見慣れたはずのヨレヨレのパーカーを着ているのに、ひどく窮屈そうに見えた。
やがて彼女が振り返る。
俺と目が合うと、彼女は慌てて目元を緩め、いつもの気の抜けた笑みを浮かべてみせた。けれどそれは、急いで仮面を被り直したような、どこかぎこちないものに見えた。
「ごめんごめん、親から。そろそろ時間だし、あたし行くわ」
「あ、はい……。お疲れ様です。今日は、ごちそうさまでした。美味しかったです」
「ん。またね」
エプロンを外し、首元を軽く整えると、山葉さんは足早に俺の部屋を出ていった。
ガチャリ、とドアが閉まる音が、やけに重く響いた。
残された俺は、微かなごま油の匂いと、彼女が残していった空のマグカップを見つめながら、一人ソファに深く腰を沈めた。
親、か。
先ほどの、彼女のあの空虚な声の響きが耳から離れない。
ふと、さっき肉野菜炒めを食べていた時の彼女の姿を思い出した。
あの時、俺は彼女の手際の良さと料理の美味しさに気を取られていたが、よくよく思い返してみると、彼女の食事の作法は驚くほど綺麗だった。
箸の持ち方、お椀の持ち上げ方、咀嚼する時の静けさ。あの初めてカレーを作った夜もそうだった。ダル着でストゼロを煽っている姿からは想像もつかないほど、彼女の所作には染み付いた品があった。
もしかして、家庭がすごく厳しいのだろうか。
『わかってるから。大丈夫』
彼女は、電話の向こうの相手に対して、何を『わかっている』と伝えていたのだろう。
大学で全学生から愛される、完璧な笑顔の生協の女神。
俺の部屋でだけ見せる、隙だらけでダウナーなねえちゃん。
そしてさっき、電話口で見せた、感情を押し殺した『いい子』の顔。
どれが本当の山葉さんなのか、俺にはわからない。ただ、彼女がどうして大学で完璧な仮面を被っているのか。
そして、どうして俺の部屋のような薄暗い場所を『避難所』にしているのか。
その理由の輪郭に、少しだけ触れてしまったような気がした。
俺は冷めかけたコーヒーを飲み干し、彼女が洗ってくれた皿を棚にしまうため、ゆっくりと立ち上がった。




