(閑話)姐さん、苦悩する
ドロシー視点
一人の娼婦が消えたことにより風光明媚は少し混乱に陥っていた。
とりあえずオーナーの帰還を誰もが待ち侘びていた。
そして漸く姿を見せたオーナーは風光明媚の異様な物々しさに首を傾げたが事情を説明すると、
「ベティが逃げたあああ!?」
案の定、オーナーの声が館内に響き渡った。
「ど、どういうこと!?」
「で、ですから、部屋に書き置きがありましてーー」
リックも事情がよく呑み込めず説明が辿々しい。
逃げた娼婦と言うのは、最近入ったばかりのベティだ。
ベティと客が出てこないことを不審に思ったリックが部屋を訪ねると、頭から血を流して倒れる客がいたとか。
ベティの姿だけ忽然と消え、書き置きだけが残されていたらしい。
最近張り切っていたから少し見直していたのにやはりあの子は甘ちゃんだった。根性なしが!
『家出』と書いてあるならそのうち帰ってくるだろう。帰ってきたらとりあえず叩く。
「ほんとに逃げたの!?」
頭を抱えたオーナーが信じられないと言わんばかりに叫んでいるが事実だ。
「『逃げていい』とは言ったけどほんとに逃げるなんて!」
あの子が逃げたのあんたのせいか……。
ベティに逃げ道を作っといてあげて心に余裕を持たせる算段だったのか?
あの子は情けをかけてもらったゆえの"躊躇"とか"遠慮"とか考えなさそうだかから、不味いだろう。
『逃げていい』と言われたらそのまま言葉を受け止めて逃げるはずだ。辛いことがあった時、その道に逃げ込むはずだ。と言うか本当に逃げた。
だってあの子は馬鹿だから。
オーナーが嘆いてるけど、ベティが逃げたと聞かされて一番狼狽えていたのは意外にもブリアンナだ。
気高く振る舞っていても動揺を隠しきれずに居たし、瞳は心配だと言わんばかりに揺れていた。
ベティに辛く当たっていても、実際嫌ってはいない。
ブリアンナの当たりはただの嫉妬だ。
自分より若くて可愛い娘が来たことによってオーナーの心を奪われることを懸念している。
ブリアンナも綺麗な顔立ちをしてるけどああいう儚げな美少女は風光明媚にはいないから、オーナーも気に入っている。
お気に入りになるだけあって確かに腹立つくらい可愛い。
だからブリアンナも余計気を揉み多少当たりはキツくなっているが、本当に嫉妬してるだけだ。
寧ろベティを嫌っているのは成績を気にしてる他の連中だろう。
ぽっと出の小娘に売上を抜かされ、気分が悪そうだ。
影でベティの悪口を言ってるのを何度も耳にしてるがオーナーが贔屓にしてるお気に入りなだけあって、表立って手が出せない。
そしてブリアンナがベティに絡むたびに気分良さげに嘲笑している。ブリアンナは一際ベティに厳しいのでそれが歯止めになっているのもある。
オーナーは愚かブリアンナすら新米のベティに優しく振る舞っていたら鬱憤が溜まるだろう。
ベティが猫の獣人を連れて帰ってきたときだってかなり罵声に塗れていた。幼女が気に入らないわけではなく、好き勝手にやる小娘への苛立ちで。
額に青筋を立てながら『オーナーに気に入られてる娘はいいわねぇ』と皮肉げに笑っていた。
ベティは常日頃から、誰かに何かしら言われるたびに涙目になっているので古参娼婦の火に油を注いでいる。本当にあのうるうるしている瞳は何なんだろう。
普通に話しかけたはずの古参娼婦はまるでこちら側が虐めているみたいだと癇癪を立てていた。
確かにあれはあたしもイラッとしてるから別にいい。とりあえず頬をつねりたくなる顔だ。
古参娼婦達の苛立ちは、獣人を連れ帰ったベティをブリアンナが一喝したことで少し収まったようにも思える。
あまりにもブリアンナが厳しいので『子供を助けるくらい良いじゃない』と言うベティ擁護派と、『良い気味だわ。小娘には一度灸を据えるべきだったのよ』と言うブリアンナ賛同派に別れた。
あの激怒は『小娘がスコット様の気を引こうといる!』と妙な勘繰りをしたがゆえのものだったわけだけど、変な形で火種が落ち着いた。
ブリアンナがああ言ったのは、幼女を拾った"後"のことを懸念したからだとステラから聞いた。
助けたは良いものの面倒見るわけでもなく捨て置こうとしたら逆恨みされ、獣人の牙が向く可能性もある。
今回ばかりはブリアンナが正しい。
助けた相手に恨まれたりしたら堪ったもんじゃないからね。まあ、それは杞憂だったわけだけど。
何せベティは猫のお嬢さんを連れて出ていってしまったからね。
ベティは自分が一部からやっかまれていることに気づいてるんだろうか。
ブリアンナすら自分が歯止めになっていることに気づいてない。ただオーナーしか見えていないだけだから。
風光明媚はこんなふうに微妙なバランスで保っていた。
平穏ではないが、特に問題はなかった。
だからまさかベティが逃げ出すなんて誰も思わなかっただろう。
ベティを妬んでいた古参娼婦達ですら唖然としていた。
好き嫌い関係なく、ベティが逃げ出すほどの境地に追い込まれた事実に誰もが一抹の不安を抱いた。何故ならあの子は行く宛なんか何処にもないから。
そして、あの子を追い詰めたという客が少し厄介だった。
「何でハロイ男爵を通しちゃうの!ベティの客は僕が通すって言ったよね!?」
「べ、ベティちゃんもやる気だったので任せても大丈夫かと……」
「それで何で寄りによってハロイ男爵なんだ!あの客は評判悪くて最悪じゃないか!まだ半人前のベティが逃げ出したのも無理ないよ!」
確かにもっとマトモな客につかせるべきだった。処女のベティを気遣うならブルック様のような御方を選んだほうがいい。
その場にオーナーが居たらこんな致命的なミスは犯さなかったはず。
顔を真っ青にするリックに、「無能だねぇ」と目を眇める。
まずやる気になったと言ってるが、本当にベティがやる気になったのか?ーーないない。有り得ないねぇ。確かにハロイ男爵の見てくれは良い。あの顔に騙された娼婦は多いけど、ベティは少し擦れている。顔が良いからと言ってあの男には飛び付かないだろう。
「まだ不慣れなベティがハロイ男爵に無体なマネをされたなら、風光明媚に来る殆どの客が"そう"だと勘違いしてしまう!だから比較的マナーの良い客を選んでたのに、何で寄りによってあのハロイ男爵!?ああ、最悪だ!」
「す、すみません!ベティちゃんは不思議な子なので案外どうにかなるんじゃないかと思ってしまって、」
「いや、確かに不思議な子ではあるけど!何で誰もハロイ男爵を止めないんだ!皆あの子を変人扱いしすぎだよ!あの子の変だけど、それでも"普通"なんだ!普通に嫌がるし、普通に泣くし、ちょっとお馬鹿なだけの普通の女の子なんだよ!」
リックは押し黙り、様子を見守っている娼婦達も黙っている。
何だかんだ言っても、あたしもその場にいたら見送ってしまいそうだ。だってあの子は何処か変だから。
皆が嫌がるような客を普通に受け入れるからハロイ男爵だって受け入れると勘違いするだろう。
それは思い込みなんだけど。
「それにしても、ベティはとんでもない置き土産を用意してくれたね……」
頭を抱えるオーナーの悩みは尽きない。
あたしは寧ろそっちのほうが問題だと思う。
ベティなら何処に居ても図太く生き延びるよ。案外もうケロッとしてたりして。とりあえずベティより常識人に見える猫のお嬢さんも居るし、何とかなるだろう。
それよりも、
「怪我をさせられたハロイ男爵は『覚えとけ!こんな店捻り潰してやる!』と捨て台詞を吐いてお帰りになられたよ、オーナー」
めちゃめちゃお怒りになっているハロイ男爵が問題だった。
あたしがそう口を挟むと、オーナーの顔は青褪めた。
このまま灰になって散ってしまいそうなほど覇気がない。
「どうにかならなかったの?リック」
「む、無理でした。傷の手当ても拒否されるくらい怒っていらして……。今すぐ店を壊そうとする勢いで帰って行かれました」
「最悪の事態じゃないか」
そう。本当に最悪だ。
血だらけの客が暴れてると聞きつけ、あたしも何とか怒りを収めようと頑張ったけど無理だった。
血を流しすぎてフラフラになっていたけどあまりの怒りで声が枯れるくらい怒鳴り散らしていた。
娼婦に拒否された挙げ句、殴られたなら無理もない。
でもあの男爵は娼婦を縛って行為に及ぶとよく聞くがベティは手足が自由だったのか殴ったらしい。
見た目だけは儚げな美少女が嫌がって身を捩る姿に興奮していたのだろうが殴られるとは夢には思わないだろう。だからこそ怒りが凄まじかった。
あの子の見た目は正直詐欺だからねぇ。あんな成りして部屋ではゴロゴロしてるなんて風光明媚の娼婦ですら知らないはずだ。
いつも涙目でオーナーに媚を売ってる印象しかないだろう。
実際は豪華な部屋を与えられてる癖にのんびり菓子を貪る甘ったれだ。
「まさかハロイ男爵を怒らせてしまうなんてね。面倒なことになった」
珍しく真剣な声色のオーナーに空気がぴりつく。
オーナーの気持ちはよく分かる。本当に面倒だから。
怒らせてしまった"ハロイ男爵"と呼ばれる客が面倒なんだ。
ハロイ男爵を館内にお通ししたのはリックの独断だったけど、実際通さなかったらもっと面倒な事態になっていたのかもしれない。
そう言う客だから、いつも無理に受け入れていた。
今日は偶々ベティだっただけだ。そして偶々ベティが逃げてしまっただけ。ベティがつかなかったら、多分他の娼婦がつかされていた。
拒否出来ないほどハロイという男は厄介だった。
ハロイ男爵の負傷に、嘗て泣かされた娼婦はざまあみろと笑っていた。それだけ嫌われ、恨みを買っている。
何故追い返せないのかと言うとハロイ男爵がリーランドの貴族だからだ。
何より、ハロイ男爵の背後には何処かの大物貴族がいると噂に聞く。
ハロイ男爵がでかい顔を出来るのは、その大物貴族のお陰。
汚い手で手に入れた金貨を献上し、女を大物貴族に斡旋し、影響力のあるその名前を借りているとか。
大物貴族は貴族社会でもかなり幅を利かせている人物らしく、威嚇だとしても名前を出されたら逆らえるはずがない。
「どうするんだい、オーナー。このままじゃ本当に風光明媚は潰されてしまうよ」
怒りは凄まじかった。
本気で潰しかねない。
貴族様の考えることは凡人のあたしには想像つかないからねぇ。
あの子は本当に面倒な置き土産をしてくれたよ。
帰ってきたら絶対叩いてやる。
オーナーが頭を悩ませる姿を見て皆も黙りになって、どれほどの時間が過ぎただろう。急に下男が輪に滑り込んできた。
無能なリックが顔をキリッとさせて『今は取り込み中だ』と腕で拒む姿にイラッとした。
あんたのせいだろうが。あんたがハロイを追い返せてたらこんな厄介な事態にはなってないよ。
無能なこいつはいつもあたしをイライラさせる。
あたしが見ていることに気づいたリックが格好付けながらフッと笑い、またイラッとした。
拒まれた下男は急ぎの用なのか、リックを押し退け(やはり馬鹿だ)、オーナーに伝達する。
「ひゅ、ヒューバート・フローレンス様がいらっしゃいました……!」
一瞬にして場が凍りついた。
何て間の悪い。
風光明媚のピンチなのに新たな爆弾が自らやってきた。
追い返せば良いと言いたいところだけどこの国の重役様だ。
ヒューバート・フローレンスといい、ハロイといい、高級娼館『夜伽美人』に行けよって話だ。
ライバル店に塩を送るのも変な話だが権力の持ってる客が一番厄介なんだ。
ヒューバート・フローレンスはベティに逢いに来たとしか考えられないけどベティは今風光明媚に居ない。
それどころか家出してしまった。
「オーナー、ど、どうされますか」
リックよりも有能な下男がおずおずと訊ねているが、お引き取り願ったほうがいいと思った。
しかし皆顔色が悪いなか何故かオーナーだけ天の助けと言わんばかりに顔を輝かせている。
『今すぐお通しして!』と嬉々と叫ぶ姿を見て嫌な予感が過った。
まさか冷酷で有名な男にーーおいおい、オーナー。あんた、死人でも出すつもりか?