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「なんというか、楽器との調和性がだね」
「ハーモニーですね」
「うむ。完全調和……それが足りない」
「でも個性があって良いとおもうけどな、先生の目からすると。ね、柴崎さん」
「もう、何とでも仰って下さい……」
若菜の演奏は、散々だっとまでは行かないが、聊か「見事」と評するには憚られる出来だった。
散在するミス、緊張によるものか入りすぎてしまうブレス、そもそもの音階ミスなど、枚挙に暇は無い程だったが、しかし南教諭の言うようになんとも若菜らしいとは言えた。
ユーフォニュウムという楽器としてみれば、あまりに自己主張が強すぎるのは問題である。無論ユーフォニュウム自体に独自性があってはいけないという事ではないが、5人でのブラスアンサンブルとなれば自然と中音域を担当する事になるため、控えめなぐらいで十分という見方も出来る。
とはいえ、流石にミスが多いというのはそれ以前の問題であった。
そう説明すると、若菜は感心したような顔をしてみせた。
「まあどっちにしろ若菜嬢は個人練習から始めないとイカンかもね」
「頑張ります……」
「なぁに、あまりに酷いと俺に若菜嬢の若菜を摘まれてしまうとか考えてればきっと出来る」
「き、恐怖で身が凍りそうなんですけど……」
「あれ、お姉ちゃん今の……?」
「いいのよ咲ちゃんは忘れて」
「え? え?」
不思議そうな顔をする咲に、3人で微妙な微笑みを返しておいた。
とりあえず、と壱は仕切りなおす。
「咲さんは、もっと練習をすればどんどん上手くなりそうだね」
「ありがとうございます!」
「若菜嬢は、とりあえず楽器との完全調和を目指そうか」
「それは良いんだけど、なんか、気に入ってるのその言葉?」
「うん」
「はぁ……」
壮絶な顔をする若菜である。
「ところで、もう1人の先輩は」
咲がフルートの手入れをしつつ、何気なく口にする。若菜はちょっと困った顔を、南教諭もそれに続くが、壱は胸を張り、扉の方向を向いた。
「もう来てるんだろ、入ってきなよ」
「え、そうなの?」
若菜が驚いたような顔をし、壱に倣って顔を向けるが、反応は一切無い。
「く、黒沢君?」
「来てなかったか……」
「勘だったんですか、今の」
「黒沢君は本当に黒沢君ねえ」
「なんだか失礼な人々だな君達は」
言いながら、壱は廊下に顔を出してみる。すると、渡り廊下の方面に背中を向けた人影が1つ。
走った。
「させるか!」
「うわぁ!」
飛びかかり気味に肩を叩くと、心底驚いたようにその人影は間合いを取った。ユキである。壱の顔を見て、気まずそうに目を逸らした。
「どこ行くのさ。おいでよ」
「……ん、別に、良い」
「またそんな事言う。聴いてたんでしょ? ユッキーの演奏も是非聴かせてくれ」
「だって、今からなんか入り辛いし……」
唇を尖らせ、指先を弄びながらそんな事を言うユキは、斯様に女の子らしかった。こういう表情も出来るのかと壱にとっては大発見である。
「そんな事無いって。後輩の子も、会いたがってるし」
「……」
「な、とりあえず俺が無理矢理引き摺ってきたっていうんで良いし。ここまで来たんだから」
迷っていたユキが、自ら足を運んだこの機会を逃すべきではないと思った。可奈子との軋轢は未だにあるのだろうし、それについての解決策は想像もつかないが、若菜の言う通りユキは楽器に対する衝動を捨て切れてはいないのだ。
それが当然だと思う。楽器演奏にはどこか魔力めいたものがあると、壱は身をもって知っているのだ。
「でも、今まで悪態ついて」
「憶えてないね」
「……」
一瞬、ぽかんと口を開け、それからユキは笑った。
「行くよ」
「よし」
「有難う、黒沢君。あと、ごめん」
「謝罪は演奏ミスった時にでも頼むよ」
「何よ、カッコいいじゃんか」
「あ、そういう事言わないで変な顔になるから」
笑うユキを引き連れ、音楽室へ戻ると、若菜と南教諭は心底嬉しそうに出迎えてくれた。咲は、これがテンプレートだと言わんばかりに駆け寄り、あの「おはようございます!」をぶつける。
それで、ユキも随分と安心したようだった。
「こちらが臼井ユッキー先輩だ。諸君、宜しく頼む」
「ユッキー言うな」
「えーと、ユッキーは楽器何だっけ?」
「あー、前はチューバやってたけど」
「渋いじゃなーい。んじゃ、とりあえず一発頼むぜ」
「はいはい。小枝ちゃん、マウスピースって余ってたっけ」
「小枝ちゃん言わないで……いつもの引き出しにいくつかあるから」
「手伝おうか?」
「チューバを運べない奏者が居るとでも?」
「激かっこいいですねユッキー先輩!」
「咲ちゃんもそう言うのね」
もういいわ、と疲れたように笑い、ユキはチューバを取り出してくる。大きく、無骨と言っても良いようなねじ曲がったその楽器は、しかし見た目以上に繊細である。管楽器は低音の物ほど発音に気を使わなければならないからだ。
椅子を引っ張り出して腰掛けて構えると、流石に様になっていた。
「チューバだけでやっても面白くないと思うけど」
「そうだねえ。若菜嬢はどう?」
「またわたし!?」
「そうね、若菜付き合って」
「あぁ……うん……」
「なんでこんな絶望的なのよこの子?」
「さっきボロクソに言われた」
「はぁ」
泣く泣くユーフォニュウムを準備しだす若菜の陰で耳打ち。ボロクソには言っていないのだが、存外若菜は自己嫌悪が強いタイプと見える。外見は出来る女なのに中身がこれというギャップは吸い込まれるものがあった。
「じゃあ……若菜が適当に始めてくれる? それについてくから」
「うぇえ」
「さっきから何なのよその微妙な叫びは……」
「わ、解ったよ」
ユキが踵を踏み鳴らしてリズムを伝えてやると、若菜もすっと表情を引き締めて演奏に入った。
たどたどしく始まるユーフォニュウムは今にも転びそうだったが、それを支える様に底をチューバが走り始める。そうすると、驚く程に若菜からはミスが消えた。奏法自体もさっきとは比べるべくもなく、若菜本来の実力が出ていると言えるだろう。
加えて、ユキの安定感だった。そつ無く、状況に合わせて演奏しているのだから、見事である。この低音に乗っての演奏ならば、成る程若菜も安心して音を出せるというものなのだろう。さらに言えば、友人同士の信頼感が生む協調が、お互いに演奏を高めあっていると言って良い。
フィナーレには思わず溜息が出るような伸びやかな和音となって、締められた。拍手が3つ。
「凄いじゃないか。ユッキーも若菜嬢も。特に若菜嬢なんか別人みたいだ」
南教諭と咲も、頷いて同意する。
「あ、もしかしてこの子に、1人で吹かせた?」
「うん、そうだけど」
「駄目駄目。1人だと緊張とか勝手な被害妄想でどんどん駄目になってくから」
「ユキちゃんのばかー!」
「何よそれは。事実でしょ」
「そうだけどばかー!」
「はいはいごめんごめん」
苦笑いをしながら若菜を宥めるユキを見て、傍からすると落ち着いた様子の若菜にユキが肩を預けているような印象を与えられがちだが、実際はその逆なのだと理解した。良い友人関係である。
「うむ、とりあえずだな、俺としては90点を貴様らにくれてやる」
「なんで偉そうなのよ」
「ユッキーが居ると安心してボケられるな」
「そんな事に人を使うな」
「あら、そういえば」
ポンと手を叩いて、思い出したとばかりに南教諭が口を挟む。
「部長、居ないのよね今」
「ああ、確かに」
若菜が続き、ユキが肩を竦め、咲は壱を見た。南教諭も壱に目をやりながら、続ける。
「ほら、何かと居ないと不便でしょう? 連絡とかするのに」
「じゃ、俺はユッキーを推」
「黒沢君が良いと思いまーす」
壱の推薦意見をカットしつつ、ユキは楽しげにそう言った。嫌な予感が全開である。
「私はこうやって遅れてきた身だし、若菜は落ち着き無いし、咲ちゃんは1年生。鶴岡はまあ、ああだしさ」
言葉をどう選んで良いのか一瞬迷ったような素振りを見せながら、ユキは現在の部員を簡単に評する。若菜が後ろでぶつぶつ言っているのが寂しげだ。
「まあ、そうね。どう? 黒沢君」
「俺が部長になった暁には、吹奏楽部には体操着着用での部活動を強制しますが」
「それは却下するけどやってみない?」
「何を普通に却下してるかアンタって人は!」
「そりゃ却下もされるわ」
「うん」
「セクハラリストですね先輩」
「ああ、これはこれで気持ち良いな」
「小枝ちゃんやっぱ考えなおした方が」
「奇遇ね、先生もそう思ってたわ」
まあとにかく、と笑いながら南教諭はまた手を叩き、全体を見渡してから壱の手を取る。
「ここまで纏めてるのは黒沢君なんだから。引き受けてくれない?」
「ううん……後悔しても知りませんよ?」
「しないわよ。するなら、最初にしてるから」
「アンタ結構失礼だな」
「あはは。じゃ、宜しくね部長さん」
肩をドンと叩き、南教諭はからからと笑う。他の面子も頷き、それで決まってしまった。
溜息を吐き、壱も諦める。人を纏めるというのは苦手なのだが、こうなってしまった以上は仕方が無いと割り切る事にした。人心について、もう少し勉強しようとも思う。
よしと頷き、壱は教壇に登った。
「いいかよく聞け! これからコンクールまで日々厳しい練習の毎日が待っている。それが終われば各人1人1人がプロ並となる。それまではカスだ! 両生動物のクソをかき集めた程度の値打ちしかない!」
「あー、いいから、そういうの」
「あ、そう?」
ユキのクールな突っ込みで引っ込みがつき、壱は再び輪に戻る。
「まあ部長だからって特に何もする事無いんでしょう?」
「そうね、一応、連絡の頭にはなってもらうと思うけど」
「今までとあんま変わりませんな」
「でしょ」
「内申書は?」
「グレードアップ」
「羨ましいかユッキー」
「はいはい羨ましい羨ましい」
「じゃ、部長就任の記念に1曲お願いします!」
咲がそう言った事で、全員状況に気がついた。壱だけが、演奏していない。
「あ……聴く?」
「そりゃ聴くわ。私たちにだけやらせて自分はナシってのはずるいんじゃない?」
「奇遇だねユキちゃんわたしもそう思ってたよ」
目に暗い喜びを湛えつつある若菜の後押しと、咲のワクワクを押さえきれない眼差し、そして勝手にケースを開け始めている南教諭のコンビネーションにより、壱は気付けばサックスを握っていた。
「あれ……?」
「さ、頼むわよ部長」
「カッコいいの! カッコいいのお願いします部長!」
全員椅子に座り、完全に聴く体勢である。
うむ、と頷いて、壱は覚悟を決めた。あまり、こうして期待の中で演奏をするというのは得意ではないのだが、今後もそうは言っていられない。
「じゃあ、俺の好きな曲でいい?」
「いいわよ。本気を見せてね」
南教諭が胸の下で腕を組むので思わず前のめりになりかけつつも、壱はサックスを、構え、吹いた。
ただそれだけの作業が、愛しかった。