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二人の距離  作者: 久遠 睦


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第二章 美緒・選び取られた静寂

五月の柔らかな光と初夏の風が、岡崎の並木道を鮮やかに揺らしていた。琵琶湖疏水の水面には、若葉の緑が鏡のように映り込み、時折吹き抜ける東山の風が細かなさざ波を立てている。平安神宮の大鳥居が、初夏の突き抜けるような青空を背景に、圧倒的な朱色の存在感を誇っていた。

その並木道沿いに建つ大型複合施設の一角に、「京都ブックスクエア 岡崎」はある。自動ドアをくぐると、外の熱気がすっと引き、深く焙煎された珈琲豆の香ばしい匂いと、何万冊ものインクと上質紙が放つ独特の乾いた香りが鼻腔をくすぐる。吹き抜けの開放的な店内には、天井近くまで整然と連なる巨大な木製本棚がそびえ立ち、柔らかな間接照明がそれぞれの背表紙を優しく照らし出していた。

木下美緒(二十八歳)は、コンシェルジュカウンターの内側で、入荷したばかりのアートブックの検品作業を行っていた。白いコットンのスタンドカラーシャツに、チャコールグレーのワイドパンツ。首元からはシンプルな革紐で吊るされた真鍮のプレートが下がっている。そこには『ブックコンシェルジュ 木下』とだけ、繊細なフォントで刻まれていた。

「……すみません、少しご相談してもよろしいでしょうか」

控えめにかけられた声に、美緒は手元の納品伝票からすっと顔を上げ、柔らかく目元を緩めた。

「はい、木下と申します。どのような本をお探しでしょうか」

カウンターの前に立っていたのは、一人旅らしい女性だった。「有名な観光地ではなく、一人で静かに過ごせる場所が載った本を探していて」と、言葉を選びながら話す。美緒は問いを重ね、その人が求めているのは情報の多さではなく、日常から離れて息を整える時間なのだと受け取った。

美緒は、無名の小寺を十年以上撮り続けた写真集と、一人旅の思索を綴った随筆集を選んだ。女性はページを開いた途端、深く息を吐いた。「こういう本を探していました」。その表情が緩むのを見て、美緒も微笑んだ。言葉にならない願いを受け取り、必要な一冊へ橋を架ける。それが彼女の仕事だった。

午後二時、休憩室の引き戸を開けると、パイプ椅子に座ってスマートフォンをいじっていた同僚の沙織が顔を上げた。

「美緒ちゃん、お疲れー! 今日も指名カウンター、結構並んでたね」

「お疲れ様。旅の本を探している素敵な方だったよ」

美緒は給湯室で愛用のサーモマグに白湯を注ぎ、沙織の向かいの席に腰を下ろした。

「相変わらず美緒ちゃんは本への愛が深いよねえ。あ、そうそう! 美緒ちゃん、今週の土曜日って空いてたりする?」

「土曜日? 特に大きな用事はないけど……どうしたの?」

「実はさ、うちの彼氏の大学時代のサークル仲間が京都で集まるんだけど、商社マンとかメーカー勤務の結構ハイスペックなメンズが多くてさ。人数足りないから美緒ちゃんも来てくれないかなって。絶対モテると思うんだよね、美緒ちゃん聞き上手だし、落ち着いてるし!」

沙織の悪気のない、純粋な好意からの誘いだった。美緒は微笑みを崩さないまま、困ったように眉尻を下げて両手を小さく振った。

「声かけてくれてありがとう、沙織さん。すごく嬉しい。でもごめんなさい、今週末は陶芸教室の予約を入れてて、どうしても成形を終わらせなきゃいけない作品があるの」

「ええーっ、また陶芸!? 美緒ちゃん、休みの日いつも陶芸か一人カフェ巡りばっかりじゃん! 二十代後半なんて、一番いい出会いがある黄金期だよ? もったいなさすぎるって!」

「ふふ、よく言われる。でも、ろくろを回して土と向き合ってる時間が、私にとって一番の贅沢なんだよね」

「もう、相変わらずガードが固いんだから……。まあ、美緒ちゃんがそれでいいならいいんだけどさあ」

沙織は肩をすくめると、休憩時間が終わるのを機に「先に戻るねー」と軽やかに部屋を出て行った。

一人になった休憩室で、美緒は白湯を一口飲んだ。恋愛や結婚に関心がない人と思われることには慣れていた。けれど彼女が守りたかったのは独身という立場ではなく、誰の機嫌も窺わずに呼吸できる、自分の時間だった。

左京区の古いマンションにある美緒の部屋には、観葉植物と本、手作りの器が並んでいた。誰の視線も気にせず、誰の機嫌も取らなくてよい。そこは、傷ついた自分の輪郭を取り戻すために、五年かけて整えた場所だった。

大学時代から三年間付き合った亮介は、社交的で明るく、当初は美緒にないものを持つ人に見えた。だが社会人になると、返信が少し遅れただけで居場所を尋ね、休日を一人で過ごしたいと言えば不機嫌になった。亮介はそれを愛情だと呼んだ。

美緒は彼の機嫌を損ねないよう予定を変え、友人の前では『気が利く彼女』を演じた。やがて朝には吐き気がし、本の文字も頭に入らなくなった。自分の感情より、亮介の反応を先に考えることが習慣になっていた。

「別れてほしい」。シチューを作っていた日曜の夜、美緒はそう告げた。亮介は怒鳴り、ドアを殴った。それでも部屋を出て駅まで歩いたとき、背中から鎖が外れたように呼吸が楽になった。もう二度と、誰かの機嫌を取るために自分を押し殺さない。あの夜の決意が、美緒の今の暮らしを支えていた。

亮介と別れてからの五年という歳月は、美緒にとって、バラバラに砕け散りかけていた自分の輪郭を一つひとつ丁寧に拾い集め、修復していくための時間だった。

週末の土曜日、美緒は朝の光で目を覚ました。陶芸教室へ持っていくスケッチブックと鉛筆を鞄に入れ、東山の工房へ向かった。

「おはようございます、美緒さん。今日も早いね」作業台で土を練っていた白髪の講師、松本が穏やかな笑みを向けた。

「おはようございます、先生。先週削った鉢の乾燥具合はどうでしょうか」

「いい具合に締まってるよ。今日は高台の削り仕上げと、化粧土の作業だね」

美緒はエプロンをつけ、ろくろの前に座った。濡れた指で土へ触れ、回転の軸がぶれないよう圧を整える。力を入れすぎれば崩れ、ためらえば形が鈍る。土と向き合う間だけは、他人の期待ではなく、自分の感覚だけを頼りにできた。

一時間半後、手のひらに収まる深鉢ができた。わずかな歪みを見た講師の松本は、「完全な正円は機械に任せればいい。手で作るものには、その人の呼吸が残る」と言った。美緒は土のついた指で、揺らいだ縁をそっとなぞった。

工房を出たときには、正午を少し回っていた。初夏の風が通りを吹き抜け、汗ばんだ美緒のうなじを心地よく冷やしていく。美緒は東山の木々の緑を眺めながら、ゆっくりと南へ向かって歩き出した。

工房を出たあとは、目的を決めず路地を歩き、古い格子や建具をスケッチする。写真なら一瞬で切り取れる風景を、自分の目で確かめながら紙へ移す。その時間が美緒は好きだった。

烏丸通や河原町通のような近代的な商業エリアから離れ、細い路地ろうじへと足を踏み入れる。京都の路地は、外の大通りからは窺い知れない独自の静寂と生活感を抱え込んでいる。軒先に並べられた朝顔の植木鉢、小さなほこらに手向けられた真新しい季節の花、石畳の隙間から逞しく顔を出す青々とした苔。

祇園四条の喧騒を抜け、花見小路からさらに一本入った、車も通れないような細い路地を歩いていたときのことだった。黒塗りの千本格子と、深い藍色の暖簾が掛けられた町家の軒下に、小さく控えめな木製の看板が下がっているのが目に留まった。『雨音茶寮』。その看板の文字の端正な佇まいに惹かれ、美緒は吸い寄せられるように暖簾をくぐった。

『雨音茶寮』の格子戸を引くと、真鍮の風鈴が鳴った。古い梁や柱を残しながら、無垢材の家具と新しい建具を調和させた町家だった。美緒は坪庭の見える席を選んだ。

玉露と和菓子を注文し、美緒はスケッチブックを開いた。描いたのは庭ではなく、古い柱と新しい窓枠が接する部分だった。過去を消さず、今の暮らしへつなぐ職人の仕事に惹かれた。

鉛筆を走らせるうち、周囲の物音は遠のいた。美緒はまだ、同じ接合部を見つめていた一人の男性が、やがて自分へ歩み寄ってくることに気づいていなかった。


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