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二人の距離  作者: 久遠 睦


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第一部 交わらなかった線 第一章 海斗・過去の設計図

五月の京都は、観光客でごった返す大通りの熱気とは裏腹に、古い町家の奥深くにだけ、冬の名残のようなひんやりとした静けさを沈殿させていた。

宮沢海斗(三十五歳)は、薄暗い通り庭の土間に立ち、メジャーをぴんと伸ばして梁の寸法を測っていた。カチリと金属音が静寂を裂き、使い込まれて黄色い塗装が剥げかけたテープが、シャッと乾いた音を立てて手元へ吸い込まれていく。

築八十年を超えるその京町家は、かつて西陣織の糸問屋として使われていた建物だった。表の通りに面した格子窓から差し込む午後の柔らかな光が、宙を微かに舞う埃の粒を金色の粒子のように照らし出している。奥の坪庭には、苔むしたつくばいと、新緑を滴らせる青紅葉が静かに佇んでいた。

「宮沢さん、ここの床なんですけど……やっぱり全部無垢材に張り替えることはできますか?」

背後からかけられた声に、海斗は手元のスケッチブックから顔を上げた。

声をかけてきたのは、今回のリノベーションの依頼主である三十代前半の若い夫婦だった。夫の拓也は都内のIT企業に勤めるエンジニアで、完全リモートワークを機に京都への移住を決めたという。妻の真奈美はフリーランスのグラフィックデザイナー。二人とも肌触りの良さそうな上質なリネンの服を身にまとい、これから始まる新しい生活への無垢な希望で瞳を輝かせていた。真奈美の腕の中では、生後四ヶ月になる男の子がすやすやと眠り息を立てている。

「もちろん可能ですよ」

海斗は穏やかな笑みを浮かべ、バインダーに挟んだ平面図に鉛筆の先を走らせながら答えた。

「ただ、この町家の構造上、北側の床下は湿気がこもりやすい環境にあります。既存の根太を生かして無垢材を敷くのであれば、しっかりとした防湿シートと通気層を設けた上で、調湿性に優れた国産の杉や檜をお勧めします。合板フローリングに比べれば定期的なオイルメンテナンスの手間はかかりますが、五年、十年と経つうちに木肌の色が深まり、何より冬場の足触りの温かさがまるで違ってきますから」

「なるほど……やっぱりプロに相談してよかった。子供がハイハイするようになったら、肌に触れるものはできるだけ自然で、温かみのある素材にしてあげたいねって、ずっと二人で話していたんです」

真奈美が夫を見上げ、拓也もまた愛おしそうに妻の肩に手を添える。二人の間に流れる空気は、まるで春の陽だまりのように柔らかく、疑いようのない親密さに満ちていた。

「それから、間取りなんですけど……子供部屋は将来的に二つに仕切れるようにしたいんです。まだ一人目ですけど、もしもう一人授かった時のことを考えておきたくて」

「キッチンは対面式のオープンタイプにして、料理をしながらでもリビングで遊ぶ子供の様子が自然と視界に入るようにしたいですね。家族がどこにいても、お互いの気配を感じられるような家にしたいんです」

二人の熱心な言葉の端々に、これから紡がれるはずの幸福な家族の物語が滲んでいた。海斗は相槌を打ちながら、彼らの抽象的な希望を、壁の厚みや柱の位置、動線の寸法といった現実的な図面へと落とし込んでいく。

京町家は、建具一枚で空間を開閉し、季節や家族の変化を受け止めてきた。固定された箱ではなく、暮らす人に合わせて呼吸する家。その柔軟さを現代の生活へつなぐことが、海斗の仕事だった。

町家改修を専門とする一級建築士である海斗の仕事は、単に古い建物を綺麗にすることではない。依頼主が心の中に抱いている「未来の幸福のイメージ」を丁寧に聞き取り、それを物理的な空間という形に翻訳する作業だ。壁を取り払い、光と風の通り道を整え、家族が互いに心地よい距離を保ちながら暮らせる動線を引く。これまで何十組もの家族の門出を見送り、その新しい暮らしの土台を作ってきた。海斗にとって、それは誇りある天職だった。

だが、他人の未来の設計図をどれほど鮮やかに描き出すことができても、彼自身の人生の設計図は、三年前に修復不可能なほど粉々に破綻したまま放置されていた。

「宮沢さん、この柱って抜くことはできないんですよね?」

拓也の問いかけに、海斗はふと我に返った。

「ええ。この大黒柱は建物の構造を支える要ですから、抜くことはできません。ですが、この柱をあえてリビングのシンボルとして見せつつ、周囲に可動式の木製ルーバーを取り付ければ、空間を完全に遮断することなく、程よい独立感と開放感を両立させることができます。家族の成長やライフスタイルの変化に合わせて、自由に間取りの表情を変えられるように設計しましょう」

「柔軟に対応できる間取り……すごくいいですね。私たちの暮らしに寄り添ってくれている感じがします」

夫婦の満足げな笑顔を見届けながら、海斗は小さく頭を下げた。彼の提案は、常に現実的で、機能性を最優先にしていた。そこに余計な感傷や個人的な感情を差し挟む余地はない。それがプロフェッショナルとしての彼の流儀であり、同時に、自分自身の過去から目を逸らすための強固な防壁でもあった。

二時間に及ぶ打ち合わせを終え、図面と採寸メモを革のブリーフケースに収めて町家を出ると、初夏の強い西日が海斗の視界を容赦なく射抜いた。烏丸通りのアスファルトから立ち上る微かな熱気の中を歩きながら、海斗はポケットの中で震え続けていたスマートフォンを取り出した。画面をタップすると、元妻である千春からのメッセージが表示される。

『今週末、悠真のことお願いね。土曜日の午前十時に烏丸御池の駅改札前で。スイミングのバッグと着替え持たせてます。月曜日に熱を出したから、冷たいものはあまり食べさせないようにして』

事務連絡以外の何物でもない、必要最小限の文字の羅列。海斗は『了解しました。体調のことも気をつけて見ておきます。楽しみにしています』とだけ打ち込み、送信ボタンを押した。 悠真は七歳の小学一年生で、離婚後は千春と暮らしている。海斗は原則として隔週末を息子と過ごしていた。

千春と離婚したのは三年前の初秋だった。海斗が独立した事務所を軌道に乗せようと仕事へ没頭する一方、食品メーカーに勤める千春は、復職後の仕事と育児を一人で抱え込んでいった。長男の悠真が生まれる前に語り合った『自立した夫婦』という理想は、助けを求められない二人を縛る言葉に変わっていた。会話は減り、やがて生活上の用件を付箋で伝えるだけになった。

「もっと悠真と過ごす時間を作れないの? あなたにとって、仕事と家族のどっちが大切なの?」

「俺だって好きで遅くまで働いてるわけじゃない。家族が不自由なく暮らせるように必死なんだよ」

「不自由なく暮らすって何? 私が欲しいのはお金じゃなくて、一緒に子育てをしてくれる夫なの!」

互いに自分の正しさを主張し、相手の疲労を想像する余裕を失っていた。休日に海斗が料理を作っても、片付けまで引き受ける発想はなかった。夜中に悠真が泣いても、千春の視線を恐れて隣室で耳を塞いだ。そのたびに、自分は家族のために働いているのだと言い聞かせた。

どちらかが浮気をしたわけでも、金銭トラブルのような決定的な背信行為があったわけでもない。ただ、互いが「自分自身の生き方」を守ろうと頑なに殻に閉じこもる中で、相手の手をもう一度握り直すための気力と優しさが、完全に擦り切れてしまったのだ。

ある冬の凍てつく夜、熱を出して泣き叫ぶ悠真を抱きながら、千春が虚ろな目で呟いた言葉が、今でも耳の奥にこびりついている。

「海斗さん……もう、私たちが一緒にいる意味って、何なんだろうね」

その涙を見たとき、海斗は何も言い返すことができなかった。引き止める資格も、二人を修復するための設計図も、彼の中には何一つ残っていなかった。

離婚届を提出した日の昼、区役所の近くの蕎麦屋で二人で食べたざる蕎麦の味を、海斗はまったく覚えていない。ただ、店を出て「それじゃあ」と別々の方向へ歩き出した千春の後ろ姿が、驚くほど小さく、そしてどこか解放されたように見えたことだけが、胸の奥深くに鈍い棘として刺さっていた。

海斗が一人で暮らしているのは、西陣の低層マンションだった。玄関には磨かれた革靴が一足、飾り棚には建築書と白磁の壺が等間隔に並ぶ。家族と暮らしていた頃の玩具も、千春のマグカップもない。生活の乱れを消し去った部屋には、誰の気配も残っていなかった。

海斗は冷奴と焼き鳥を容器のままテーブルへ置き、缶ビールを開けた。食事は十分もかからなかった。窓の向こうでは、別の家族が夕食を囲んでいる。失って初めて、あの雑然とした暮らしが、どれほど脆い均衡の上に成り立っていたのかを思い知った。

「……修復、か」

海斗は自嘲気味に呟いた。

古い家なら、傷んだ場所を見つけて補強できる。けれど人の感情には図面も正解もない。海斗は他人の暮らしを整えるたび、自分が壊した家庭のことを思った。

部屋の静けさに耐えかねた海斗は、薄手のサマーウールのジャケットを羽織り、財布と鍵だけを持って外へ出た。

夜の帳が下りた京の街を、あてもなく歩く。堀川通を南へ下り、四条通を東へ折れると、祇園の入り口へと差し掛かった。昼間の喧騒が嘘のように引き潮となった花見小路の石畳は、夕暮れ時に撒かれた打ち水の湿り気を帯びて、軒先の提灯の淡い朱色を艶やかに反射していた。千本格子の奥から、かすかに漏れ聞こえる客の談笑と、お座敷へ向かう舞妓のぽっくり下駄の乾いた音。

もう二度と、誰かと深く関わって互いを擦り減らしたくない。それでも、一人きりの部屋へ戻るたび、誰かと心を通わせたいという願いが消えていないことを思い知らされた。相反する感情を抱えたまま、海斗は夜の花見小路を歩き続けた。


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