第一話:帰還、そして新たな火種
ヘパイストス・ファウンドリの重く淀んだ大気を後にした瞬間。
陸の五感を包んだのは、懐かしいアルカディア・ネクサスの混沌とした匂いだった。
無数のスパイス。
人々の汗。
そして微かな欲望の香り。
惑星渡りは完璧だった。
もはや陸にとって、一度座標をインプットした場所への跳躍は、息を吸って吐くのと同じくらい自然な行為になっていた。
リラの隠れ家の隠し扉を開け、中に転がり込むように入った瞬間。
二人の全身から、同時に力が抜けた。
「……帰ってきた」
陸は誰に言うでもなく、そう呟いた。
そのまま床にへたり込み、壁に背を預ける。
リラも同じだった。
彼女は部屋の中央にあるソファに、まるで糸が切れた人形のように倒れ込んだ。
二人とも、ヘパイストス・ファウンドリで身にまとった灰色の防護服のままだ。
服のあちこちは焼け焦げ、あるいは引き裂かれ、ザインとの、そしてクロノス・オーダーとの激闘の痕跡を生々しく残している。
だが、今はそんなことを気にする気力もなかった。
ただ、生きている。
そして無事に、この場所に帰ってこられた。
その事実だけが麻薬のように、疲労しきった心身に染み渡っていく。
陸は目を閉じた。
脳裏に蘇るのは、ザインの六本の刃の軌跡。
クロノス・オーダーのドローンが放つ、無慈悲なレーザーの光。
そしてリラが口にした、不気味な予言。
『星渡りの異邦人』。
すべてが、まだ現実感を伴わない悪夢のようだった。
だが、それは紛れもない現実だ。
自分たちは巨大な陰謀の渦中に、足を踏み入れてしまった。
「……陸」
不意に、ソファの方からリラの声がした。
陸が目を開けると、彼女は深く身を沈めたまま天井を見上げている。
「怪我はないか。一応、メディカルチェックをしておく」
「……ああ。大したことはない。掠り傷だけだ。あんたは?」
「私も、問題ない」
その会話はひどくぎこちなかった。
だが、そのぎこちなさの中に、以前には決してなかった種類の感情が含まれていることに、陸は気づいていた。
気遣い。
そうだ。俺たちは互いを気遣っている。
単なる契約関係でも、利害の一致でもない。
共に死線を乗り越えた者にしか分からない、確かな繋がり。
陸は、自分がこの雑然とした機械だらけの隠れ家を、いつの間にか帰るべき「家」のように感じ始めていることに気づき、少し照れくさいような気持ちになった。
「……少し休んだら、今回の情報を整理する」
リラはゆっくり身体を起こすと、コンソールへ向かった。
「ザインという傭兵。クロノス・オーダーの戦力。……そして奴らの目的。調べるべきことは山積みだ」
彼女はもう、いつもの情報屋の顔に戻っていた。
その切り替えの速さには、もはや感心するしかない。
リラはいくつかのモニターを立ち上げ、凄まじい速度でキーボードを叩き始めた。
ヘパイストス・ファウンドリで記録したドローンの残骸のデータ。
ザインのスキルチップに関する過去の目撃情報。
そして「クロノス・オーダー」というキーワードで、銀河ネットワークの深層を検索していく。
陸はそんな彼女の背中を、しばらく黙って見ていた。
そしておもむろに立ち上がると、部屋の片隅にある簡易キッチンへ向かった。
数本の栄養バーをマグカップに絞り出し、精製水を加えてかき混ぜる。
それを加熱器にかけ、温め始めた。
出来上がったのは、見た目はひどい灰色の粥のような何か。
だが、冷たいペースト状のまま食べるよりは、いくらかマシなはずだった。
陸はマグカップを二つ持って、リラの元へ戻る。
そしてその一つを、彼女のコンソールの脇にことりと置いた。
リラはモニターから目を離さずに言った。
「……なんだ、これは」
「スープみたいなものだ。温かいものを食った方がいいだろ」
リラは一瞬、キーボードを打つ手を止めた。
ちらりとマグカップに目を落とし、すぐにモニターへ視線を戻す。
「……余計なことを」
声はいつものように冷たかった。
だが、陸には分かった。
彼女の耳が、また少しだけ赤くなっている。
陸は何も言わず、自分のマットへ戻った。
温かい栄養スープをゆっくりすする。
ひどい味だ。
だが不思議と、身体の芯から温まっていくような気がした。
新たな火種は、確かに燻り始めている。
クロノス・オーダーという巨大な影。
そして、自分に向けられた予言。
これからさらに危険な戦いに巻き込まれていくのだろう。
だが、今はいい。
今は、この束の間の平穏を味わっていたかった。
この奇妙で、そしてかけがえのない相棒と共に。




