第74話 踏み出す一手
フェルトハイムの朝は、静かだった。
だがその静けさは、落ち着きではない。嵐の前のような、張り詰めた沈黙だった。市場は開いているが声は少なく、人々の動きもどこか慎重になっている。町はまだ動いている。だが、確実に変わってしまった。
金獅子亭の中でも、その変化ははっきりしていた。
客はいる。だが長居はしない。視線も、言葉も、どこか距離がある。レオはその空気を受け止めながら、静かに席に座っていた。
ミレイが隣に立つ。
「……どうしますか」
レオは少し考え、ゆっくり答えた。
「待っても、戻らない」
短い言葉だったが、そこに迷いはなかった。
◇ ◇ ◇
議事館。
三国の代表が揃う中、レオははっきりと言った。
「動きます」
セルゲイが腕を組む。
「証拠か」
「はい」
アシュレイは興味深そうに目を細めた。
「海商ギルドに踏み込む気ですか」
レオは頷く。
「このままでは、町が壊れる。疑いを消すには、証明するしかない」
セルゲイは一瞬黙り、やがて言った。
「危険だ」
「分かっています」
「だが」
レオは続ける。
「もう、後がない」
その言葉で、空気が変わった。
アシュレイが小さく笑う。
「いいでしょう。公国も協力する」
セルゲイも頷いた。
「連邦も動く。ただし条件がある」
「何ですか」
「単独行動はするな」
レオは即答した。
「分かりました」
これで三国は、初めて同じ方向を向いた。
◇ ◇ ◇
フェルトハイムの外れ。
古い倉庫が並ぶ一角。
エドワードが地図を広げる。
「ここです。表向きは交易倉庫ですが、実際は海商ギルドの拠点の一つです」
ガレスが低く言う。
「いよいよか」
レオはその建物を見つめた。
ここに、すべての起点がある。
「行く」
短く言う。
兵が配置につく。連邦と公国の兵も加わり、包囲は静かに完成していく。
◇ ◇ ◇
突入は、一瞬だった。
扉が破られ、兵がなだれ込む。中にいた男たちは抵抗しようとするが、数で圧倒される。
レオは中へ踏み込んだ。
倉庫の奥、机の上には書類が散らばっている。交易記録、資金の流れ、そして——武装集団への支払い記録。
エドワードがそれを手に取る。
「……確定です」
レオは静かに頷いた。
証拠は、あった。
だがそのとき、奥の扉が開く。
黒い外套の男が、ゆっくりと姿を現した。
◇ ◇ ◇
「ずいぶん早かったな」
男は笑う。
「影の王子」
その声は落ち着いていた。まるで、すべてを見越していたかのように。
レオは男を見据える。
「終わりだ」
「いいや」
男は首を振る。
「始まりだ」
その言葉と同時に、奥で火の手が上がった。
◇ ◇ ◇
炎が一気に広がる。
書類が燃える。
証拠が、消えていく。
「逃がすな!」
ガレスが叫ぶが、男はすでに後退していた。
煙が視界を奪う。
熱が迫る。
兵たちは消火と撤退に動かざるを得ない。
◇ ◇ ◇
外に出たとき、倉庫はすでに炎に包まれていた。
レオは振り返る。
中にあったはずの証拠は、ほとんどが焼かれている。
エドワードが歯を食いしばる。
「……一部は確保できましたが、決定打には足りません」
レオは静かに目を閉じた。
あと一歩だった。
◇ ◇ ◇
遠く、建物の陰。
黒い外套の男は、その様子を見ていた。
「惜しかったな」
低く笑う。
「だが、これでいい」
炎に包まれる倉庫を見つめながら、呟く。
「証拠は消えた。疑いは残る」
そして静かに言った。
「次は、お前が壊れる番だ」
◇ ◇ ◇
夜。
金獅子亭に戻ったレオは、しばらく何も言わなかった。
ミレイがそっと近づく。
「……どうでしたか」
レオはゆっくり答えた。
「証拠はあった。でも——消された」
ミレイの顔が曇る。
レオは窓の外を見た。
フェルトハイムの灯りは、まだそこにある。
だがその下で、信頼は崩れたままだ。
「もう一手必要だ」
静かに言う。
「今度は、逃がさない」
その声には、はっきりとした決意が宿っていた。
均衡は揺らぎ、戦いは次の段階へ進む。
物語は、反撃の局面へと踏み込んだ。




