第2話 秘密は、甘く重くて。
「ミレイってば、本当に昨日レオン様を見なかったの!?」
翌朝、マリアおばあさんの工房で、ミレイは質問攻めにあっていた。
「見てません……森に薬草を採りに行ってたので」
「もったいない! あんな美しい方、二度と見られないかもしれないのに!」
おばあさんは大げさに嘆いてみせる。
「でも、まあいいわ。今日もレオン様は村にいらっしゃるそうよ。二日間の視察ですって」
「そうなんですか……」
ミレイは、上の空で返事をした。
頭の中は、レオのことでいっぱいだった。
今日も来てくれるだろうか。
また、会えるだろうか。
「ミレイ、聞いてる?」
「あ、はい! すみません!」
「まったく……。ほら、今日はこの薬草を乾燥させる作業よ。間違えないでね」
「はい……」
ミレイは、籠いっぱいの薬草を受け取った。
でも、心はもう——森へ飛んでいた。
◇ ◇ ◇
昼過ぎ。
ミレイは、こっそりと工房を抜け出した。
「お昼休憩」と言って出てきたけれど、本当の目的は——。
森。
もしかしたら、レオが来ているかもしれない。
胸が高鳴る。
走るように、森の小道を進む。
そして、あの泉に辿り着くと——。
「ミレイ!」
いた。
レオが、泉のほとりに座っていた。
今日は、薄い青のシャツ。髪は少し乱れていて、でもそれがまた——とても似合っている。
「レオさん!」
ミレイは、嬉しさのあまり駆け寄った。
「本当に、来てくれたんですね!」
「当たり前じゃん。約束したもん」
レオは、満面の笑みを浮かべた。
「僕、朝からここで待ってたんだよ。ミレイが来るかなって」
「朝から……!?」
「うん。だって、早く会いたかったから」
さらりと、そんなことを言う。
ミレイの頬が、熱くなった。
「あ、あの……そんな風に言われると、その……」
「恥ずかしい?」
「……はい」
「可愛い」
ドクン。
心臓が、跳ねた。
「か、可愛いって……」
「だって、本当に可愛いんだもん。ミレイが照れてる顔、すごく好き」
レオは、屈託なく笑う。
ああ、この人——本当に、何の計算もなく言ってる。
だから、余計にドキドキする。
「ねえ、ミレイ。座ろうよ」
レオが、泉のほとりの草むらに座る。
ミレイも、その隣に腰を下ろした。
少しだけ、距離がある。
でも——。
「もっと近くに来て」
レオが、そっと手を伸ばしてきた。
「え……」
「ダメ?」
紫紺の瞳が、じっとミレイを見つめる。
どこか、不安そうな色を湛えている。
「ダメじゃ……ないです」
ミレイは、少しだけレオに近づいた。
肩が、触れるくらいの距離。
「ありがとう」
レオは、嬉しそうに微笑んだ。
それから、空を見上げる。
「ねえ、ミレイ」
「はい」
「僕ね、ここに来ると——本当に、ほっとするんだ」
「ほっと……?」
「うん。何もかもから解放される感じ。重荷を全部下ろせる感じ」
レオは、目を細めた。
「君といると、僕——自分でいられる」
「自分で……」
「うん。作らない自分。演技しない自分」
演技。
その言葉が、ミレイの心に引っかかった。
「レオさんって……普段は、演技してるんですか?」
「……うん」
レオは、小さく頷いた。
「毎日、演技してる。朝起きてから夜寝るまで、ずっと」
「それって……辛くないですか?」
「辛いよ。すっごく辛い」
あっさりと認める。
「でも、やめられない。やめたら——全部が崩れちゃうから」
「全部……?」
「僕の立場。僕の役割。みんなの期待」
レオは、少し苦笑した。
「僕はね、完璧でいなきゃいけないんだ。完璧な笑顔。完璧な言葉。完璧な振る舞い。一つでも間違えたら——」
そこで、言葉を切る。
「……怖いことになる」
「怖いこと……?」
ミレイは、不安になった。
レオは、何かに怯えている。
「ごめん。暗い話しちゃった」
レオは、首を振った。
「せっかく会えたのに、こんな話——」
「いいんです」
ミレイは、レオの手に、そっと自分の手を重ねた。
「私、レオさんの話、聞きたいです。辛いことも、苦しいことも——全部」
レオは、目を見開いた。
「……ミレイ」
「だって、レオさん——ずっと一人で抱えてたんでしょう?」
ミレイは、真っ直ぐにレオを見た。
「誰にも言えないこと。誰にも見せられない顔。それを、ずっと一人で——」
ぎゅっ。
レオが、ミレイの手を握りしめた。
「……ありがとう」
掠れた声だった。
「僕、初めてかもしれない。こんな風に、受け止めてもらえるの」
「レオさん……」
「ずっと、一人だった。誰も、本当の僕を見てくれなかった。みんな、完璧な僕しか見ない。作られた僕しか、愛してくれない」
レオの声が、震えている。
「でも、君は——違う。君は、僕を見てくれる。ありのままの、情けない僕を」
「情けなくなんか、ないです」
ミレイは、強く首を横に振った。
「レオさんは、すごく頑張ってる。毎日、演技して、完璧でいて——それって、とても大変なことです」
「ミレイ……」
「だから——」
ミレイは、レオの手を両手で包んだ。
「ここでは、全部下ろしてください。重荷も、仮面も、全部。私が、受け止めますから」
その瞬間。
レオの目から、一筋の涙が零れた。
「……っ」
レオは、慌てて目元を拭う。
「ごめん。男が泣くなんて、かっこ悪いよね」
「そんなことないです」
ミレイは、優しく微笑んだ。
「泣きたいときは、泣いていいんです」
「……ミレイ」
レオは、もう一度ミレイの手を握った。
今度は、もっと強く。
「僕ね——」
「はい」
「君に、会えて本当によかった」
その言葉に、ミレイの胸が温かくなった。
「私も……です」
二人は、しばらく無言で手を繋いでいた。
風が、穏やかに吹く。
木々が、優しく揺れる。
ああ、この時間が——ずっと続けばいいのに。
ミレイは、そう思った。
◇ ◇ ◇
それから、二人はたくさん話をした。
レオは、自分の日常について語った。
朝は早くから起きて、身だしなみを完璧に整えること。
食事の席でも、常に姿勢を正していること。
会議では、常に的確な意見を求められること。
人前では、一度も笑顔を崩してはいけないこと。
「疲れるでしょう……?」
「うん。めちゃくちゃ疲れる」
レオは、苦笑した。
「でもね、それが僕の——」
言いかけて、また口を閉じる。
ミレイは、それ以上聞かなかった。
きっと、まだ言えない何かがある。
それでいい。
焦らなくていい。
「ねえ、ミレイ」
「はい?」
「君は、どんな毎日を過ごしてるの?」
レオが、興味深そうに聞いてきた。
「私、ですか……?」
「うん。聞きたい。君のこと、もっと知りたい」
真っ直ぐな眼差し。
ミレイは、少し恥ずかしくなった。
「私の日常なんて、つまらないですよ……」
「そんなことない。僕にとっては、すごく興味深い」
レオは、身を乗り出してくる。
「ねえ、教えて?」
「……分かりました」
ミレイは、自分の日常を語り始めた。
朝は早くから起きて、井戸で水を汲むこと。
工房で薬草の勉強をすること。でも、いつも失敗すること。
村人たちに「落ちこぼれ」と言われること。
それでも、マリアおばあさんだけは優しくしてくれること。
「……本当に、何の取り柄もない毎日です」
ミレイは、小さく笑った。
でも——。
「素敵だね」
レオが、そう言った。
「え……?」
「君の毎日、すごく素敵だ」
レオは、優しく微笑む。
「自分のペースで、自分のやり方で生きている。誰かの期待に応えるためじゃなくて、自分のために頑張っている」
「でも、失敗ばかりで……」
「失敗してもいいじゃん」
レオは、ミレイの頭に手を置いた。
「失敗できるって、幸せなことだよ。僕は——失敗が許されないから」
「レオさん……」
「だから、僕——君が羨ましい」
その言葉に、ミレイは胸が痛んだ。
完璧でいなければならない。
失敗が許されない。
そんな人生——どれだけ辛いだろう。
「ねえ、レオさん」
「うん?」
「ここでは、いっぱい失敗していいんですよ」
ミレイは、にっこりと笑った。
「私、レオさんがどんなに失敗しても、笑ったりしませんから」
「……ミレイ」
「だから——」
ミレイは、レオの手を握った。
「ここでは、完璧じゃなくていいんです」
その言葉に、レオの目がまた潤んだ。
「……ありがとう」
掠れた声。
「僕、君に——」
言いかけて、レオは言葉を飲み込んだ。
それから——。
ぎゅっと、ミレイを抱きしめた。
「えっ……!?」
「ごめん。ちょっとだけ」
レオの声が、耳元で響く。
「ちょっとだけ、こうさせて」
温かい。
レオの体温が、ミレイに伝わってくる。
心臓の音が、聞こえる気がする。
ドクドクドクドク。
自分の心臓なのか、レオの心臓なのか——もう分からない。
「……レオさん」
「うん」
「私……」
何を言おうとしているのか、自分でも分からなかった。
ただ、この温もりが——とても心地よくて。
離れたくないと、思った。
でも。
「ごめん、もう行かなきゃ」
レオは、名残惜しそうに体を離した。
「もう、こんな時間……」
空を見上げる。太陽が、だいぶ傾いている。
「あ、私も……工房に戻らないと」
「そっか」
レオは、寂しそうに笑った。
「また、明日も来ていい?」
「はい。待ってます」
「本当?」
「本当です」
「よかった」
レオは、ほっとしたように息をついた。
それから——。
「ねえ、ミレイ」
「はい?」
「僕、君のこと——」
言いかけて、また止まる。
レオは、少し迷うような表情を見せた。
「……ううん、やっぱりまだいい」
「レオさん?」
「また明日、話すよ。約束」
そう言って、レオは立ち上がった。
「じゃあね、ミレイ。また明日」
「はい。気をつけて」
レオは、手を振りながら森の奥へと消えて行った。
ミレイは、その背中が見えなくなるまで——ずっと見送っていた。
「……また、会いたい」
ぽつりと呟く。
胸の奥が、じんわりと温かい。
これは——何だろう。
この気持ちは、一体——。
「……恋、なのかな」
小さく呟いた言葉は、誰にも届かない。
でも、ミレイの心には——確かに、何かが芽生え始めていた。
◇ ◇ ◇
その頃、ノルン村の迎賓館では。
レオン王子が、村の有力者たちと会談を終えたところだった。
「本日は、誠にありがとうございました」
村長が深々と頭を下げる。
「いえいえ。有意義な時間でした」
レオンは、完璧な笑顔で応えた。
その表情は、一分の隙もない。
「では、明日もよろしくお願いいたします」
「はい。楽しみにしております」
村長たちが退出する。
扉が閉まる。
その瞬間——。
レオンの表情が、崩れた。
「はぁ……」
深いため息。
完璧な笑顔が消え、疲労の色が浮かぶ。
「お疲れ様です、殿下」
側近の青年——ユリウスが、声をかけてきた。
「うん……」
レオンは、椅子に座り込んだ。
「今日も、完璧でしたよ。村人たちは皆、殿下に魅了されていました」
「そう」
レオンは、興味なさそうに返事をした。
「……殿下?」
「ねえ、ユリウス」
「はい」
「僕って——いつまでこの演技を続けなきゃいけないんだろうね」
その言葉に、ユリウスは表情を曇らせた。
「殿下……」
「疲れた。もう、疲れたよ」
レオンは、頭を抱えた。
「完璧な王子。完璧な笑顔。完璧な言葉。全部、演技だ。全部、嘘だ」
「殿下……」
「本当の僕は——こんなんじゃないのに」
レオンの声が、震える。
ユリウスは、何も言えなかった。
知っている。
レオン殿下が、どれほどの重荷を背負っているかを。
どれほどの苦しみを、抱えているかを。
でも——それを、誰にも言えない。
それが、王族の宿命だから。
「……でも」
レオンが、ふっと笑った。
「今日は、少しだけ——楽しかったな」
「え?」
「うん。ちょっとだけ、息抜きできたから」
レオンは、窓の外を見た。
森の方角を。
(ミレイ……)
心の中で、名前を呼ぶ。
(君に会えて、本当によかった)
(君がいるから——まだ、頑張れる)
レオンは、胸に手を当てた。
温かい。
ミレイと過ごした時間が、まだ胸の中に残っている。
「明日も、会いに行こう」
小さく呟いた。
ユリウスは、その様子を黙って見ていた。
殿下の表情が、少しだけ——柔らかくなっている。
まるで、何かに救われたような顔。
(一体、何があったんだろう……)
ユリウスは、不思議に思った。
でも、聞くことはしなかった。
きっと、殿下には——殿下だけの、秘密がある。
それを、守ってあげるのが——自分の役目だから。
◇ ◇ ◇
こうして、二人の秘密の時間は——少しずつ、深くなっていく。
まだ、ミレイは知らない。
レオが、誰なのかを。
でも、いつか——真実を知る日が来る。
そのとき、二人の関係は——どう変わるのだろうか。




