第194話 王の密室
レオは建国王の織物へ静かに手を掛けた。厚い布を横へ払うと、その裏には予想どおり石壁が現れた。だが、ただの壁ではない。左右の石とわずかに色が異なっている。長年この城で暮らしてきた者でなければ、決して気づかないほどの違いだった。
「隠し扉ですね」
リアムが近寄り、壁に顔を寄せるようにして観察する。
「しかも、かなり精巧です」
ガレスが壁を軽く叩いた。コン、コン、と乾いた音が返る。何度か場所を変えて叩くうちに、その音の変化に気づいたのか、彼は眉を寄せた。
「向こうは空洞だ。それも、そう浅くはない」
レオは壁の縁を指でなぞっていく。目で見ただけでは分からない継ぎ目を、指先の感触だけで探る。冷たい石の表面を這わせていくと、細い溝に触れた。指先はそのまま溝をたどり、やがてぴたりと止まる。
「ありました」
石の彫刻に紛れるように、小さなくぼみが一つだけあった。装飾の一部のように見えるが、よく見ると人為的に穿たれた跡がある。
「鍵穴ではありません」
エレナが覗き込みながら言う。
「何かを差し込む仕掛けでしょうか」
レオは懐から金属札を取り出した。第三保管庫で見つけた、『17-4-3』と刻まれた銀色の札である。あの日、埃をかぶった棚の奥からこれを見つけたときは、ただの記録用の札だと思っていた。まさかこんな場所で使うことになるとは、誰も想像していなかっただろう。
「試してみます」
札をくぼみへ当てる。形がぴたりと合った。まるで最初からこの場所のために作られたかのように、寸分の狂いもなく収まる。
その瞬間、カチッ、と壁の奥で小さな音が響いた。
「開きます!」
リアムが声を上げる。重い石壁がゆっくりと横へ滑り始めた。軋むような低い音とともに、長い年月、誰にも知られなかった隠し部屋が姿を現す。舞い上がった埃が、差し込むわずかな光の中で白く揺れた。
◇ ◇ ◇
中は意外にも狭かった。十人も入ればいっぱいになるほどの広さしかない。中央には一脚の机が置かれ、壁際には本棚が並んでいる。そして、窓は一つもなかった。
「密室……」
エレナが呟く。声が小さな部屋の壁に反響して、妙に大きく聞こえた。
「歴代の王が使っていたのでしょうか」
グレイストーンは静かに部屋を見回した。長年、王宮の内情に通じてきた彼の目にも、この空間は初めて映るものだったらしい。
「私はこの部屋の存在を知らなかった」
彼はそう言ってから、しばらく黙り込んだ。そして、絞り出すように付け加える。
「王直属だった私でも、だ」
その言葉が、この部屋の秘匿性を何よりも雄弁に物語っていた。王に最も近い場所にいた人間ですら知らなかった部屋。それがここに、確かに存在している。
机の上には何もない。埃さえも薄く積もっているだけで、長い間誰も触れていないことが分かる。しかし本棚には、数冊だけ本が残されていた。
レオは慎重に一冊を取り上げる。政治史。軍事記録。王国法典。一見すると、どこにでもありそうな普通の書物ばかりだった。だが、それがかえって不自然だった。これほど厳重に隠された部屋に、ただの資料が置かれているだけとは思えない。
「違います」
リアムが一冊を手に取り、両手でその重さを確かめるようにする。
「この本だけ重さが違います」
革表紙を開く。ページは途中まで本物だった。文字も印刷も、他の本と変わらない。だが中央部分だけが四角くくり抜かれ、小さな箱になっている。まるで本そのものが、秘密を守るための器として作られたかのようだった。
「隠し箱です」
◇ ◇ ◇
箱の中には一枚の羊皮紙が入っていた。レオは慎重にそれを広げる。古い紙特有の乾いた匂いが漂った。
そこに描かれていたのは家系図だった。王家。公爵家。侯爵家。有力貴族の血筋が一本の線で結ばれ、複雑に枝分かれしながら現在まで続いている。
「系譜図ですね」
エレナが線をたどりながら言う。
「ですが……」
レオの視線が、ある一点で止まった。何度も目をこすり、見間違いではないことを確かめる。
「一つだけ、おかしい」
系譜図の隅。現国王エドリックへ続く正統な系統とは別に、細い赤線が一本引かれていた。他の家系とは明らかに違う筆致で、まるで後から書き加えられたかのように浮いている。その先には、名前がなかった。ただ、
――監察。
とだけ記されている。
「監察家系……?」
ガレスが首をかしげた。長年、貴族社会の内情に詳しい彼でさえ、聞いたことのない名だった。
「そんな貴族は聞いたことがない」
「私もです」
エレナも困惑した表情を浮かべる。彼女の記憶にある限りの貴族名鑑にも、そのような家名は存在しなかった。
沈黙が部屋を満たす。誰もが同じ疑問を抱いていた。王家の系譜に、なぜ名前のない家系が記されているのか。しかも赤線という、明らかに他とは異なる扱いで。
◇ ◇ ◇
その時だった。リアムが本棚の最下段を調べながら声を上げた。
「レオ様」
「こちらにも何かあります」
本棚の奥、石壁に小さな金属板が埋め込まれている。指を掛けて引き出してみると、それは薄い銅板だった。表面には文字が刻まれている。短い文章。それだけだった。だが、その短さゆえに、かえって不気味な重みを感じさせた。
レオは静かに読み上げる。
「――監察局は王に仕える組織ではない」
全員の動きが止まった。誰も呼吸すら忘れたかのように、その場に立ち尽くす。
さらに続きがあった。
「――監察局が仕えるのは、王国そのものである」
誰も言葉を発しなかった。王ではなく、王国。たった一文字、いや一語の違いに過ぎない。だが、その意味はまったく違う。王に仕えるのであれば、王が誰であろうと従うべき対象は明確だ。しかし王国そのものに仕えるというのなら、時には王その人が、監察局にとっての排除すべき対象になり得るということだ。
グレイストーンがゆっくりと息を吐いた。長い沈黙の後、絞り出すように言葉を紡ぐ。
「だから歴代の王にも知らされなかった秘密があったのか……」
彼の声には、驚きだけでなく、どこか納得したような響きも混じっていた。長年、王宮に仕えてきた中で感じていた小さな違和感の数々が、この一枚の銅板によって、ようやく一つの形を成したのかもしれない。
レオは銅板を見つめたまま考え込む。もし監察局が特定の王ではなく、王国そのものへ忠誠を誓う組織なのだとしたら。十七年前、彼らが監視していたという「王宮内部の人物」は、必ずしも王である必要はない。むしろ――。
「王国そのものを脅かす存在だった」
レオが静かに呟いた、その時。
部屋の入口から微かな風が吹き込んだ。全員が振り返る。誰もいないはずの通路に、一枚の白い紙が舞い落ちていた。まるで今、この瞬間に誰かがそっと置いていったかのように。
紙は音もなく床に着地し、それきり動かない。誰もその紙に触れようとしなかった。ただ、部屋に満ちていた沈黙だけが、いっそう深くなっていった。
ガレスが真っ先に我に返り、剣の柄に手をかけながら通路の奥へ視線を走らせる。だが、そこには誰の姿もなかった。灯りの届かない闇が、ただ静かに横たわっているだけだ。
「誰かが……見ていたということですか」
リアムの声は、わずかに震えていた。長年この城で剣を振るってきた彼にとっても、姿の見えない相手というのは、剣で斬りつけられるよりも厄介な相手なのかもしれない。
「あるいは、見せられている、というべきかもしれません」
エレナが低く言った。彼女は白い紙を見つめたまま、動こうとしない。
「わざとらしい、と思いませんか。これほど都合よく、私たちがこの部屋の秘密に辿り着いた直後に現れる紙など」
その言葉に、レオは思わず銅板から視線を上げた。エレナの指摘は的を射ている。監察局という言葉を目にした直後、まるで見計らったかのようにこの紙が現れた。偶然にしては、あまりにも出来過ぎている。
グレイストーンが慎重に歩み寄り、紙の前でしゃがみ込んだ。だが、すぐには手を伸ばさない。
「罠である可能性も、考えねばならん」
「ですが、確かめなければ何も始まりません」
レオはそう言うと、銅板を懐へしまい、自ら紙のそばへと近づいた。指先で紙の端に触れる。ただの紙であるように思われた。焦げた跡も、妙な匂いも、仕掛けを疑わせるようなものは何も見当たらない。
それでも、レオの手はわずかに緊張していた。この部屋に足を踏み入れてから、次々と明らかになる真実の重みが、まだ肩にのしかかったままだったからだ。
王家の系譜。名も無き監察の血筋。そして、王にではなく王国にこそ忠誠を誓うという、常識を覆す組織の存在。その全てを踏まえた上で、この一枚の紙が意味するものは何なのか。
レオは静かに紙を拾い上げた。全員の視線が、その手元に集まる。




