第0話 プロローグ―森で拾ったのは、運命でした。
「ああ、また私、やっちゃった」
ミレイは薬草籠を抱えたまま、膝をついた。
籠の中身は、見事にぐちゃぐちゃ。セージとタイムとローズマリーが、もはや見分けがつかないほど混ざり合っている。村の薬師見習いとして三年目なのに、未だに薬草の選別ができない。いや、できないというより——覚えられない。
「ミレイはほんとうに、何をやってもダメね」
朝、村長の娘に言われた言葉が、耳の奥でリフレインする。
その通りだ。料理は焦がす。洗濯物は色移りさせる。畑仕事は雑草と作物を間違える。刺繍は糸が絡まる。何をやっても、どうしようもなく、中途半端で、不器用で——落ちこぼれ。
十九歳になっても、村で一人前と認められることがない。
「はぁ……」
深いため息と共に、ミレイは森の奥へ足を進めた。
セントラル王国の辺境、ノルン村。ここは王都から馬車で二日ほどかかる、地図の端っこみたいな場所だ。森は深く、獣も出る。だから村人たちは、決して森の奥へは入らない。
でも、ミレイは違う。
森の奥にしか生えていない薬草がある。それを採ってくれば、少なくとも薬師のおばあさんは喜んでくれる。村で唯一、自分を認めてくれる人だから——その人だけには、期待を裏切りたくなかった。
木々の隙間から、午後の陽が差し込む。
鳥の声。風の音。葉擦れの響き。
ミレイは、この静けさが好きだった。誰にも責められない。誰とも比べられない。ただ自分だけが、ここにいる。
「——あれ?」
ふと、視界の端に、不自然な色が映った。
金色。
この森には存在しないはずの、眩しいほどの金色。
ミレイは息を呑んで、その方向へ駆け寄った。
倒れていたのは、人間だった。
青年——いや、少年と呼ぶべきか。二十歳前後だろうか。その髪は、陽光を溶かし込んだような、透き通る金髪。整った顔立ちは、まるで彫刻のよう。白いシャツは泥にまみれ、呼吸は浅い。
「ちょ、ちょっと! 大丈夫ですか!?」
ミレイは慌てて膝をつき、青年の額に手を当てた。
熱い。かなりの高熱だ。
「こんな森の奥で……どうして……」
見れば、青年の服には細かな刺繍が施されている。質の良い布地。貴族、あるいはそれ以上の——。
でも、考えている場合じゃない。
ミレイは薬草籠を置き、青年の体を抱き起こそうとした。
「——っ、重い……!」
非力なミレイには、成人男性の体重は厳しい。それでも、必死に腕を回し、引きずるようにして移動させる。
森の中に、小さな泉がある。そこまで連れて行けば、少なくとも水で冷やせる。
息を切らしながら、ミレイは青年を泉のほとりまで運んだ。
「よし……っ」
持っていた布を泉に浸し、青年の額に当てる。それから、懐から小さな瓶を取り出した。薬師のおばあさんから貰った、解熱の薬草エキス。
「飲んでください……お願い……」
青年の唇に瓶を当て、少しずつ流し込む。
ごくり、と喉が動いた。
「よかった……」
ミレイは安堵のため息をついた。
それから、改めて青年の顔を見つめる。
こんな美しい人、見たことがない。村には若い男たちもいるけれど、誰一人としてこんな——まるで、絵画の中から抜け出してきたような、非現実的な美しさを持つ人はいなかった。
「誰なんだろう……」
ぽつりと呟いたとき。
ぱちり。
青年の瞼が、開いた。
深い、紫紺の瞳。
ミレイと、目が合った。
「……あ」
言葉が、出ない。
青年は、しばらくミレイを見つめていた。焦点が定まらない目で、ゆっくりと周囲を確認する。それから——。
「……ここは?」
掠れた声だった。
「も、森です! セントラル王国の、ノルン村の近くの……」
「……そう」
青年は、小さく息をついた。それから、ミレイの顔をじっと見つめる。
「……君が、助けてくれたの?」
「あ、はい! 倒れていたので……」
「ありがとう」
そう言って、青年は微かに笑った。
その笑顔は——どこか、悲しそうだった。
「……僕、もう疲れちゃって」
ぽつりと、青年が呟いた。
「え?」
「完璧でいるの、疲れちゃった」
「完璧……?」
意味が分からない。ミレイは首を傾げた。
青年は、また小さく笑う。今度は、どこか自嘲的な響きがあった。
「ごめん。変なこと言った。熱のせいかな」
「大丈夫ですか? まだ熱が……」
「うん。でも、不思議」
青年は、ミレイの目をまっすぐ見つめた。
「君の顔を見てたら、なんだか——安心する」
どくん。
ミレイの心臓が、大きく跳ねた。
「あ、あの……」
「君の名前は?」
「ミレイです。」
「ミレイ」
青年は、その名を反復するように呟いた。まるで、大切なものを確かめるように。
「いい名前だね。僕は——」
そこで、青年は言葉を切った。
少し迷うような表情を見せてから、ふっと笑う。
「——レオって呼んで。本当の名前は、まだ秘密」
「レオ……さん?」
「うん。レオでいい」
それから、青年——レオは、ゆっくりと体を起こした。まだふらついているけれど、意識ははっきりしている。
「ありがとう、ミレイ。君に助けられて……本当によかった」
「いえ、そんな……私、何も特別なことは……」
「特別だよ」
レオは、真っ直ぐにミレイを見た。
「君は、特別だ」
ドクドクドクドク。
心臓が、うるさいくらいに鳴っている。
「あの、レオさんは、どうしてこんな森の奥に……?」
「……逃げてきたんだ」
「逃げて?」
「うん。息が詰まる場所から」
レオは、空を見上げた。木々の隙間から見える、青い空。
「あそこでは、僕は僕じゃいられない。完璧な王子様でいなきゃいけない。笑顔も、言葉も、仕草も、全部計算して。間違えちゃいけない。失敗しちゃいけない。みんなの期待に応えなきゃいけない」
「王子様……?」
ミレイは、目を丸くした。
レオは、くすりと笑う。
「比喩だよ。でも、まあ——似たようなものかな」
それから、彼はミレイの手を、そっと握った。
「ねえ、ミレイ」
「は、はい」
「また、会える?」
紫紺の瞳が、ミレイを映している。
「僕、君にまた会いたい。君といると、僕——本当の自分でいられる気がするから」
「本当の……自分……?」
「うん。作らなくていい自分」
レオの手は、温かかった。
熱があるせいだけじゃない。何か、もっと別の温度が——そこにあった。
「会えますよ」
ミレイは、気づけばそう答えていた。
「本当に?」
「はい。私、よくここに薬草を採りに来るので」
「じゃあ、また来る。必ず」
レオは、嬉しそうに笑った。
その笑顔は、さっきまでの悲しげな表情とは違う。まるで子どものように、無邪気で——。
——ああ、この人は。
ミレイは、ぼんやりと思った。
何か、とても大きなものを抱えている。
でも、それが何なのか。この時のミレイには、まだ分からなかった。
分からないまま——ただ、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
「気をつけて帰ってくださいね」
「うん。ありがとう、ミレイ」
レオは立ち上がり、森の奥へと歩いて行った。
金色の髪が、木漏れ日の中で揺れる。
ミレイは、その背中が見えなくなるまで、ずっと見送っていた。
「……また、会えるかな」
呟いた声は、誰にも届かない。
でも——。
不思議と、胸の中に確信があった。
絶対に、また会える。
そして、その予感は正しかった。
ただし、次に会ったときの彼は——ミレイの想像を、遥かに超える存在だったのだけれど。
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それは、落ちこぼれ村娘と、完璧王子の——運命が交わる、最初の瞬間だった。




