場面16:フロンティアの宿
市場での騒動の後、厳ついドワーフの男性――どうやら冒険者ギルドの支部長らしい(名前はゴードン)――が去ると、猫娘ミミはこちらに向き直り、にぱっと屈託なく笑いかけた。
……いや、屈託ないのは外面だけか。
俺は深いため息をつき、呆れ顔でミミを見下ろす。
「なあ、ちょっといいか?」
「にゃ? なあに? ミミ様に何か用なのだ?」
小首を傾げる仕草は確かに愛らしいが、こっちはそれどころじゃない。
俺は無言で、彼女が先ほど財布を隠したポーチを指差した。
「……それ、見せてもらっても?」
「え? な、何のことかにゃ……?」
ミミの顔から、さっと血の気が引く。尻尾が不安げに揺れ、緑色の瞳が泳ぎ始めた。明らかに動揺している。
「さっき、あの商人にぶつかった時……財布、掏っただろ? 俺も、アリアも見てたぞ」
「うんうん、ばっちりHD画質で記録済みだよー」
アリアが追い打ちをかけるように付け加える。
「ひっ……!?」
ミミは短い悲鳴を上げると、観念したのか、あるいはパニックになったのか、その場にへなへなと座り込んでしまった。
大きな瞳にはみるみる涙が溜まっていく。
「ふえぇぇ……! ご、ごめんなさいなのだ! わざとじゃない、いや、わざとだけど……! 出来心で……! もうしませんから! だから、衛兵には言わないでほしいにゃ……!」
必死に手を合わせて謝ってくる。さっきまでの威勢はどこへやら、完全に借りてきた猫状態だ。
「お願い! 何でもするから! 石拾いでも、肩揉みでも、何でもするから見逃してくだせぇ……!」
そこまで必死に懇願されると、なんだかこっちが悪者になった気分だ。いや、悪いのは完全にこいつなんだが。
「ほ、ほら……! あの、も、もしかして……その……多少エッチなことでもOKだから……///」
「要らんわ!!」
俺は思わず全力でツッコミを入れていた。
「貴様! 反省しているのかと思えば……!」
フェリシアさんが呆れ果てた様子でミミに詰め寄ろうとするのを、俺は手で制した。
「まあまあ、フェリシアさん。落ち着いて。……ミミ、だったか? とりあえず、立て」
「は、はいぃ……」
ミミは涙を袖で拭いながら、おずおずと立ち上がる。俺は差し出された財布を受け取ると、中身を改めずに懐にしまった。
「財布は、まあ……色々理由をつけて俺が代わりにあの商人に返しておく。お前は反省すること。いいな?」
「う、うん……!」
「ただ、この街は俺たちも初めてなんだ。土地勘もないし、どこに宿屋があるかも分からない」
俺はわざとらしく辺りを見回しながら言った。
「そこで相談なんだが……俺たちが宿を見つけて、この街に慣れるまで、案内役をしてくれないか? もちろん、その間の食事と寝床くらいは保証する」
これが一番穏便な落とし所だろう。このまま放り出すのは後味が悪いし、何より、彼女の俊敏さや感覚の鋭さは、もしかしたら役に立つかもしれない。それに、監視下に置いておけば、また財布を掏るようなこともないはずだ。……たぶん。
俺の提案に、ミミはきょとんとした顔で俺を見上げた。涙はまだ乾いていない。
「……案内役? それだけで、見逃しくれる……?」
「ああ。その代わり、ちゃんと仕事はしてもらうぞ。あと、二度とスリはするな。約束だ」
俺が念を押すと、ミミの顔がぱあっと明るくなった。さっきまでの涙はどこへやら、満面の笑みだ。切り替えが早すぎる。
「ほんと!? やったー! 任せるのだ! このミミ様に案内できない場所なんて、フロンティアにはないんだから!」
(……本当かよ)
一抹の不安を覚えつつも、俺は苦笑するしかなかった。
こうして、俺たち一行――俺とセラ、フェリシアさん、アリア、そして案内役となったミミ――は、改めて宿探しを開始した。
◇◆◇
「ここだ。『風見鶏の宿』」
ミミの(意外にも的確な)案内に従い、フェリシアさんも知っているという宿屋にたどり着いた。
大通りから少しだけ脇道に入った場所にひっそりと佇む、古いが手入れの行き届いた木造二階建ての建物。屋根の上では、ブリキ製の風見鶏が夕暮れの風を受けてカラカラと回っている。
漂ってくるシチューか何かの良い匂いが、森での過酷なサバイバルと街の喧騒で疲れた心と体に優しく染み渡るようだ。
カラン、とドアベルを鳴らして中へ入る。
「あら、いらっしゃ……まあ! フェリシアちゃんじゃないの!」
年季の入った木のカウンターの奥から、人の良さそうな、恰幅の良い中年女性が、白いエプロンで手を拭きながら顔を出した。ウェーブのかかった茶色の髪を後ろでまとめ、目尻には人の良さそうな皺が刻まれている。彼女がここの女将のアンナさんらしい。
「久しぶりね! しばらく顔を見せないから心配してたのよ。……あらあら、また随分と騒がしそうな子たちを連れてきて。今度はどんな騒ぎに巻き込まれたのかしら?」
アンナさんは、俺たち――特にボロボロのセラと、元気だけが取り柄のようなミミ――を交互に見ながら、悪戯っぽく笑って言った。フェリシアさんとは旧知の仲なのだろう。その口調には親しみがこもっている。
「アンナさん、世話になる。部屋は空いているか?」
フェリシアさんは、アンナさんの軽口を軽く受け流しながら尋ねる。
「ええ、ちょうど角部屋が空いたところよ。すぐに用意するわ。で、この子たちは?」
アンナさんの興味深そうな視線が、俺たちパーティ(仮)に向けられる。
「はじめまして、ユウです。こっちはセラと……ミミ。この子たちと、ひとまずパーティを組むことになりまして……。フロンティアには、少し調べたいことがあって来たんです」
俺は当たり障りのないように自己紹介する。
セラの事情や俺のスキルについて、ここで詳しく話すわけにはいかない。アンナさんは俺の言葉に深く詮索する様子もなく、「そう、大変ねぇ」と頷き、すぐに部屋の鍵を用意してくれた。
「さあ、長旅でお疲れでしょう。ゆっくり休んでいってね」
案内された部屋は、二階の角部屋だった。
広くはないが、質素ながらも清潔に掃除が行き届いており、磨かれた木の床や、窓辺に飾られた花に、この宿の丁寧な仕事ぶりが窺える。
木の温もりが感じられる落ち着いた空間だ。外の喧騒が嘘のように静かで、ようやく安全な場所に辿り着けたという安堵感がこみ上げてくる。
「やったー! ベッドふかふか! ミミ、ここに住みたいのだ!」
部屋に入るなり、ミミはベッドに飛び乗り、子供のようにぴょんぴょんと跳ね始めた。さっきまでの騒動など忘れたかのように元気いっぱいだ。本当に切り替えが早い……というか、単純なのかもしれない。
「こらミミ! ベッドを壊す気か! 少しは大人しくしろ!」
フェリシアさんが、呆れたように、しかしどこか面倒見の良い姉のような口調で叱る。
一方、セラは部屋の隅にある小さな木製の椅子に静かに腰を下ろすと、どこから取り出したのか、古びた小さな本を黙々と読み始めた。ようやく落ち着ける場所を見つけて、少しだけ安心したのかもしれない。その横顔は、まだ幼さが残るものの、どこか神秘的で、知的な雰囲気を漂わせている。
フェリシアさんは、自分の荷物を手早く解き始め、手入れの行き届いた剣や鎧を壁際の棚に機能的に整理し始めた。その手際の良さは、さすが元騎士といったところか。
「仮パーティ結成! 剣士にエルフっ子に猫娘、それに超絶美少女AIアリア様! なかなか面白そうなメンバーじゃん! これから楽しみー!」
アリアだけが、俺の肩の上で能天気に(そして自画自賛しつつ)はしゃいでいる。こいつが一番この状況を楽しんでいるのは間違いないだろう。
やがて夕食の時間になり、俺たちは一階の食堂へと降りた。
食堂には、俺たちの他にも数組の客がいた。無骨な装備の冒険者風の男たちや、身なりの良い商人らしい夫婦など、様々だ。彼らも、俺たちの奇妙な組み合わせに、ちらちらと視線を送ってくる。まあ、目立つのは仕方ない。
アンナさんが運んできてくれたのは、大きな深皿にたっぷりと盛られた、湯気の立つ温かいビーフシチューと、バスケットに入った焼きたての香ばしい黒パン、それに彩りの良い温野菜のサラダだった。
特別な料理ではないが、いかにも心のこもった家庭料理といった感じで、長旅とサバイバル生活で疲れた胃袋には最高の馳走に見えた。
「さあさあ、遠慮しないでたくさんお食べ。旅で疲れたでしょう。おかわりもたくさんあるからね!」
アンナさんの優しい言葉に、俺たちは「いただきます」と手を合わせる。
「美味しい! これ、すっごく美味しいのだ! おかわり!」
ミミは出された途端、目を輝かせてシチューにがっつき始めた。あっという間に皿を空にし、アンナさんにおかわりをねだっている。その食べっぷりは、見ていて気持ちがいいほどだ。
「こらミミ、はしたないぞ! 少しは落ち着いて食べろ!」
フェリシアさんが呆れたように叱るが、そのフェリシアさん自身も、頬をわずかに赤らめながら、満足げにシチューを口に運んでいる。昼間の腹ペコ事件を思い出すと、なんだか微笑ましい。よかったですね、美味しいご飯にありつけて。
セラも、最初は警戒していたのか、ゆっくりとしたペースだったが、一口食べるとその優しい味に安心したのか、少しずつ食べる速度が上がっていった。
俺も久しぶりのまともな、そして温かい食事に舌鼓を打つ。森で食べたあの絶望的に不味いキノコとは比べ物にならない。じっくり煮込まれた肉と野菜の旨味が凝縮されたシチューが、冷えた体にじんわりと染み渡っていく……。
美味しい食事と温かい宿。ようやく人心地がついた気がした。フロンティアに来て、本当に良かった。
◇◆◇
食事が一段落し、アンナさんが笑顔で食器を片付けてくれている間、俺は改めてフェリシアさんとミミに向き直った。今後のことを、きちんと話しておく必要がある。
「フェリシアさん、ミミ。改めてお願いがあるんだ」
俺が真剣な口調で切り出すと、食事の満足感に浸っていた二人は、少し驚いたようにこちらを見た。
「昼間も少し話したけど……俺たちは、この街の近くにある『月光の祭壇跡』というダンジョンへ行って、『月光の涙』というアイテムを探す必要があるんだ。セラのために、どうしても」
俺はセラの方へ視線を送る。セラも真剣な表情でこちらを見つめ返し、小さく頷いた。彼女の瞳には、ダンジョン攻略への不安と、それ以上に強い希望の色が浮かんでいる。
「それで、二人には悪いんだが……そのダンジョンを攻略するまで、期間限定でいい。俺たちに力を貸してくれないだろうか? もちろん、報酬は成功したら必ず用意する。約束する」
俺は頭を下げて頼み込んだ。彼女たちの実力は未知数な部分もあるが、今の俺たちにとって、協力者は一人でも多い方がいい。
フェリシアさんは腕を組み、しばらく黙って考えていたが、やがてふん、と鼻を鳴らした。その視線は、ちらりとセラの方へ向けられたような気がした。
「ふん、話は聞いた。まあ、貴様たちのその奇妙な力にも興味はあるし、このエルフの小娘も放ってはおけんな。……仕方ない、そのダンジョンとやらをクリアするまでだ。付き合ってやる」
彼女はぶっきらぼうに、しかしはっきりと承諾してくれた。
「ただし! 報酬はきっちり貰うからな! 安く買い叩こうなどと思うなよ!」
(……そこはしっかりしてるんだな……)
まあ、当然か。依頼には対価が必要だ。俺は苦笑しながら頷く。
「ああ、もちろんだ。約束する。じゃあ、ミミはどうだ?」
俺が隣のミミに視線を向けると、彼女は大きな緑色の目をキラキラさせて身を乗り出してきた。どうやら、彼女の興味は別の方向に向いたらしい。
「ダンジョン! お宝! 面白そう!」
……そっちか。まあ、分かりやすくていいけど。
「いいよ! ミミ様が手伝ってやるのだ! その代わり、毎日美味しいご飯、食べさせてくれるならね!」
報酬が単純すぎる気もするが、まあいいだろう。今は頭数が多い方がいい。それに、昼間の身のこなしを見る限り、何か特殊な能力を持っているのかもしれない。
「ああ、分かった。食事は保証する。よろしく頼むよ、ミミ」
「やったー!」
こうして、俺たちは女剣士フェリシアと、猫娘ミミという、非常に個性的な仲間を、期間限定ではあるが得ることができた。
まずはフロンティアでの拠点と、仮ではあるがパーティメンバーが揃った。
ここから、俺たちの異世界での反撃……いや、まずは生存と目的達成のための活動が、本格的に始まるのだ。