其之壱話 私……死んじゃうの?
【纏物語 プロローグ】
私が子どもの頃、どこからともなく『声』が聞こえてくる時があった。それは掠れた声だったり、低い声だったり時には囁くような声だったり。最初の頃はこの声を気味悪がっていたけど、私はこの『声』に何度も命を助けてもらっていた。
初めてその声に助けられたのは小学校2年生の頃。学校から一人で帰っている時『舞美!』と後ろから大きな声が。私が立ち止まり振り向いた瞬間、その何秒後に通るはずだった道の横の壁が崩れ倒れてきた。そのまま歩いていたら私は間違いなく下敷きになっていただろう。また別の日には横断歩道を渡ろうとしているとまた後ろから『舞美!』と声が聞こえた。私が立ち止まった次の瞬間、信号を無視したトラックが物凄いスピードで目の前を走り抜けていった。その後も私は幾度となくその不思議な『声』に助けてもらっている。
でも『私にだけ聞こえる』その『声』の事は……誰にも言えなかった。両親にすら内緒にしていた。何故かって? それは家族にこの声の事を言ったら優しいお母さん、お父さんは逆に私の事をすごく心配するんじゃないかって思ったから。もし友達に言ったら変な目で見られたり、その事を怖がられたりするに違いない……。だから怖くて誰にも言えなかった。一人で悩んでいた時もあったけど、何時しかその声は聞こえなくなった。そして、そんな不思議な『声』が聞こえていた事も……大きくなるにつれ……いつの間にか忘れてしまっていた。
【序章其之壱 バイクの男】
定時で仕事が終わり帰宅の用意をしている男(29才、独身、1人暮らし、会社員)
その日、男は逸る気持ちを抑える事に死力を尽くしていた。その理由はこの後40分後の18時、行きつけのパチンコ店が
〈新台入れ替え! 本日18時オープン!〉
する為である。
男は、この日が待ち遠しくて堪らなかった。
何度も時計を確認し、昼休みには、昼食を取りながらこっそりお目当ての台の動画をYouTubeでチェック。同席している同僚の話など上の空だった。ちなみにこの男、自分が『パチンカー』という事は、誰にも公言していない。なぜなら社内での評判を気にしているからである。
男は、バイクで通勤していた。其れは排気量125㏄のスクーター。マフラーが改造されており、かなり五月蠅い。
そして終業時間になり、男はさり気なくノートパソコンを閉じ、ゆっくりとデスクから立ち上がり誰とも目を合わせず
「お先します……」
とだけ言い残しオフィスを退出した。
会社からパチンコ店までこの時間に出てもバイクで約30分。現在17時20分なので余裕で間に合う。男は腕時計を見ながら薄ら笑みを浮かべた。
駐輪場へ向かう最短のルートを鼻歌交じりで行く男。搬入用エレベーターで降り普段は出入りする事がない非常口から出るとバイクが置いてある駐輪場は目の前だった。
黒いヘルメットを被り、黒いグローブを着け、バイクに跨りキーを取り出そうと胸のポケットに手を突っ込む。
しかしそこにあるはずのバイクのキーが……ない。いつも入れているはずのライダースジャケットの胸ポケットに鍵が入っていない……。グローブを外しもう一度よく確認するがやはり……ない。その時、男は『あぁぁっ!』と声を出し何かを思い出した。
今日の朝の出来事だった。
それは、出社して着替えている時の事である。
ロッカーのハンガーにジャケットを掛け扉を閉めると、閉めたロッカーの中から『カシャン』と何かが落ちる音が聞こえた。『なんの音だ?』と思い再びロッカーの扉を開けると何故かジャケットのポケットに入れたはずのバイクの鍵が下に落ちていた。
『何故?』と疑問に思いながらも鍵を拾い、再びジャケットのポケットに入れようとしていると、ロッカー室に慌てた様子の同僚が飛び込んできた。どうやら今日の午後に行われる会議のプレゼンの事で自分ではどうする事も出来ず男に泣きついてきたらしい。
その話の内容は、少しややこしい事例だった。同僚は、男に資料を見せながら早口で説明を始めた。その時、話を聞きながら、鍵をロッカーの棚に放り投げた事をすっかり忘れていた。
ロッカー室は、オフィスがある6階にあった。
『クソッ!』
そう小さく呟きつつ、ヘルメットを脱ぐと足早に6階へと急いだ。普通に行けば5分ほどで元の駐輪場まで帰ってこられるのだが其の日はちょっと勝手が違った。
まず
〈帰宅途中の上司につかまり飲みの誘いを軟らしく断るのに7分〉
〈ロッカー室の電気が何故かスイッチを入れても付かず、手探りでロッカーの場所に行きロッカーの鍵をリュックから出してロッカーを開け、バイクのキーを取るまで7分〉
〈1階まで降りていたエレベーターを6階まで呼び戻して下に降りるまで4分〉
結局バイクのキーを取って帰ってくるまで18分もかかってしまった。
『くそっ! あの高瀬(上司)の奴につかまらなければっ!』
そう呟きつつバイクに跨り腕時計を見るとすでに17時39分、キーを差し込みエンジンをかけると同時にアクセルを一気に開ける。
『ブアァァァァァァンン!!』
爆音を上げ弾丸のように加速するバイク。
(18時開店に間に合わない!)
男は焦っていた。
会社を出て細い道から大通りへ出る。
大通りは帰宅ラッシュのため渋滞していたが男は、車の間を右へ左へすり抜けていく。明らかに危険な運転だ。
止まっている車の間を縫うようにすり抜け、前方が開けたらアクセルを一気に開ける。
もうこの時点で、どんなに急いでも18時開店には到底間に合いそうになかった。
しかし男は、何かに取り憑かれたように更にアクセルを開け、スピードを上げる。
【序章其之弐 舞美】
ごく普通の高校生、名前は舞美。
時刻は17時21分、いつもならば部活動でまだ学校にいる時間だった。
しかし今日は、何年も部活を休んだ事がない顧問の先生が都合で練習に来られなくなった為、急遽部活動が休みになった。だから珍しくこの時間に帰宅していた。
台所では母親が夕食の献立で悩んでいた。肉か魚か……悩んだ結果、今日の献立はガラカブの煮付けに決めた。
鳥の唐揚げと悩んでいたが何故か『魚』という文字が頭に浮かび急遽、献立を変える事になった。
手際よく魚をさばき大根、椎茸、生姜を刻み、大きめの煮炊き用の鍋を用意している時にある事に気づいた
『しまった!煮物用のみりんがない!』
もうすでに材料もさばき終わり、あとは一緒に煮込むだけだったのに……母親は考えた。
『ふぅぅぅ……ここでメニューを変える訳にはいかないしなぁ……買いに行くの面倒くさい!』
一息つき、どうしようかと悩んでいると、ふとリビングでゴロゴロと寝転び、お菓子をポリポリ食べながらTVアニメを見ている舞美の姿が目に入ってきた。
その姿に少々イラっとした母親は、舞美にみりんを買ってきてもらう事を考えた。
母親が声を掛ける。
『舞美、ちょっとお使い頼まれてくれない?』
そう声を掛けると。
『今忙しい』
そう返す舞美。しかしその返し方に益々イラっとした母親は。
『それ、録画でしょ!? 帰ってからでも見れるじゃない!』
母親は、少々怒り気味に言い返した。面倒くさがり屋の舞美は、このピンチを中学生の弟に押し付けようとしたがタイミングが悪かった。弟は昨日、自転車のタイヤがパンクしてしまい、その修理に自転車屋に行っているらしい。
『えぇぇ……仕方がないなぁ』
そう言いつつもようやく観念した舞美。
せっかく滅多にない部活動の休みなのにお使い頼まれるなんてと気持ちは一気に落ち込んだ。
しかしグズグズ言っていても仕方がない、すぐに気持ちを切り替え『よしっ』と立ち上がった舞美。
一番近いスーパーまで家から歩いて10分少々。自転車で行っても良かったが時間もあるし、天気も良いから歩いて行こうと動きやすいジャージに着替えた。
母親からお金とエコバッグを受け取り家を出る。ふと時計を見ると17時55分、日暮れが近いのか辺りは徐々に薄暗くなりかけていた。でも近くのスーパーまでちょっと急ぎ足で行けば明るいうちに帰ってこれると思いながら家を出た。少し肌寒かったが不思議と足取りは軽かった。
『みりんっ! みりんっ! お菓子! お菓子!』
舞美は、歌いながら家を出た。
【序章其之参 終話】
男が目指しているパチンコ店はもう目の前だった。
しかし最後の右折をする交差点の2つ手前の信号が、二か所同時に赤信号に変わった。
それに気づいた男はすぐさま目前の交差点を左折し脇道に入った。ここをすぐに右折し、この道を真っ直ぐ突き当たりの交差点を渡るとパチンコ店に接する大通りに出る抜け道だった。
しかし脇道は車線のない住宅街を通る道。車が離合できるくらいの広さはあったが両脇に高い塀と背の高い植木が続き見通しはかなり悪い。
そういう状況でも男はライトを上に向け、更にアクセルを開ける。すると前方の横断歩道だけの交差点の先にある交差点の信号が青に変わった。それを目視で確認した男はその青信号に間に合うよう、更にアクセルを開け、スピードを上げる。
爆音が住宅街に響き渡る。
スピード警告灯の赤いランプはずっと付きっぱなし。信号のある交差点の手前に『前方に横断歩道あり』の標識があるにもかかわらず男はスピードを落とさない。
すると男は前方、右上の壁の上に『キラッ』と光る何かに一瞬、ほんの一瞬気を取られた。それは、ヘッドライトに照らされて光る猫の眼球だった。
それに気を取られた男は、左から舞美が横断歩道を渡っているのに気付くのが遅れてしまった。
男が舞美に気付いた時には、もう遅かった……猛烈なスピードが出ていたバイクに止まる術はない。
男のバイクは、ほぼブレーキを効かせない状態で舞美と激突した。
真横から跳ね飛ばされてしまった舞美は空中を舞い、地面に叩きつけられ、その後何十メートルも転がり壁に激しくぶつかってようやく止まった。
舞美にとっては、一瞬の出来事だったので自分に何が起こったのか、何故自分が地面に横たわっているのか全く理解できなかった。起き上がろうにも体が動かない。
しかし横たわる自分の視線の先に壊れて煙を上げながら倒れているバイクを見て『あぁ私はこのバイクに撥ねられたんだ』とようやく理解した。不思議と体の痛みは感じなかったが眠たくなるような感覚が舞美を襲う。
薄れていく意識の中、舞美の視線の中にゆっくりとこっちに近づいてくる人が見えた。視界に入ったのは、バイクに乗っていた男だった。男は、首と腕から血が滴り落ち、黒いライダーズジャケットは、ボロボロで黒いパンツも裂けてボロボロだった。
黒いヘルメットをかぶったまま、男は舞美の傍に歩み寄り、見下ろしていた。その男を見た舞美は
(バイクの人……助かったんだ……よかった……)
そう思った時、男の体が水に溶かした墨のような真っ黒い煙に包まれ、もがき苦しみながら消えていくのを見た。その後舞美は、意識を失った。
そして榊市で一番設備が整った榊市地域医療センターに瀕死の状態で運ばれてきたのは、この物語の主人公、舞美こと東城舞美。偶然と偶然が重なり、起きるべくして起きた悲しい事故。しかし舞美は何故事故に遭わなければいけなかったのか? 『纏物語』は今ここから始まる。
次回予告……
舞美は、母親の隣にゆっくりと降り立ち、母の両肩に手を添え弱々しく震える背中に頬をあて、言った。
「悪くない……お母さんは、悪くないよ……。そんなに自分を責めないで……お母さん…………」
自分は、死んでしまう、家族を悲しませてしまう、しかしどうする事もできない。声を出して泣いても、語りかけても返事は帰ってこないし、自分の声は皆んなには聞こえない……。
「お母さん泣かないで……。みんな……泣かないで……」
お父さんも弟も泣いている。舞美は、立ち上がりゆっくり後ろへ下がり呟いた。
「じゃあ……私……いくね。さようなら……お母さん……お父さん……恭ちゃん……」
次回……
『其之弐話 私は舞美! クリィミ―舞美!(なんちゃって)』
ご一読よろしくお願い致します
つばき春花