君への届けもの
姿が見えないからといって
勝手な見下しステータス
張り付けないでください
ひとの内には自己のルールにもとずく
無意識の働きかけが起こるのです
そこには沢山の
「まちがい」と「迷い」が交差しています
社会のルールやマナーの大半は
自分じゃなく他人によってすでに決められています
自己のルールとちがう部分の対応には
わたしたちの大事な心に少しずつ負担がかかってきます
ちいさな子供の胸にもあるかもしれない事なのだ
なにをもっての「まちがい」か
それはその負担からくるひとの痛みからではないでしょうか
だからそこに回復の兆しとなれる
調和のためのルールを呈するのがみんなの社会では?
されど
過ぎたる行いが後を絶たず
それらを侵すのです その時…
それを「まちがい」と ひとはわたしたちに進言するのです
はて? どちらの事でしょうか
過ぎたる行いの方ですか
それとも
他者が決めてしまったルールの方ですか
たしかにひとは己の「まちがい」におのずと気づく事もできます
それをじっと待ってあげられるのなら
この世界はどんなに思いやりに溢れた微笑ましい楽園でしょうかと
「まちがい」に気づくまで待っていたら
だれの心の痛みも回復には向かわず
負担は増していくばかりです
ほんとうにそれは思いやりと言えましょうか
みんなの大事な心にかかる負担
その自己犠牲のできるひとの心持ちこそが尊いのだから
けなしたり見下したりしても傷が広がるばかりです
まちがい(なにが) ひとの痛み(どこに) 気づく(いつ)
自分の痛み(なぜ) 考え(だれが) 見つめ直す(なんのため)
また気づく
痛み抱えながら 後戻りできない
貴重な時でもあると知るのです
だが
それに気づかせてくれるのは
他者の存在 だれかの面影ではないでしょうか
顔の見えるひと 見えないだれか
いわれのない中傷の根元には
いわれのない嫉妬が根付いている
それは「まちがい」ではなく
毒気なのです
「人の痛み」と「自分の痛み」の未来には後悔が生まれたりする
後悔は反省を生む
反省を知らぬと「気づく」に届かない
自分がなにをしなくとも
どこかのだれかが犠牲になってくれるだろう
日本人は働きアリのように良く働くと海外で大評判ですからね(ひにく)
「ひとは元来、小宇宙にたとえられ。その心の深層は迷路にたとえられた」
どのルートがひとびとの望むゴールへの近道なのか
和解への近道一人ひとり違うかもしれない
もしも最短ルートがあったなら
世界中の人という人の思考が攻略しつくされてしまう
そこに届いてしまえば あとは崩壊しかないのでは……
「その答えは、人と自分のこころの迷路をさまよって
はじめて出てくるもの」ではないでしょうか
ゆたかなお心持ちのまだ見ぬ ちいさなあなたにも
届けばいいな




