再会は時計のない部屋で
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古臭い紙の匂いが部屋に立ち込めていた。部屋の中には、何やら不思議な機械がいくつかと、数式が書き込まれ真っ白になった黒板。そして紙が、紙がひたすら散らばっていた。何処に足を置けばよいのか全く分からず、そして、どうやってこの部屋の中で生活を行うのかも分からなかった。
あと、暖房も何もないから寒い。
「まぁ、散らかっているが、適当に入ってくれていい。地面に散らばっているものは不要なものだから、踏みしめてくれていい」
部屋の主である星井がそういうものだから、割り切って部屋に踏み入る。記念すべき第一歩は、『時間超越のために』と銘打たれた、論文のタイトルページであった。星井の、おそらく人類史に残るだろう研究の成果は、無残にも地に放られ、凡人に踏みつぶされた。
「何をそんなに不愉快そうに……あぁ、なるほど。この紙達か。安心して良い、というよりも気にする必要はない。そんなもの、思想を書き写しただけの写本に過ぎない。原本は別にある。そもそもアーカイブ化された後なんだ。それは燃料にするか、ちり紙にでもするぐらいの価値しかない」
星井はそう言って、何の躊躇いもなく自らの努力と知啓の結晶を、文字通り足蹴にした。ワタシはなんとなく、後ろめたさや行儀の悪さを感じながら、星井に倣って紙の海を歩いた。
「ん、まぁ、座ってくれ」
椅子へ促される。その脚も相変わらず紙を踏みしめていた。
椅子に腰かけると、ミシリと嫌な音が鳴り、不満を伝えてくる。主人に似て、失礼な奴だなと思いながら、少しだけ腰を浮かせ、体重をかけないようにした。
「なんで、そんな変な姿勢を。ああ、安心しろ。君が体重をかけたくらいで壊れる椅子ではない。普段は60 kg はあろうかというものも載せているくらいなんだから」
「あぁ、そうですかっ。じゃあお言葉に甘えますねっ」
やっぱり、星井は『シツレイ』な奴であった。
ミシリ。椅子、御前もだ。
「……それで? 星井は何でワタシを呼んだの、今さらこんなところまで」
「あぁ、そのことをまだ話していなかったな」
言いながら星井は、いつの間に淹れたのか、珈琲を差し出してきた。それは、星井にしては珍しく、かわいらしい黒猫の模様が入ったマグカップに入っている。いつか、どこかで、だれかが贈ったものであった。
ワタシはそのマグカップを複雑な気持ちで受け取った。星井の心などは一度も読めたことはなかったが、今回ばかりは理解の糸口を掴むことも出来なかった。
「篠崎、君は前に言っていただろう。『過去に戻ってやり直したいことがどうしても一つだけある』と。その思いに決着をつけさせてやろうと思ってな」星井はそこで、珈琲を啜った。顔を顰めているところを見るに砂糖の量を間違えたのだろう。彼はそうやって、甘くなり過ぎた珈琲を嫌そうに飲むのだ。
「決着? なに、タイムマシンでも作ったの?」
「あぁ、作った。まだ公表はしていないが」
星井はさらりと。
「作ったって、そんな、本当に?」
「あぁ、作ったぞ。試運転も済ませてある。過去に戻れた。未来は行ってないから分からないが、おそらく行ける。帰ることも可能だ」
星井は立ち上がると、部屋の隅に設置された機械の前に立った。随分と小さかった。
「まさか、それがタイムマシン?」
声が震えていた。
驚きと、そして笑いが半分。
「本当だ。私が嘘をつかないことは篠崎、君が一番知っているはずだ」星井が、こちらを見る。目が笑っていなかった。あの日と同じ。
「そんな、でも、そんな。ということは、えっと」
「君の思っている通りでいい。このタイムマシンで、過去に戻ったらいい。そこで君は君の後悔に決着を着けるんだ」
星井は、珍しく熱のこもった声で。
それに何を返したらよいのか分からなかった。
「でも、さ。過去を変えてしまって大丈夫なの? その、ほら蝶の羽ばたきで竜巻が、タイムパラドックスなんでしょ?」
「大丈夫だ。時間軸のズレやバタフライエフェクトなんてものは、絶対に起こらない。安心して良い」
「そう? でも」
「大丈夫だ。私を信じてくれ」
星井がどうしてここまで熱心なのか分からなかった。七年前に会ったときは、周囲に関心を失ったようになってしまっていた彼。今の彼は、イメージとは離れた姿だった。
でも。けれど。
「……分かった。星井を信じる」
「そうか。ありがとう」星井は、安心したように笑った。久しぶりにその笑顔を見て、思いがけず想影がよみがえった。
「それで篠崎、もう飛べるがどうする?」
「え……まぁ、決心が鈍るとあれだし、もう飛ぼう、かな?」
「そうか。それではこちらに来てくれ」星井はそうして、機械をいじり始めた。感傷にも浸らせてはくれないその性急さは、星井らしいと言えば、らしかった。
「篠崎? はやくこちらに来て、これを被ってくれ」
星井が差し出したのは、ヘルメットのようなナニカであった。丁度、いつか講義で見た脳波を測定する装置に似ていた。頭にすっぽりと被るような形状で、そこからたくさんの線が伸びている。
え、まさか?
「これ被るの? え、なにワタシ。脳波でも弄られるわけ?」
「そんなことするわけないだろう」
星井は呆れたように言った。
「これは君の『現存意識』を、別の時間に存在する君自身の身体へ飛ばすための装置だ。これで君の意識を別時間に送り、タイムトラベルをするという具合だ、簡単に言えば」
星井はさらっと言うが、あまりに荒唐無稽な話だ。大体、意識を飛ばすというのはどういうことだ。全く理解が及ばなかった。
いろいろな言葉が頭を飛び回っていた。けれど、気づけばワタシは、装置を被っていた。意識の外で。無意識下でそうしていた。
「うん、ありがとう篠崎。それでいい」星井は、ワタシが被った装置の、あごの辺りに伸びた線に手を伸ばした。必然、ワタシのあごに、首に手が触れることになる。ちょっと動揺した。
「よし」星井は、線、いやベルトを止めただけであった。「これで準備はできた。あとは篠崎、覚悟だけだ」
「えっと、覚悟」いざ、渡航の段階に入ると、少し気おくれが出てきてしまう。けれど、こんなチャンスはない。すごく性急に話が進んでしまっているが、そうじゃないと収まりがつかないと星井も知っているのだろう。お互い、迷いながら時間に追われて歩いてきたから。
「いいよ。飛ぼう」ワタシは無理やり覚悟を決めた。
「そうか。じゃあ、十秒だ。十秒後に飛ぶぞ。あちらに着いたら君は、『十年前の君の身体に居る』はずだ。丁度、君の戻りたい瞬間の五分前の、だ。いいな?」
そういって星井は装置を起動した。ちょっと待ってほしい。
「何で星井はワタシの戻りたい時間を知っているの⁉ 」
「……知ってるよ。『あの日』のことを僕も――」
そこまで聞こえて十秒が。時間が迫ってきた。
視界暗転。
ワタシは気を失ったようにして、そして。
――過去へ。『あの日』へ飛んだ。