心境の変化
2
視界明転。直ぐに感じたのは、蒸し暑さであった。季節感の変化から、星井の部屋とは違う何処かに来てしまったことを悟った。
立ち眩みのような感覚がして足がふらつく。乗り物酔いのような感覚。どうやら意識だけでも酔うことは出来るらしかった。
「大丈夫? 遥」
正面から声。その声に驚き、しっかりと眼を開いて前を見据えた。強い日差しに眩む視界の中で、彼は確かにそこに居た。
「だ、大丈夫だよ、星井……」
星井が。十年前の星井がそこにはいた。他の何でもなく、そして完全に記憶の中に存在していたままの星井であった。記憶とは存外に色褪せないものだと、どうでもいいことを感じていた。
「星井って……?」星井が訝しんだように声を。その声で思い出した。ワタシが星井を、彼を『星井』としたのはこの日の後である。まだこの時は確か、彼は別の。
「い、いや何でもない。ちょっと眩んじゃって。ボケちゃっただけだよ、さ、聡」十年ぶりの音は、どうも発声がし辛かった。
「そう? じゃあ、続けるよ?」
その言葉の意味は一瞬掴みかねた。けれど、星井の言葉を思い出して、そして分かった。ここが、『あの時』の五分前だとすれば、今は、オハナシの途中であるはずだった。
ワタシたちのその先を決めるはずの。
「遥。やっぱり僕は、ここを離れるよ」聡は、やけにハッキリとした声でそう言った。
やっぱり。ここは確かに『あの日』で、そしてここは確かに過去であるらしかった。星井は本当にタイムマシンを作り上げたのだろう。すごいなと、単純にそう思った。
そして、そうと分かったら、することは一つだけであった。星井に、『ワタシの想い』を伝えるのだ。
「……やっぱり、それは変えられないの?」ワタシの口が滑るように動く。「留学、するんだよね?」
「うん。アメリカか、欧州か。留学するつもり」星井は、今とは違って、はきはきと話す。「そうして、いつかタイムマシンを作り上げる。SFでしかない夢物語を現実に出来たらと思うんだ」
「……そっか」そこで言葉に詰まった。なぜか言葉が出ない。あれほど頭の中で、夢で、きっと深層心理でも繰り返したはずのことが上手くできなかった。「そっか……」
「うん……」聡も、そういって無言になってしまった。二人の間には飛行機のエンジン音とセミの求愛だけが。
これは、全く。
記憶の中に残る沈黙と同じであった。全てが記憶通りに進んでいく。ここで、ワタシね聡のことが好きなんだ、とそう言うつもりなのに。言いたかったのに、言おうと思ってきたのに、言えるんじゃないかと思ってきたのに。それなのに、口は、『ワタシ』は全く思い通りにならなかった。
「そ」ワタシの口が動く。滑るように。記憶をなぞるように。
『それなら仕方がない、よね。夢だもんね。かなえなきゃ。頑張らなきゃ。えっと、その、応援するね? いつかそのタイムマシン、ワタシにも使わせてね? 一番にね?』
記憶の再上映。再生と再認。何の冗談だろうこれは。
すべてが記憶のまま進んでいった。知っている、ここからは。聡が、何処か寂しそうに笑い、任せて、なんて言って、二人はそこで別れるんだ。聡は帰って、ワタシは残って立ち尽くして、そして、そう。
「丁度こんな感じ」一人。どれだけ時間が経ったのか辺りが夕焼けに染まっていた。あの日に見た、夕焼けそのものであった。けれど、何故だろうか。記憶のなかの光景よりも遥かに綺麗に見えるのは。
ここまできて、星井が言っていたことが分かった。きっと彼は、こうなることを知っていたのだろう。こうなると分かった上で彼は、『あの日』行きの切符を渡したのだ。それはワタシと約束したからか。何故かは分からない。でも、事実は事実だった。
結局、夢は破れた。破れてそして、でも痛くなかった。寧ろ、何処かスッキリとした。十年間抱えていた後悔に、きっちりと決着がついた。それは、爽快感……いやちょっと違うかな。でもそんなものに似た感覚であった。晴れやかな、そんな気持ちだった。
「不思議だね、星井」そっと呟いた声は、十年後の彼に届くのだろうか。届いたらいい、いや届けたいと思った。「帰ろう。どうやったら帰れるのかわかんないけど」
そう言ったと同時位に、すごく強く引っ張られるような感覚がした。きっと、未来が、『彼が星井である時間』が呼んでいるのだと思った。
帰ったら星井に何を言おう。そんなことを想って。
視界暗転。
時間が迎えに来た。




