186話
八回の裏、斎京学館の攻撃。
ツーアウトで迎えるのは九番の鏡原。
カウントはノーボールツーストライク。
遊び玉はいらない。
三球目、俺と哲也が選んだのはインコースへのストレート。
終盤に来ても衰えない俺の速球に、鏡原のバットは空を切った。
「ストライク!! バッターアウトォ!」
球審が高らかに宣言する。
バットを振り切った状態で、悔しさを顔ににじませる鏡原。
俺はそんな表情を一瞥して、マウンドから降りる。
「あーくそ」
普段なら優越感に浸れるところだが、今はそれどころじゃない。
三塁線をまたいだところで、一度センターにある電光掲示板へと振り返り、点差を確認する。
山田高校は1点、斎京学館には2点。
現状1対2で我が校が1点のビハインド。
次で最終回である九回を迎えるというのに、我がチームは先制した四回以降、1本もヒットを打っていない。
俺と入れ替わる形でマウンドへとあがった男へと視線を向ける。
あと3つアウトを取れば優勝。そんな場面を迎えても男の表情に硬さはない。
川端遊星。どこまでうちを苦しめやがるな。
おそらくあいつは、甲子園に行っても早々居ない投手だろう。あれはプロに行けるレベルのピッチャーだ。
天才で怪物の俺ですら認めざるを得ない。あいつは俺と双璧をなせる好投手だ。
ってか、うちの打線をここまでヒット1本で抑えるとかありえねぇ。あの大輔をフォアボールで一度歩かせたとはいえ2個の三振奪ってるんだぞ。
「だー! くそっ!」
悔しい。このまま力負けしてしまうのが悔しい。
何より、胸の内で敗れた自分達の姿をイメージしてしまう事が悔しい。
まだ負けてないのに、心の奥底ではどこか敗北を予感させている。
唇を噛み締める。前歯は下唇を痛いほどに噛み、このまま続ければ出血してしまう程に強く噛み締める。
「英雄! 早く来い!」
ここでベンチから声がかかった。
俺は一度川端を睨んでから、ベンチへと走る。
「さて、泣いても笑っても最終回だ」
俺がベンチ前で組まれた円陣の輪に加わったところで、佐和ちゃんがそう明るい声で語り始めた。
声は明るく楽しげが、表情はすごく真剣で笑っていない。
「まぁ今更、頑張れなんて言わない。自分達のできることをせいいっぱいやって楽しんでこい!」
そうして佐和ちゃんは真面目な表情を一転させて、くしゃっとした笑顔を見せた。
だが、誰ひとりとして声をあげなかった。
キャプテンの哲也は俯き、誉は視線を逸らし、中村っちは目元を潤わせている。
まだ1イニング攻撃があるのに、誰ひとり勝利への道筋が見えてない。だから絶望している。
「おいおい、お前ら諦めるなよ。野球は九回ツーアウトから言うだろう?」
そんな選手たちの様子を察して、佐和ちゃんはいつになく明るく、そしてどこか適当な感じで鼓舞をする。
きっと佐和ちゃんも諦めてるのかもしれない。じゃなきゃ、試合中に楽しめなんてこの人が言うはずがない。
…だから、俺も無責任な事言ってチームを鼓舞してやろう。
「あぁ…そうだな。佐和ちゃんの言うとおりだ。ここまで来て気負う事なんかねぇ、楽しもうぜ!」
こんなありきたりな励ましで部員たちが元気になるとも思えない。
だけど、どうせ負けてしまうなら、最後までこのチームらしさを貫き通したい。
野球部入部するまで野球をやっていなかった素人ばかりの集まり。野球に命をかけてるわけでもなく、元々軽い気持ちで入部してきた連中だ。
だからこそ、最後まで軽い気持ちで高校野球を楽しみ尽くしたい。
ここで敗れても、俺達は全力を出したって言える。ナイスゲームだと言える。
自分に嘘をつくように、負けた時の悔しさを紛らわすために、そう自分に言い聞かせて、唇を噛み締めた。
「ここまで来て楽しんで終わりにするかよ」
そんな中で恭平が、一人声をあげた。
この回の先頭バッターは恭平。バットを右手にヘルメットを左手に持ちながら、打席へと向かう恭平。
「彼女とイチャイチャするはずだった学生生活を捨ててまで野球を選んだんだ。甲子園優勝しなきゃ割に合わないっつうの!」
一言、恭平はいつものようなテンションで叫ぶ。
相変わらずそんな事しか考えてないのかこいつは。
「俺が出塁して、大輔がホームラン打って! 英雄が抑える! それで県大会優勝だ!」
立ち止まり、恭平がこちらに振り返り、いつものようなバカ丸出しの笑顔を浮かべながら、ヘルメットをかぶった。
なんともまぁ、適当な勝利への道筋だ。思わず呆れ笑いが出てしまった。
「だから英雄! 諦めんなよ!」
恭平は左手で俺を指差しながらニヤリと笑う。
見透かされていたか。まぁあいつとは考え方がどこか似ている節があったからな。俺があいつの言動を予測できるように、あいつもまた俺の考えを予想できるのかもしれないな。
「あと大輔も、俺が出塁したホームラン打てよ!」
「ホームラン打ったらハンバーガー奢れよな!」
「任せろ! 好きなだけ奢ってやるぜ!」
恭平も相変わらずだが、大輔も相変わらずだ。
なんだ。勝手に諦めていたのは俺だけなのかもしれない。
「…まだまだだな」
今日の試合、俺の未熟さを何度も痛感させられた。
この一年間、精神的に一回り大きくなったと自負していたが、心の弱さはまだま残る。
だけど、それを補う仲間がここにいる。
まだまだ怪物になるのは遠いな。
「…怪物は一日にして成らず」
佐和ちゃんの考えた造語だが、案外深い意味があるのかもしれんな。
…でもやっぱり、ちょっと中二臭いから、口にするのは金輪際やめておこう。
「よっしゃ! 俺が決めてやる! 見てろぉ!」
バカ騒ぎしながら打席に向かう恭平。
あいつのバカハイテンションのおかげで、チームの空気が一気に変わった。
俯いていた哲也の顔があがった。視線を逸らしていた誉はいつもの爽やかスマイルを浮かべるようになった。目元に涙を溜めていた中村っちは涙を拭き、泣き笑いのような笑顔を浮かべている。
「任せたぞ恭平!」
そして俺も、胸の内にあった敗北への不安が消え失せて、高校一年の頃からバカやり続けた恭平へとエールを送る。
…今日の恭平はずっとあいつらしさが無かったが、今の恭平は違う。
今の恭平なら、きっと結果を残してくれるはずだ。
そんな期待感が胸を膨らませた。
最終回、山田高校の攻撃。
ベンチからライトまで走ってきた俺は、定位置付近で立ち止まりながら、バックスクリーンへと視線をあげた。
現在試合は俺たち斎京学館が2対1で勝利している。
ここまで山田高校のヒットは佐倉英雄が放った1本のみ。遊星はうざいぐらいに絶好調だ。
打順は一番から始まるが、今日の遊星の調子なら三村大輔に打席を回さない限り十分抑えられるだろう。
あとアウトは3つ。それで俺達は三年連続の夏の県大会優勝を果たし、三年連続の夏の甲子園出場を決める。
去年の夏の優勝時も、俺はこうしてグラウンドに立っていた。あの時あった緊張はなく、どこか落ち着いている。きっと今マウンドにいる遊星も同じことを思っているだろう。
…いや、あいつは何も考えていないだろう。今はさっさと勝利して、俺の姉ちゃんに優勝報告をしたいとか思ってるんだろうな。
改めて、あと3つのアウトで優勝が決まる。
今日の遊星の調子なら余裕で3つのアウトを取れるだろう。
だというのに…。
嫌な予感が生まれる。
試合前、いや今大会の山田高校の快進撃から感じていた嫌な感覚。
一年足らずで我が校に匹敵、下手すりゃ越えるほどの力をつけた不気味なチーム。知れば知るほどに底が見えなくなっている異常な学校。
不安や恐怖が、俺の体を駆けていく。きっと底無し沼の前に立ったとき、俺は同じ感覚を味わうのだろうな。
…何を不安に感じているんだ俺は。
たとえここで逆転されても、俺たちには裏の攻撃がある。
九回の先頭バッターは一番の浅海。こちらも好打順だ。十分サヨナラを狙える。何よりまた佐倉英雄と戦える可能性が浮上する。
だから逆転されたところで落胆する必要はない。
県の王者として、どっしりと構えていればいい。
九回、山田高校の攻撃が始まる。




