162話
七回、リリーフエース吉兼も降板し、マウンドに上がったのは三番手ピッチャー蔦谷。
昨日の作戦会議では名前すら上がらなかったピッチャーだ。
普段は五番レフトで出場している。今大会はまだノーヒットだが、昨秋、今春と共にバッティングで結果を残しており、一時は伊良部を差し置いて四番を任されていたはず。
今日の試合だって、一応警戒していたバッターの一人だった。
だが、ピッチャーで良いという噂は聞かない。
「佐和ちゃん、あのピッチャーについて情報ある?」
ベンチから投球練習をしている蔦谷を見ながら、チームで一番情報を持っている佐和ちゃんに聞いてみる。
「あるが、教えたところで何も変わらない」
なんだそれ? もしかして教えたところで打てない魔球でも持ってんのかあいつ?
「ストレートとスライダーとカーブ。どれも二流以下だ。吉兼にも斯波にも劣るクソピッチャーだ。だから昨日説明しなかった。した所で攻略法はいつも通り打てしかないからな」
佐和ちゃん、いくら相手チームに聞こえないからって、審判の耳に届かないからって、もうちょい言葉を選ぼうぜ。相手高校生だぞ?
でもまぁクソピッチャーか。なら攻略は容易か。
なによりこっちはすでに逆転している。リードしているのであれば、我が校が負けることはない。俺がマウンドにいる限りな。
蔦谷は確かに斯波、吉兼に劣るピッチャーだった。
見事に我が校の打線に掴まった
六番中村っちが早速初球をレフト前に弾くと、続く秀平もまた初球打ちでライトの深いところまで運ぶスリーベースヒットであっという間に追加点が入った。
そうして次の八番哲也がスクイズを決めて、三塁ランナー秀平を返して3点差に広げた。
ツーアウトになり打席には誉。
助っ人時代から今まで、一度もヒットを放っていない誉。ベンチの選手達からも煽りにも取れる声援が彼に送られる。
「誉! ジュースおごってやるからヒット打てよ!」
「誉ー! ヒット打ったら焼肉おごってやるぞー!」
こいつら、誉がヒット打たないからって煽りすぎだろうが。
「なに!? ヒット打つだけで焼肉おごってくれるのか!?」
そして何故か食いつく大輔。
お前は飯にがっつき過ぎだ。もうちょい試合に集中しろ。
ベンチが変に盛り上がる中、哲也はキャッチャー防具をつけている。
腰を下ろし、両ひざにレガースを装着していく哲也。
そんな彼のもとに俺は近づいた。
「哲也、サイン確認していいか?」
「え? 今更?」
俺の言葉に哲也は疑問の声をあげた。
仰るとおり、次で最終回。今更感はあるが、これだけは一応やっておきたい。
「アレだよアレ。アレのサインを確認しときたい」
「…あぁ、アレか。もう使用するの? 前は斎京学館戦まで取っておくって言ってたのに」
両膝にレガースを付け終えた哲也は立ち上がり、今度は胴体につけるプロテクターを身にまとう。
「さすがにぶっつけ本番で、斎京学館に使うのは不安だ。この試合でも投げられそうな場面が来たら使ってみたい」
「…そっか。分かった。えっとサインは…」
ここでベンチから変な歓声が起きた。
視線をグラウンドに向ける。
ちょうど打球は、セカンドの選手の目の前に転がっているところだった。誉の奴、また凡退に終わったのか。
「誉! グラウンド百周しろ!」
「素振り足りねぇんじゃねぇのか!」
お調子者の恭平や中村っちが、ここぞとばかりに誉に笑顔で野次を飛ばす。
「ってことで哲也、最終回も頼むぞ」
「え、サインは帽子で良いんだよね?」
「あぁ!」
聞いてくる哲也に俺は返事を返して、ベンチを飛び出した。
さぁ、最終回だ。
そうして最後の丘城の攻撃、九回の表が始まった。
5対2で迎えた最終回。
「最終回! 最後まで締まってこぉー!!」
哲也が笑顔で声を張り上げた。いつもよりも明るく元気な声だ。
グラウンドに居る七人の選手たちは彼の声掛けに返事をする。
俺はロジンバックに触れていたし、精神統一中だったので返事はしなかった。
≪丘城高校、選手の交代をお知らせします。一番垣本君に代わり、ピンチヒッター高尾君。ピンチヒッター高尾君≫
おっと、早速代打か。
まぁ一番垣本は今日は3の0と完璧に俺に抑え込まれている。
それに左バッターだ。相性という点で見ても、右バッターを代打で送ってくるのは常套手段か。
「しゃあああ! 来い!」
右打席に入り、足場を固め、ホームベースをバットの先で勢いよく叩くと、代打高尾はバットの先をこっちに向けて叫んだ。
いかつい顔をしている。なんだろう骨格がごつい。それに袖から出ている腕もたくましい。こりゃ相当筋トレをこなしているな。
それに体格がでかい。見た目通りなら典型的なパワーヒッター。
初球はストレートから入る。
アウトコース低めへのストレート。
まっすぐに哲也にミットへと向かうストレートに、相手バッターのバットは空を切った。
まずはワンストライク。哲也から返球を受け取り、大きく息を吸い込んだ。
そうしてゆっくりと息を吐きながら、余分な物を吐き出していく。
精神はどんどん研ぎ澄まされ、集中力が高まっていく。
夏の暑さも、相手校の意地も、応援団の声援も、ここではまったく不要なものだ。
二球目、今度はインハイへのストレート。
外から内、低めから高め。リードの基本中の基本。
相手バッターの今度のスイングは、バットにボールを掠らせるも、打球はバックネットに直撃するファールボール。
これで追い込んだ。
返球を受け取り、もう一度大きく息を吸い込み、ゆっくり長く吐く。
三球目、俺と哲也が選んだのはチェンジアップ。
二球ストレートからの緩急差あるこのボールに、相手バッターのバッティングフォームは簡単に崩れ、見事タイミングを外した上で打たせた。
「オッケー!」
打球はセカンド誉の守備範囲。
陽気な声を張り上げた誉は、素早い反応でボテボテのゴロに突っ込み、足幅を合わせるステップからの捕球、そこからのスローイング。
一連の動作に何一つ不純物はなく、まるで流れ作業のようにこなしてアウト。
相変わらず守備面に関しては文句のつけようのないプレーをしてくれる。
「ナイスセカンド!」
「おぅ! 守備なら任せろ!」
誉、守備で助けてもらってるから、こんな事思いたくないんだが…。
いい加減ヒット打てこの野郎、マジでグラウンド百周させるぞ。
なんにせよ、まずワンアウト。
「おっしゃあ! ワンアウト! あと二人!」
恭平が元気良く言う。あと二人で勝利か。
妙に長く感じた今日の試合。それもあと二人で終わる。
≪二番ファースト枝光君。ファースト枝光君≫
「しゅあああ!!!」
元気良く吠えながら打席に入るのは二番の枝光。
歯を食いしばり、こっちを睨みつける枝光。その目は諦めておらず闘志に満ち満ちた良い目をしている。
諦めの悪い奴だが、こっちとしては、最後まで気持ちを張って投げられるからありがたい。
まぁ枝光が諦める理由はないだろう。彼の後ろには伊良部がいる。チャンスで奴に回せばきっと得点を入れてくれると信じている。
だからこそ、3点ビハインドの最終回でも、彼は諦めようとしない。
いかに伊良部がチームから期待されているのかが分かる。
さすがにもう二度と伊良部とチャンスの場面で対戦などしたくはない。
残りの二人もパパッと抑えてマウンドを降りるに限る。
初球、投じたのはインコースへのストレート。
「あ」
思わず変な声が漏れた。
投じられたボールは高めに浮いてしまった。
それを枝光は迷わず打ち抜いた。
打球は三遊間。
中村っちが打球に反応するも遅い。彼のグラブの下を抜けて転がっていく。
「オーケェェェェェ!」
恭平の叫び声。
持てる力を出して、恭平は打球に食いつくように逆シングルでキャッチし、そこから体勢を立て直して投げる。
早く低い送球がファーストへと向かう。
必死に走る相手バッター。秀平は両足を限界まで開き、ショートバウンドになった恭平からのボールをファーストミットで受け取る。
同時に相手バッターが一塁ベースへと頭から滑り込んだ。一塁審判の判定に球場の注目が集まる。
「セーフ!」
おぉい! 思わずすっ転びそうになった。
一塁審判の判定に三塁側、丘城高校応援団が大いに沸いた。
「わりぃ英雄!」
「気にすんな! むしろキャッチしてくれてサンクス!」
謝る恭平に俺は左手を軽くあげて応えた。
むしろ今の打球を外野まで運ばせなかった恭平に感謝するしかない。
しかし、高めに浮いてしまったな。
回が増すにつれて、だいぶ低めに集まるようになっていたんだがな。
まだまだ調子が上がっていない証拠だ。
これでワンアウト一塁。
俺は一度、ネクストバッターサークルに腰を下ろす伊良部へと視線を向けた。
褐色の肌に、彫りの深い顔。大きな目に、ほっそりとした頬。
…まさに南国のイケメンだ。
ゲッツーにしないと、奴との対戦が確定する。
なんだろう、対戦したくねぇってのに、ピッチャーとしての自分が対戦したいと胸の内でウズウズしている。
…いや、ダメだ。伊良部に得点を許せば、相手打線に勢いを与えかねない。
ここはエースとしての自分よりも、チームとしての自分を優先する。
三番の赤根が右打席へと入った。
今大会今日のも含めると三つの送りバントを成功させている三番バッター。
3点ビハインドで無ければ、ここは確実に送ってきただろう。
赤根はバントの構えをしてきた。
おいおい、ここでも送りバントか。どんだけ伊良部にチャンスを回したいんだよお前。
いや、ここはチームスタイルを貫いたとも言えるか。
伊良部の前でチャンスを作り、伊良部でランナーを返す。
ここまで丘城高校が勝ち進んできたチームスタイルであり、これしか丘城が勝つ手段はなかった。
だからここでも、この選択を選ばざるを得ない。
優れた選手を揃えながらも伊良部に頼ったチーム。
佐和ちゃんも言っていたが、このチームが強くなれないのは相手の監督の采配ミスな気がする。
「…まぁ良い」
今はそんな事を考える必要はない。
確実にアウトがもらえるなら、さっさとアウトをもらってしまおう。
ツーアウト二塁で伊良部か。ホームランを万が一打たれても1点リードあるし、気持ち的には楽に対戦できそうだ。
サインはインコースにカットボール。
バントをさせにくくする哲也のリードに頷き、俺はクイックモーションからカットボールを放った。
赤根は放たれたカットボールの勢いに逆らわず、丁寧にサードの正面にボールを転がす。
上手いバントだ。
さすが何度も送りバントをさせてきているだけある。貫禄あるな。
「サード! 一つ!」
中村っちは俺が投げると同時に走り込んできている。
すでに打球のそば。ここは確実に一つだ。
「一つ一つ!」
哲也からもそう指示が飛んだ。
たとえ伊良部を迎えても、十分勝てる点差だ。
中村っちが、転がるボールをグラブを使わず右手で掴んだ。
そうして、二塁に投げた。
「はぁ!?」
中村っちの一連の行動を見て、俺は変な声をあげた。
哲也も呆気に取られた表情を浮かべている。
すぐさま二塁へと振り向く。
ちょうど二塁審判が両手を左右に広げた瞬間だった。
相手スタンドからの歓声。
電光掲示板にはFCと言う文字が点灯された。
フィルダースチョイス。日本語で言うなら野手選択。略して野選。
まさかの中村っちが、送球する場所を間違えるとは。
ここで哲也はタイムを取り、内野陣を集めた。




